巻き戻ったのはたった一日だった。
なにをしていても落ち着かず、今すぐにも王宮を――彼の元を訪れたい衝動を抑えながらラナベルは夜を明かした。
そしてイーレアが死んだとされるその日、本来なら二人でお茶を楽しんでいたその二時間にレイシアはやってこなかった。
ああ、よかった。
きっと今ごろ、レイシアは母のそばにいることだろう。
安心する一方で、本来なら彼が座っていた無人のソファを眺めていると、ほんの少し淋しいような不思議な心地がした。
この一日ラナベルの張り詰めた雰囲気のせいか、邸の中は静かなものだ。
アメリーはときおり気遣わしげに見てくるがなにも言わないし、異変に気づいているだろうダニアも陽気に挨拶をしたあとは日課の鍛錬に勤しんでいる。
ダニアの鍛錬姿を窓から見下ろしていると、気づいた彼が手を止めて大きく両手を振ってきた。
ニコニコした愛嬌のある姿はいつものことだが、こちらを慰めるような気遣いの気配を感じ、そんなふうにさせている状況に申し訳なくも思う。
そろりと手を振り返してから、ふと空を見上げた。
窓ガラスの向こうの陽差しは冬とは思えない温かいもので、今の自身の心情とは正反対だ。
そのせいか、もの淋しい感情がよりくっきりと自分の中に浮かび上がる気がした。
(殿下は今どうしているかしら)
イーレアのそばにいるだろうか。それともこんなときでさえ遠くから眺めて見守っているだけなのか。
床に伏せ、これから死ぬと分かっている母の姿を、遠目にぽつりと佇む姿が浮かぶ。どうしようもなく彼のもとに駆けつけたくなった。
しかし、ラナベルが行ったところでなんになるかと思いとどまる。
(もし、本当の婚約者だったなら)
愛し合い、互いに慈しんで尊重し合えるような本物の関係だったなら。そうだったら、心配だと駆けつけ尻込みする彼の背中を後押しして見守ることができたかもしれない。
だが、そんな大胆な行動に出られるのは愛し愛されているという自信と気安い関係があるからだろう。
世間的には婚約したといえ、その実ただの協力関係であるラナベルにはとうてい許されない行動だ。
ガラスに映る自分はひどい顔をしていた。
傷ついたように歪んだ表情に自嘲しつつも、慰めるようにそっと窓に触れる。
冬らしい冷えた感覚が指先から伝い、その冷たさがどこか肩から力を抜いてくれる。冷静でいさせてくれる。
(……せめて、満足のいく形でイーレア様を見送れますように)
こつりとガラスに額を押し当て、少しずつ頭の冷えていく感覚に身を任せるようにラナベルは目を閉じた。
◆ ◆ ◆
側妃であるイーレアの死は翌日には大々的に公表され、すぐに貴族だけでなくあまねく民衆たちに周知された。
葬儀においては本人の希望だということで、王族――つまりは親族のみでひっそりと弔うのだという。
イーレア本人の意志というのが本当かどうかは分からない。
一度会ったときの状況を考えるに、あの状態の彼女に自身の死後や弔いを気にする余裕があったとは考えにくい。きっと国王が決めたことなのではないだろうか。
王妃や国王であれば盛大な国を挙げての見送りをするだろうが、側妃のうちの一人となるとそうもいかないのだろう。
しかもイーレアは国王が周囲の反対を押し切って迎え入れた異国の平民だ。
果たして、王族のなかに彼女の死を本当の意味で悼み悲しんでいるのはどれだけいるだろう。
ナシアスはきっと誰が死のうとその死を悼むだろう。
ローランやマイサもレイシアには気安かったから悲しんではくれるだろうか。……いや、二人の気安さはレイシアへ向くものだから、イーレアの死というよりは残されたレイシアを憐れみそうだ。
よくよく考えると、グオンもそちら側に思える。
イーレアの懇願に適当な態度で裏切りを示した国王は、心から悲しみはしないだろう。王妃やもう一人の側妃グレイスなんて以ての外だ。
こうして考えてみると、イーレアという一個人の死を真の意味で嘆くのはレイシアだけかもしれない。
そう思い至って、胃の底がぐっと抑えられたような重苦しい痛みを感じた。
きっと葬儀が無事に終わって喪が明けるまで、レイシアがここに来ることはないだろう。
彼はその悲しみを一人で抱え込むのかと思うと、今すぐにでもレイシアを抱きしめて心のままに泣かせてあげたくなる。
シエルの葬儀にも出られず、一人部屋で悲しみと絶望にくれた日々を思い出し、余計に強くそう思った。
いっそのこと「婚約者」という肩書きを大胆に使って王宮へ乗り込もうか。
きっとはたから見れば婚約相手を慰めに来た女にしか見えない。不審に思う者もいないはずだ。
一度考えつくと、とてもいいアイデアに思えた。
実際に行動に移そうかとした寸前、最後に邸を去って行ったときの真っ直ぐな強い視線を思い出して我に返った。
一瞬で冷えた頭に浮かぶのは、レイシアがラナベルを見てどんな反応をするだろうという恐れだった。
再び母との時間が与えられたことへの感謝か。余計な世話だと蔑むか。それとも約束を反故にされた憤りか。
きっといい反応はしないだろうと、なんとなしに思った。
そしてそんな彼を想像すると、途端に足が動かなくなる。
結局ラナベルは自室のソファにかけてじっとしていることしかできないのだ。
せっかくアメリーが淹れてくれた紅茶がほとんど残ったまま冷え切った頃、誰かが部屋を訪れた。
(アメリーかしら)
時間を見計らって淹れ直しに来てくれたのかもしれない。
そう思って深く考えずに入室を許可した。
「失礼いたします。あの、お嬢様……」
案の定入ってきたのはアメリーだったが、どこか戸惑いをのせた瞳が揺れている。
彼女がなにか告げるよりも早く、横から伸びた手がアメリーを押しのけた。
長身の男だ。長い丈のマントですっぽりと身体を覆い、深くかぶったフードで顔は隠れている。
反射でダニアを呼びかけた口がピタリと止まる。
訝るでもなく純粋に驚くことが出来たのは、そんな身なりでも彼が誰かすぐにわかったからだ。
少しくたびれたマントは、
ズカズカと大股な早足でラナベルに向かった男――レイシアを前にラナベルは驚き、細くなった声で彼の名を呼んだ。