グオンからの報せで動揺したレイシアの手からカップが滑り落ちる。テーブルの角に当たって盛大に砕けたが、それを気にとめる余裕のあるものはいなかった。
レイシアもラナベルも、そして知らせに来たグオンさえもその訃報に血の気を引かせていた。
嫌な静寂が落ちる。テーブルに伝った紅茶がポタポタと滴る音さえ聞こえてきそうなほどだ。
レイシアが喘ぐように言った。
「母上が、死んだ……?」
「はい。さきほど王宮から早馬が……ここ数日寝ていることが多かったですが、侍女が様子を見に行ったときにはすでに息をしていなかったそうです。すぐ戻るようにと……」
オウム返しに訊くことしかできないレイシアは、頭が回っていない様子で立ち尽くした。
一拍のうち、本能に突き動かされたような俊敏さで弾かれたように部屋を飛び出そうとした。
グオンを押しのけるように扉に手をかけたところ、彼はふとなにかに気づいた様子でピタリと立ち止まる。
どうしたのかと思ったのも束の間、彼はいきおいよく振り返って早足で戻ってくる。状況に追いつかない頭で、ラナベルは何事かと咄嗟に身構えた。
「
両肩を強く掴まれて言い聞かせるように吐かれた言葉に、ひゅっと息が詰まった。
「戻らなくていいからな」
分かったな、ラナベル。
こんなことをしている場合ではないはずなのに、肩を掴む手は強く、その顔はどこまでも真剣だった。
あまりの圧に言われたことを理解する前につい頷いてしまう。レイシアはそれを見届けると「約束だぞ」と言い置くとようやく走り出した。
部屋に一人残されたラナベルは、呆然とソファにかけていた。
アメリーが割れたカップを片付けたことにさえ気づかず、しばらくしてからやっと状況を飲み込んだのだ。
(イーレア様が亡くなった? こんなに急に?)
たしかに歩けるのが不思議なほど細い体で生気はなかった。だが、本当に亡くなってしまったのだろうか。
にわかには信じられない。けれど、なによりそう思っているのはレイシアのほうだろう、と思うと胸が締め付けられる。
――もしかしたら俺の本当の望みは……
ラナベルだからと明かしてくれた胸の内が、ふと耳の奥に返ってくる。
(最近は会えていないって言っていたのに。それなのに、こんな……)
こんなことってあるだろうか。
レイシアの心情を思うと息が詰まる。頭を抱えるように項垂れたラナベルだったが、不意にレイシアの言葉を思い返した。
――戻るなよ。
「あ……」
そうよ。その手があったわ。むしろ、なぜいの一番に思い出せなかったのだろう。
気づいたラナベルは、慌てて立ち上がると飛びつくように机の引き出しから短刀を取り出した。
(時間を戻ればいいんだわ……!)
そうすればイーレアの死を覆すことはできなくても、レイシアが最後に母と会うぐらいの時間は作れる。だって、彼も巻き戻る前の記憶を覚えていられるのだから。
ああ、よかった。
自分にもできることがある。それが嬉しくて、高揚とした気持ちで短刀を鞘から引き抜く。
慣れた手つきで刃を首に当てる。これから死ぬには似つかわしくないはにかみで刃を引く直前。
――戻らなくていいからな。
意気揚々と食い込むはずだった刃が止まる。ラナベルを引き留めるようにレイシアのあの真剣な声が木霊する。一緒に強い眼差しを思い出して、躊躇うように短刀を持つ手が震え始めた。
(……戻らないと。殿下は優しいから私が自分のために死ぬことを良しとできないだけよ)
それなのに、どうしてこの手は動かないんだろう。
彼の懇願するような手の力や射抜くような必死な眼差しを思い出すと、途端にラナベルは自分の足が竦む気がした。
死ぬことは怖くない。今まで数え切れないほど死んできたし、いっそ巻き戻れないとしても自分は晴れやかな気持ちで首を切ることができると、そう思っていた。
それなら、この身体が竦むような薄ら寒い感覚はなんだろう。
剥き出しの刃を手に、ラナベルは半ば放心したように考えこんだ。
しばらくして、レイシアとの約束を破ることに恐怖を覚えているのだと気づいた。
今ラナベルが死ぬことは、彼を裏切ることになるのだ。
(戻らないほうがいいの? 本当に?)
そんなことあるわけがない。
ラナベルだって、たとえあの日のシエルの死が覆らないと分かっていてももう一度会いたいと願うだろう。一目見たい。声をかけたい。そう望むのは当然だ。失うと分かっているのならばなおさらに。
けれど、レイシアの言葉を裏切って戻った先で、彼はどんな目でラナベルを見るだろう。
想像すると、足場をなくしたようにゾッと身の毛がよだつ。
だが、約束とともに思い出すのはレイシアのささやか過ぎる望みで――。
「………レイ、ごめんなさい」
約束を違えたと罵られてもいい。どうかあなたには後悔のないように家族と向き合って欲しい。
ぽつりと落ちた謝罪を最後に、ラナベルは喉元に刃を食い込ませた。