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第56話


「急に来られるから何事かと思いました」

 自室にレイシアを迎え入れ、向かい合うようにソファに腰かけて早々にラナベルは言った。

 ずいぶん素っ気ない声音になってしまった気がする。先日のことを思い出していた気恥ずかしさからなのだが、そんなこと知りもしないレイシアは罰が悪そうに眉を落とした。

「先触れもなくすまない……その、ラナベルのことが心配だったんだ」

「……いえ、殿下の謝ることじゃありません」

 そうだ。彼に謝らせるなんて自分はなにをしているのか。

 落ち込んだ様子のレイシアに一瞬で頭が冷える。

「私が前に先触れなど気にしないで欲しいと伝えたんです。本当に気になさらないでください。……申し訳ありません。先日色んな失態を見せてしまったから恥ずかしくて失礼な態度をとりました」

「いや。いいんだ……俺は気にしていないからラナベルもそんなに気に病むな」

「ありがとうございます」

 あからさまにほっとした様子のレイシアに、自分の大人げなさで胸がちくちく痛む。

 忘れていた気恥ずかしさが蘇りかけ、でも今度は顔に出さなかった。

 あの日のキスは泣きすぎたラナベルを見ていられなくて慰めただけ。きっと深い意味なんてないのだ。だから気にしすぎてはいけない。そうやって心を落ち着けた。

 二人の間の空気が和んだところで、アメリーが用意してくれたお茶を片手にぽつぽつとお互いの近況を報告し合う。

 せっかく訪ねてきてくれたのだから、なにか進展があったものと思ったが、そうではないらしい。

 本当にただラナベルの様子を見に来てくれただけのようだ。

「グオンには俺の公表した巻き戻りがラナベルの権能だったことは教えた。今は一緒に当時の状況を洗い直して物証がないか探している――ラナベルのほうはどうだ?」

 あのあとなにか訊かれなかったか?

 心配そうなレイシアの視線に、ラナベルは苦笑して首を振った。

「勝手にすみませんがアメリーとダニアには詳しい事情を話そうと思いました。でも、二人ともわざわざ言わなくてもいいと……」

「そうか」

「はい。その言葉に甘えてしまいました」

 この状況で一番危険なのはレイシアだ。狙われるときのことも考えて護衛のグオンには詳細な情報を渡しておいた方が安全だろう。

 ラナベルのほうはそこまで切羽詰まっているわけでもないし、積極的に話したい話題でもないので二人に甘えてしまったのだ。

 死んだら巻き戻れるということは、死んで初めて発覚する力だ。それに気づかない二人ではないだろうから、言葉にするのは本当は気が重かったのだ。

 ――あ、ああ……お嬢様、ラナベルお嬢さまああ!

 脳裏には、いつの日か聞いたアメリーの悲鳴じみた呼びかけが響く。

 どくどくと流れ出る血の動きだけが鮮明だった死の間際。

 見たこともないほど狼狽えてラナベルの傍らに崩れ落ちたアメリーは、喉がすり切れたような声で何度も何度もラナベルを呼んでいた。

 アメリーのほうが死んでしまいそうな顔色だった。

 あの記憶が今も焼き付いていて、どうにも彼女には口が重いのだ。

 少しの沈黙のあと、不意に口を開く。

「あのあと何度も試してみましたが権能が使えないんです」

「インゴールは願いが大事だと言っていた。治したいと、ラナベルがそう思えたときに使えるはずだ。そう重く考えなくても大丈夫さ」

「……今の私は、みんなを治したいとは思っていないのでしょうか」

 テトの指先に滲む血を見ると胸が痛んだ。その傷を取り除いてあげたいとも思う。それなのに、どうして権能は上手く発動しないのだろう。

 レイシアが答えを持っているわけじゃない。それでも彼はラナベルの意地の悪い問いにも真摯に答えてくれる。

「今はきっと、妹を救えなかったのに他者のことは救えるという状況に向き合う心の余裕がないんだろう。でも、本当にその力が必要になったとき、お前ならきっとなりふり構わず治療しようとするだろう? 必要なときに使えるならしれでいいんじゃないか?」

 レイシアの言葉は甘い毒のようだ。

 差し出された逃げ道を前に、心がほんの少し軽くなる。

 肩の力が抜けたからだろうか。なにより、これまで明け透けに心情を明け渡してきたレイシアが相手だからこそ、ついつい口が軽くなってしまった。

「神殿から帰ってきて、母と顔が合わせられないんです」

 シエルは寿命だったのだと、ラナベルの祝福に限らず死んでしまう運命だったと告げたら――そうしたら母の自分を見る目は変わるだろうか。

 もしかしたら彼女に焼き付いたラナベルへの怒りや恨みが綺麗に消えて、ごめんねなんて謝罪が出るかも。

 ただ純粋に二人でシエルの死を悲しむことができるんじゃないか。

 そんなこと一瞬でも考えてしまった自分に愕然としたのだと、ラナベルは正直な気持ちをぽつぽつとレイシアに吐露した。

 散々弱いところも泣き顔もみせている彼だから、こんなことを言えた。

 レイシアは軽蔑することも呆れることもなく、むしろ理解してくれたように頷いて見せた。

「俺も最近は母上とは顔を合わせていないな……豊穣祭や神殿だったりと忙しかったし、母上の体調も良くなかったからな」

「体調を崩されているんですか?」

「最近はずっと床に臥せっているらしい。まあ、もともと歩けるのが不思議だと言われるほど弱ってはいたからな」

 食事をとらなくなって長いんだ、とレイシアはその瞳に淋しさや痛ましさを浮かべて薄く微笑んだ。

「以前は遠目ではあったが毎日のように母の姿を見ていたし、そのたびにいつだって新鮮な怒りを思い出していた。仇を必ず見つける……兄のために、母のために、そうしなければならないと思っていた」

 でも、こうして離れてみて思うのだと続ける。

「仇を見つけて少しでも母の憂いを晴らせれば、母上はもう一度俺のことを見てくれるんじゃないか……もしかしたら俺の本当の望みはそれなんじゃないかと思ってしまった……気づいてしまったんだ」

 以前、レイシアの話を聞いて、仇を見つけることが目的のようだと感じたのは正しかったらしい。

 兄を殺した者への憎しみはもちろんあるだろう。だが、子どもだったレイシアの心により大きな傷として残っているのは、兄も母もいっぺんに失ったことへの喪失や孤独なのかもしれない。そばにいるのに自分を見てくれない母に対するやるせなさだったのかも。

「復讐がしたくて探しているわけではないと、お前とこうして穏やかに過ごしていると余計に強く思う」

「……私との時間が殿下を少しでも心安らかにしているのであれば嬉しいです」

「こんなことを言えるのはお前だからだ。ラナベル」

 母を想い切なく揺れていた瞳が、不意にラナベルをひたと見る。

 その眼差しに言い知れる熱を感じてしまい、どうにも鼓動が駆け足になる。そういえば、レイシアはいったいいつからあんな親しげな目でラナベルを見るようになったのだったか。

 出会った頃の警戒と疑心が詰まった鋭い眼光が遠い昔のようだ。


 二人の間に流れる時間がひどくゆったりに感じる、そんな穏やかな時間だった。

 しかし、駆け込んで来たグオンによって破られた。

「レイシア殿下! 大変です、イーレア様がお亡くなりになったと王宮から早馬が!」


 その報せは二人の息を止めた。


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