陽の差した窓辺に腰かけて本を読んでいると、パタパタと軽い足音とともにテトが駆け込んで来た。
「お嬢様~! また指を切ってしまいました!」
「あら大丈夫? ……そんなに深くはないみたいね」
ラナベルは本を閉じて向き直ると、鼻をすするテトの手をとる。
彼女の幼い指先には小さな傷ができていて、線を引くように滲んだ出血を前に緊張からこくりと唾を飲んだ。
「アメリー、短刀を」
「はい」
すでに準備していたアメリーから短刀を受け取ると、自分の手のひらにスッと刃を走らせる。
大した力を入れずとも、刃は簡単にラナベルの白い手に血を滲ませた。
正面でそれを見ていたテトは、まるで自分が怪我をしたように「いっ!」と悲鳴を上げて固く目を瞑っていた。アメリーもあまりいい気持ちではないのか、渋い顔でラナベルの行動を見ている。
当人であるラナベルは顔色一つ変えることはない。むしろ、じんじんと血を押し出すような痛みを懐かしいとさえ思っていた。
手のひらを伝う血を用意してあった小皿に落とし、それをテトに渡す。
受け取ったテトは、慣れたようにその少量の血を舌にのせて飲み込んだ。
「……傷はどう?」
「うーん……ダメみたいです」
自分の手をまじまじと見ていたテトが、シュンと落ち込んだように告げる。ラナベルも身体の奥から詰めていた息を吐いた。
「またダメだったのね……ごめんなさいテト。毎回こうして手伝ってもらって」
「いいえ! 私のドジは前からなんでお嬢様はなんにも悪くないですよ!」
むしろ治そうとしてくれてありがとうざいます!
ぺこりと頭を下げたテトは、「それじゃあお仕事に戻ります」とこれまた元気よく持ち場へと戻った。
「傷はちゃんと消毒してね」
小柄な背中に向けたが、届いている気がしなかった。
「アメリー。あとで救急箱を持っていってあげて」
「かしこまりました……あの、お嬢様」
「ん? どうしたの?」
おずおずと呼びかけてきたアメリーはラナベルを心配しているようだ。じっと見てくる眼差しには焦燥にも似た切実さが宿っている。
「権能が使えなかったとしても、今まで十分に生活できていました……どうか気を落とされないでください」
「……うん。ありがとう」
「私はお嬢様だからこそこうしてお仕えしています。権能があるからじゃありません……レイシア殿下だって、きっと同じことを言ってくださると思います」
「……そうね。ありがとう」
レイシアの名前にギクリとしつつ平静を装う。それでも長年ラナベルを見てきたアメリーには隠し通せなかったのか、訝しげに見られてしまった。
「お嬢様? どうかされましたか。殿下となにか?」
「ううん。大丈夫よ気にしないで」
「ですが、お顔が赤いようですが」
「大丈夫。ほら、早くテトのところに救急箱を持っていってあげて」
心配と怪訝さを混ぜたアメリーを、半ば追い出すようにテトのもとへ見送る。
一人になった部屋で、ラナベルは頬に手を当てながら我知らずため息をついた。
さっきまでの権能への落胆とも違う、どこか気恥ずかしさが宿るものだ。
「どんな顔で別れたんだったかしら」
肘をついた両手で口許を覆いながら、ラナベルは神殿に向かった日のことを思い返す。
帰りの馬車の中で思わず泣いてしまったラナベルを、レイシアは優しく慰めてくれたのだが……。
「どうしてキスなんて……」
キス。そうレイシアとキスをしてしまったのだ。
しかも一回じゃない。慰めるような労るような、そんな子どもみたいな可愛らしいキスを何度も送られた。
ラナベルはそれを止めるどころか、目を閉じて心地よく受け入れていたのだ。
その挙げ句、泣き濡れた瞼の重たさに負けて寝てしまい、気づいたら自室で横になっていた。目が覚めてまずアメリーに訊ねると、なんとレイシアが部屋まで運んでくれたという話だ。
「子どもみたいに泣きわめいて慰められて……しかも泣き疲れて寝て介抱まで……」
成人したての青年にそんな世話を焼かせてしまったと、ラナベルの顔が羞恥で赤くなる。
「一体どんな顔で会えばいいの」
手のひらで顔を包んだままテーブルに突っ伏す。じっとしていることができず、顔を伏せたままパタパタと足先を意味もなく動かしてみたが、恥ずかしさによる胸の疼きは消えてくれない。
天板の冷たさで頬を冷やしながらのどかな外の景色をしばらく眺めていると、いくぶんか落ち着いてきた。
「どうしてキスしちゃったのかしら」
――ぽつりと疑問が落ちる。
自分たちは恋人でもなんでもない。以前に比べれば仲も深まっているだろうが、二人は協力者であり、あくまでこの婚約は偽装だ。
それなのにあの瞬間、どうして目を閉じてしまったんだろう。
どうしてレイシアはキスをしたんだろう。
(考えるのはやめましょう……どうせしばらくは会わないんだから)
婚約の儀が無事に終わった以上次は正式な婚姻の儀――いわゆる結婚式が待っているが、そう立て続けにやるものでもない。貴族の結婚……ましてや王族ともなれば、それなりの準備期間が必要となる。
きっと二人が正式に結ばれるまでに犯人はまたレイシアを狙うだろう。そして、それはきっと王妃なのだろうと思う。
そして相手が尻尾を出した瞬間を、レイシアは絶対に見逃さない。待っているだけではなく、当時の証拠探しもより念入りに調べ尽くすはずだ。忙しくてラナベルにかまけている暇などない。
だってそうしないと、二人は本当に婚姻を結ぶ羽目になるのだから。
この関係はただの契約。都合がいいからと彼の隣に自分が収まっているに過ぎない。分かりきった事実が、なぜか心臓をちくりと刺激した。
その痛みから目を逸らすように窓の向こうを眺める。
気を抜くと、あの日のキスが思い出されてしまう。
無意識に自分の唇を撫でるラナベルの頭の中では、夕暮れの陽差しを受けた白髪がきらめいていた。
細い髪の一本一本がハッキリ見えるほどの距離だった。泣いた視界でも分かるほどに鮮明な赤い双眸がすぐそばで瞬いていた。深紅の虹彩のせいか、その瞳の奥にはなにか大きな熱をもった感情の気配がして、目が合った瞬間にラナベルはのまれていたのだと思う。
けぶるような真っ白な睫毛がそっと降りていくのを真似るように、気づけばラナベルも瞳を閉じていた。
そして、そのあとに記憶に残っているのは優しく啄まれた唇の熱だけだ。
我知らず唇を指先で撫でると、じんと痺れたような熱が伝わる気がした。こうしてレイシアの熱の残滓を辿るのは何度目だろう。
また頬を赤くしたラナベルがぼんやりと想い耽っていると、不意に誰かが訪ねてきた。
ノック音にラナベルは飛び起きるように身を起こして応える。すると、忙しなくアメリーがひょこりと顔を出した。
「お嬢様、レイシア殿下がいらしています」
どこか焦った様子の彼女に、ラナベルは一拍の後にガタリと勢いよく立ち上がった。