インゴールの言葉で神託の間には一瞬にして静寂が落ちた。遅れて、ラナベルたちにじわじわと戸惑いが広がっていく。
「ど、どういうことなのですか。治癒ではないだなんて……現に私は子どもの頃に権能を使って治療をしていました!」
目の前で傷が癒えていくところだって何度も目にしてきた。
その力を実際に体感したダニアやシュティも、困惑の中にインゴールへのわずかな不信感を混ぜて眉をひそめている。
『治癒をする――ということではなく、結果として治癒に繋がっているということが正しい。傷や病の治癒だけが我が祝福の力ではない』
「それは、いったい……」
どういうことなのかと続けたかったが、衝撃で固まったラナベルの口は上手く回らなかった。
代わりにレイシアが問いかける。
「では、インゴールの祝福とはいったいなんなのですか」
『我が祝福は命の源である血潮に働きかけ、その潜在能力を高めるものだ。傷や病が癒えるのも、対象者の身に宿る自己治癒力を高めているだけに過ぎない』
そこの二人――と、インゴールはシュティとダニアを示した。
『その二人が現在において稀な権能の強さを誇るのも、我が祝福が作用したからだ。治癒だけでなく、その者がもつ本来の力を増大させた』
「じゃあ、私の治癒はラナベル様の力によるものだと?」
『そうだ』
シュティの疑問にもインゴールはしっかりと頷き返す。ダニアは「だから治癒後に急激に権能が強くなったのか」と納得したように独りごちた。
彼らの声をよそに、ラナベルの中にはある可能性がぐるぐると巡っていた。
美しい碧眼は狼狽えるように小刻みに揺れ、乾いた唇がゆっくりと細い声を紡いでいく。
「では、シエルを救えないというのは、まさか……」
それ以上を自分の口で告げることができなかった。言葉をなくしたラナベルに、インゴールは労るような気配で向き合う。
『そうだ。我が権能による治癒は、本人の治癒能力を高めることによる産物。ゆえに、身体が弱り切った者に効果はない。ゼロのものを増やすことは出来ないのだから』
「シエルはやはり……」
『そうだ。シエルは寿命だった。ただそれだけのこと。むしろ生まれてすぐに死ぬ予定だったあの子を四つまで生かしたのはお前の力だ』
まるで褒めるような口ぶりだったが、ラナベルには喜びもなにも沸き立ちはしなかった。
ただただ大きな無力感が身体にのしかかる。
(どうしてそんなことにも気づけなかったのかしら)
なぜ神官として人々を癒やしていたのに、こんな事実を知らなかったのだろう。
本当に助けを必要としている人に。命の危うい重病者に自分の手が届いていれば、ラナベルはきっともっと早くにこの現実に直面していたはずだ。
ふと、昔アメリーが教えてくれた話を思い出した。
神官の治癒を受けるには、神殿への寄付が必要だという話だ。それ自体はまだ理解はできる。
神殿はあくまで神への信仰心から人々が自主的に所属するもので、慈善団体ではない。
国からの補助金が出るとはいえ、運用にはそれなりの金銭が必要となる。それを貴族からの寄付でまかなうというのは理に適っているだろう。
理解は出来ても、その事実が今のラナベルには重かった。
もし、金銭など関係なく緊急性や重症度によって治癒の選別がなされていれば。そうすれば、大事な妹を自分の過ち故に亡くしたなどとは思わず、見殺しにしたと自責に苦しむこともなくその死を悼み、正しく受け入れられたのではないか。
そうしたら、唯一残った肉親である母との関係だって、もっと違っていたかもしれない。
なにをしてもシエルは救えなかったという無力感。神殿への理不尽な憎しみ――そして、自分が殺したわけではなかったというかすかな安堵が胸の中でせめぎ合う。
自分でも形容しがたい心情に苛まれていると、ふとラナベルは思い至った。
「インゴール様……シエルの死が私の権能に関係がなかったというのなら。それならば、私はあの日祝福をなくしたわけではないのですか?」
インゴールはシエルが寿命だったが故にラナベルの手では救えないと言った。もし祝福をなくしていたらそれ以前の問題なのだからそう告げたはず。
なにより、インゴールがラナベルの声に応えてくれたとき、たしかに「我が祝福を受け継ぐ者」と言ったじゃないか。
「私は、祝福をなくしてはいないのですか?」
『……ああ』
「それなら、どうしてあのあと使うことが出来なかったのでしょう」
シエルを亡くし、神官から罰を受けたのだと告げられたあと、なにもラナベルは一度も試さなかったわけではない。
それでも、ラナベルは一度だって治癒を施すことは出来なかった。
健康体だったアメリーの小さな傷さえも治せなかったのだ。ならば、それはどういうわけなのだろう。
縋るように見上げた先で、インゴールはしばし沈黙を貫いた。答えを知らないわけではなく、なにか口が重たくなる理由があるようだった。
しばらくして、気まずそうに……そして、どこか案じるような躊躇いがちな声が降ってくる。
「それは……ラナベル。お前の心が祝福を使うことを拒否していたからだ」