人のいない路地に落ちた声に、思わず三人は警戒を滲ませた目で振り返った。
そこにいたのはほんの五歳ほどの少年だった。
勢いよく三人に振り向かれてビクリと後じさるので、慌てたラナベルが笑顔で腰を折る。
「驚かせてごめんなさい。急に声が聞こえたから私たちも驚いてしまったの」
「ううん。大丈夫……怖い顔してから喧嘩してるのかと思ったんだ」
お母さんが喧嘩はダメって言ってるよ、と子どもがラナベルの向こうの二人に言うと、ナシアスは苦笑気味に、レイシアは興が削がれたようにむっつりと弁解した。
「喧嘩をしてたわけじゃないんだ。でも怖がらせてごめんね」
ナシアスの人の良い笑顔に、子どもは天真爛漫さを取り戻して「ううん。いいよ」と許してくれた。
そして、交差するもう一本の路地の奥をゆびさし、
「仲直りするならおじさんのところで花を買えば?」
と三人に促した。
喧嘩じゃないと言ったナシアスの言葉は子どもには届かなかったようだ。
「おじさんはお花を売ってるの?」
ラナベルが訊くと、子どもはこくりと頷いて路地の奥へと誘い込む。
売り子なのかと思い、怖がらせたお礼に買って帰ろうと思ったのだが、案内されたそこには中年の男性が一人で座っていた。
こぢんまりした台の上にいくつかの花を広げた、一見すれば店とも思わないような外観をしている。客を呼び込む気には思えない。
「おじさーん。お客さん連れてきたよ」
子どもはどこか親しげに男のもとに駆け寄っていく。
「お客……? わざわざ呼び込みなんてしなくてもいいんだぞ」
子どもがすみません。言いながらこちらを見上げてきた男は、ラナベルと目が合うと驚くように息をのんだ。
「――さま」
「……すみません、上手く聞こえなくて」
もう一度と言いかけたラナベルに、男は首を振って見間違えたと頭を下げて謝罪する。
その仕草に、ラナベルは内心で意外だと目をしばたたく。
すり切れた生地の衣服や、無精髭のせいでだらしなく見えたが、その言葉遣いや動きには平民にはない品が垣間見える。
よくよく見ると、鼻筋の通ったハッキリした顔立ちをしている。適当にまとめた髪や伸びっぱなしの髭を整えれば、きっと精悍な男性が顔を出すはずだ。
(どこかの令息とも思ったけど、それにしては違和感があるのよね)
無造作な動きに不慣れさはない。だが、隠しきれない丁寧な仕草が垣間見えるせいでちぐはぐに見えるのだ。
(中途半端に礼儀作法を習った人みたい)
なにか事情がある人なのかと思い、ラナベルはそれ以上男の観察をやめた。
並べられた数輪の花に目を落とし、あら? と目を丸くする。
「これ、全て造花ですか?」
生花のようなみずみずしさはないが、うす絹で作られた柔らかな光沢のある花々に思わず手を伸ばす。
「ええ、全て私が作っているんです」
「これだけ綺麗にお作りになってるのにもっと目立つところで販売しないのですか?」
貴族間ではもちろん生花が好まれるが、場面によっては造花を使うこともある。ラナベルも幾度と目にしてきたが、手元の造花はとても繊細な造りで完成度の高さにため息が漏れたほどだ。
「昔から手先は器用なほうなので……それに祭りには商売をしに来たわけではないので」
「それじゃあなんで参加してるんだ?」
不審に思ったレイシアの問いに、男はふっと淋しそうな笑顔で答えた。
「ある方の姿を見るためです」
切実さの滲む小さな声だった。
訊くと、男は若い頃は貴族の邸で雇われていたらしい。その家には同世代の令嬢がいて、二人は仲が良かったそうだ。
この造花を褒めてくれたのも彼女で、それ以来こうして作り続けていると言う。
「……恐れ多くも私はお嬢様を愛してしまいました。お嬢様も憎からず思ってくれていたと思いますが、なんせ平民と貴族ですから」
結ばれることなんて万に一つもなかったと、男は諦念の滲む顔で笑った。
「お嬢様は同じように高貴な方に嫁ぎました。それが自分の役目だと言って……そして私は、そんなお嬢様を見たくなくて邸を離れて遠い領地の村に住み着いています」
それでもこうして顔を見に来てしまうのだと、男は切なさと愛情の混ざった顔で呟く。
男が教えてくれた領地の名は、たしかに首都からは馬車に乗っても数日はかかる距離だ。
「すみません。お嬢様もあなたと同じように美しい方だったので、つい昔話をしてしまいました」
「いいえ、お気になさらず……このお花をいただけますか?」
「ええ、もちろんです」
お代は結構だと言う男性を押し切り、ラナベルは心付けとして少しばかり多く渡した。
気づいた男性が引き留めるよりも早く、
「素敵なお花をありがとうございます」
笑顔で立ち去る。
そうして三人で通りに出ると、そこでレイシアが痺れを切らすように訊ねた。
「王太子殿下はいつまでついてくるつもりですか?」
「ん? ああ、すまない。邪魔をしてしまったか」
「ええ、婚約者と二人での外出ですので、気を遣っていただけるとありがたいです」
「私も見て回るところがある。ここでお暇しよう」
微苦笑してフードを深く被り直したナシアスは、ふとラナベルを気にしたふうに見た。
どこか名残惜しむようにじっと見つめたあと、微笑んで「ありがとう」と囁く。
「きみにああ言ってもらえて嬉しかった……」
そのあと、なにか言葉を飲み込むように口を引き結んだナシアスは、最後にもう一度礼を言う。
と、焼き付けるようにじっとラナベルを見る視線を遮るようにレイシアが割り込み、ラナベルの肩を抱いて強引に反転させた。
「もういいでしょう。これで失礼します」
「あ、ナシアス殿下。それでは――」
「行くぞ」
挨拶もそこそこにレイシアに連れられて人混みに紛れる。またはぐれないためにか、強い力で抱き寄せられたまま。
人の波に押されないように自然とかばわれていることに気づき、ラナベルはチラリと隣の彼を見た。
(分かってはいたけど、私よりもずいぶん背が大きいのよね)
グオンのように鍛え抜かれて完成された身体というよりは、レイシアはまだ発達途中にも思える。
それでも剣を持つ者として当然なのか、手のひらの皮膚は厚く硬いし、身体も見かけによらずガッチリしている。こうしてラナベルが胸に寄りかかってもびくともしないのだから。
(ナシアス殿下と並んでてもほとんど変わらない背丈だったわね)
少し見上げるように横顔を眺める。人の動きを見ているのか、真剣に前を向く横顔には普段ラナベルが感じる幼い気配は一縷もない。
(……ちゃんと男の人なのね)
もう十八なのだから当たり前といえば当たり前だ。出会った時から半年ぐらいしか経ってないのだから、そんなに大きな変化はないはず。
それなのに、どうしてかレイシアの端正な横顔を見ていると少し鼓動が早くなった気がした。