フードの下で白金色の美しい髪がなびく。
至近距離で合わさった瞳には、ラナベルの驚愕した顔が映っていた。
「な、ナシアス王太子――んぐ」
「シッ。こっちへ」
慌てた様子で口を塞がれ、ラナベルは近くの路地に引っ張られた。
賑わいから少し離れたところで、ふっとナシアスが息をつく。
「あ、あの殿下がどうしてこんなところに?」
声を潜めておずおずと訊くと、「視察だよ」とナシアスはその垂れた瞳をさらに柔らかくして答えた。
「お一人でですか?」
「誰かに言うと、こうしてお忍びでも街に降りることは出来ないからね」
さらりと告げる笑顔を見るに、すでに何度もやっているようだ。
今ごろ護衛役の人は真っ青になっているだろうな、とラナベルは見ず知らずの騎士に同情した。
(意外とやんちゃなところもあるのね……)
絵に描いたような品行方正な人だと思っていたから正直言って意外だった。
それが顔に出てしまっていたのか、ナシアスは微苦笑した。
「実際に国民の様子を見ることでしか知れないこともあるから……王になってからではそれこそこうして外に出るなんてことは不可能だろうし」
今のうちに出来ることはしておきたいのだと、ナシアスは真剣な目で語る。
民のために、国のために。その眼差しからは国のことを思っているのがよく分かった。
(悪い方ではないのよね……)
苛立ちまじりに告げてしまった言葉を思い返し、ちくりと罪悪感が刺激された。
と、ラナベルが先日のことをちょっぴり悔いていると、不意にナシアスが生真面目な顔になった。
「……この前、きみに言われてからいろいろと考えているんだ」
「えっ?」
「いくら考えても分からなくて……それでローランやマイサに訊いてみた。私が気づいていないことはないか、と」
まさかその二人に直接訊くとは思ってもいなかった。まさか王妃にまで訊いてやいないかとヒヤヒヤしたが、どうやら弟妹たちにだけ訊ねて回ったようだ。
すごく変な顔をされたと、ナシアスは困ったように笑う。
「マイサはなにか言いづらそうにしていて……ローランはローランですごくうっとうしそうに『母親を見ろ』と言われてしまって」
そしてそれ以来母である王妃の言動に注視しているらしい。
「母は責任感も強く、国や民のことにも一生懸命だがどうやら父やローランたちとはあまり仲が良くないようだ」
イシティアの件だけでなく、そんなことにも気づいていなかったのか。
ナシアスの人を疑うことをしない――いや、人に悪感情がないとでも思うようなその思考に、思わず目眩がした。
(でも、マイサ王女の言うように、本当に悪い方ではないのよね)
腹立たしく思っても仕方がないラナベルからの言葉で、こうして己のことを見返すことが出来る人なのだ。
しかも他者の意見を聞き入れる柔軟さもある。
「ナシアス王太子殿下」
「ラナベル嬢、ここでは敬称は――」
遠慮がちなナシアスの言葉を待たず、ラナベルは綺麗な姿勢で頭を下げた。
驚くナシアスに真摯に謝罪する。
「先日は無礼にも殿下へ進言したこと。申し訳なく思っております」
ですが――と、ラナベルは頭を上げてから微笑んで見せた。
「殿下が臣下の言葉で自分を省みることのできる人だと知り、安心いたしました。それにこうして民のことを思ってくださっている」
心からの安堵が浮かぶ柔らかな笑顔に、ナシアスははっと息を飲んで見入っていた。
「次期国王が、あなたで良かった……殿下の思慮深さや優しさは、きっとこの国の民を良き方向へと導いてくれることでしょう」
殿下相手にずいぶんと偉そうな言葉だ。
けれど、ローランたちがどんなふうに言ったのかは分からないが、あまりにナシアスが落ち込んだ様子だったので言葉をかけずにはいられなかった。
機嫌を損ねたようであれば謝罪をと思っていたが、ナシアスはむしろパッと光の増えた瞳でずいぶん熱心に見てくるから、ラナベルは内心でひとまず安堵する。
「申し訳ありません。私はレイシア殿下のことを探さなくてはならないのでこれで失礼いたします」
そう言って路地から出ようとしたラナベルの腕を、ナシアスが引き留めた。
掴まれた腕に驚いて振り返ると、引き留めた彼自身も驚いた様子だ。
「殿下? どうされましたか?」
「いや……その、あんなふうに私に言ってくれたのはきみだけだった。ほかの者はきっと思っていても綺麗な言葉しか言わなかったようだから」
だから――と、ナシアスは口ごもる。言い淀むと言うよりも、自分でもなにが言いたいのか整理ができていないような、そんな戸惑いを感じる。
(どうしたのかしら……もしかしてなにか悩み事でも?)
掴まれた彼の腕に慰めるようにそっと触れ、ラナベルは顔を覗き込む。そうして問いかけようとしたとき――。
「なにをしている」
身体が萎縮するような低い声が割り込んだ。ハッとした二人が振り向けば、いつの間にか表通りと面した角に人が立っていた。
「レイ」
フードの下から覗く褐色肌や真っ赤な瞳に気づいて呼ぶと、レイシアは肩を怒らせたように大股で近づくと乱暴にナシアスを腕を振り払った。
やや強引にラナベルを自分の腕にさらい、レイシアは唸るようにナシアスを見る。
「私の婚約者をこのような路地に連れ込んでいったいなんのつもりですか」
「誤解だレイシア……私はきみが思うような感情をラナベル嬢に抱いては」
不意にラナベルと目が合ったナシアスの口が勢いをなくした。
(ナシアス殿下? なぜ今止められたのですか?)
これではレイシアが誤解するじゃないか。
この婚約は偽装婚約だ。そういった不貞についてレイシアは気にしないだろうが、相手がナシアスでは協力に関して不安を覚えるかもしれない。
案の定レイシアは誤解を深めたのかその顔がいかめしく変貌していく。
彼がここまで感情を荒立たせているのは、イシティアやイーレアのこと以外では初めてだ。
幸いなのは、その怒りや疑惑がラナベルに向いてはいないことか。
まるでとられまいと必死になる子どものように腕の中に囲われながら、ラナベルはほっとした。やっと親しくなれてきたのに、こんなことで信頼が崩れるなど悲しすぎる。
だが、さすがにこの雰囲気を放置はしていられない。
レイシアにつられたのか、あの穏やかなナシアスさえどこか難しい顔をしている気がする。
「お兄ちゃんたち喧嘩してるの?」
と、誤解を解こうとしたラナベルが声を上げるよりも早く、高い子どもの声がどこから降ってきた。