突然の王太子の来訪に一瞬呆けてしまったラナベルだが、すぐに立ち上がって居住まいを正した。
「ナシアス王太子殿下に御拝謁いたします」
恭しい礼に、ナシアスは困った様子で苦笑した。
「構わないでいいと言ったろう? ……レイシアの様子はどうだい?」
「神官様の治癒のおかげで怪我は完治しています。しかし出血が多かったこと、また傷ついた身体はゆっくりと正常に戻るので無理は禁物かと」
案に、今は事情聴取などには応じられないと伝えたつもりだが、ナシアスは顔色を変えずにラナベルの報告に頷いていた。
「そうか。とにかく完治したようでよかった」
(てっきり事情を聞きに来たのかと思ったけれど……)
まさかレイシアの身体を心配したがゆえに様子を見に来たのだろうか。
ローランやマイサならいざ知らず、ナシアスがわざわざ?
予想外のことに、ナシアスへの警戒心が強くなる。
ローランやマイサの見解を聞いてから、ラナベルはこの穏やかな顔に裏があるのではないかと疑ってしまってしょうがない。
(この方が企てたことでなかったとしても、ローラン殿下たちが察するぐらいなのだから、ナシアス殿下が気づいていないわけがない)
自身の派閥や母である王妃のこと。そしてイシティアの件。
それなのに、ナシアスはどうしてこうも平然と見舞いになど来られるのだろう。
苛立ちに近い感情が心に影を差す。
悶々とした思いを抱えていると、眠るレイシアを眺めていたナシアスが不意に教えてくれた。
「エンドラ伯爵はしばらくの間豊穣祭への参加を禁止された。彼もそれなりに年だったしね。狩猟にはもう参加するつもりはないそうだ」
真っ青な顔ですごく悔やんでいたよ。
そう呟くナシアスの横顔は複雑なものに見えた。
深い後悔を抱えた伯爵への憐れみ、しかし家族を傷つけられたが故に簡単に許すことも出来ない……そんな葛藤を抱えているようだ。
「伯爵は私の遠縁に当たる人でね。母も自分の身内が一歩間違えばレイシアに大怪我をさせていたと聞いて、顔を青くしていたよ」
本当に無事で良かったと、ナシアスは本心から安否を喜んでいるようなしみじみとした口ぶりだった。
それがあんまりに身を入れた様子だったので、つい警戒心にも揺らぎが出た。
と、不意にラナベルは、マイサの言葉を思い出した。
――ナシアスと話してみれば分かると思う。世の中の人が全員善人だと思ってるような裏表のない素直さだから。
(この方は、全部本心で……)
腑に落ちたような心地だった。
どうして平然と顔を出せるのか。なにも知らないような顔で伯爵や王妃の言葉を伝えられるのか。
ナシアスは本当になにも知らないのだ。
伯爵の誤射に潜む企てに気づかず、彼らの後悔や心配の言葉を真っ直ぐに受け止めている。
もしかしたらローランたちのようにイシティアの死を疑うこともなく、本当に病によるものだと信じていそうだ。
いや、そう信じ切っているからこそ、こうしてレイシアのもとに来られるのだろう。
人が人を殺めることなどないと、そんなこと思いもしないような澄んだ目をしている。
世界には優しさと温かさと少しの悲しみしかないと思っているような、子どものような無垢で無知がゆえの美しい眼差しだ。
これが演技だというのなら、いっそ手を叩いて賞賛したいほどだ。
ひとえにナシアスの関与の疑いが著しく低いということ。喜んだっていいはずなのに、ラナベルの胸中は怒りに近いもやつきで支配されていた。
「ナシアス殿下、少しよろしいでしょうか」
「ああ」
首を傾げつつも、ナシアスはラナベルとともに天幕の外に出た。背中にグオンの心配そうな視線が刺さったが、それを和らげてあげる余裕はなかった。
レイシアが怪我をしたのはほかの参加者たちにも知れ渡っているのか、幸いなことに天幕の周りに人影はない。
アメリーとダニアもラナベルを気にしつつ距離を保っていてくれる。
ナシアスと向き合ったラナベルは「無礼を承知で申します」と前置きをした。
無意識に鮮やかな碧眼がキッと鋭く彼を見上げる。
「ナシアス殿下は、本当になにも気づいてはおられないのでしょうか?」
「え?」
「人とは嘘をつく生き物です。あなたは王となった後も、そうして全ての人の言葉を額面通りに受け取り続けるおつもりなのですか?」
驚きで言葉を無くすナシアスを見ても、ラナベルの頭はちっても冷めなかった。
感情に振り回されている自覚はある。だが、どうしても許せなかった。
優しさだけで世界を見られたらどれだけ幸せだろう。他人の言葉を全て信じられたらどれだけいいだろう。
そうやって生きることはなにも悪いことではないと思う。だが、それが力のある立場の人間であるならば話は別だと、ラナベルは思った。
「あなたの優しさも素直さも美点でしょう。けれど、世界はあなたが思うよりもずっと辛くて、卑しいものなのです――王になるお方であれば、それに気づいていただきたい」
すぐそこにあるのに、なにも気づかないこの人を許せないと思ってしまった。
穏やかで優しく人柄の良い方だからこそ余計に、どうして気づかないのかとなじりたくなる。
十年以上一人ぼっちで気を張り続けるしかなかったレイシアを思うと、さらに強くそう思う。
昂った感情はラナベルの喉を詰まらせた。
長い睫毛が震えた影を落とし、不意に一粒だけ涙が零れる。
真摯に訴える深い青の瞳や白皙の頬を滑る涙の切実さ……ラナベルを形作るその容貌もさながら、なによりも彼女の内側から醸し出される清廉さがナシアスの呼吸を奪った。