アメリーが部屋に戻った一人の自室で、ラナベルはもう一度報告書を確認した。
そしてレイシアへの報告の手紙をしたためてからふと思い立って部屋を出た。
使用人たちもみんな寝静まったのか、廊下は小さな照明だけがついていて薄暗い。
人の気配がないからか少し肌寒さを感じながらぼんやり散歩していると、同じように向かいからやって来る人影に気づいた。
「ダニア……?」
「ラナベル様!」
どこか思い詰めたような目で外を見ていたダニアは、ラナベルに気づくとパッと華やかになった顔で駆け寄ってきた。
「まだお休みになられてなかったんですね」
「ええ。ダニアも……まだ慣れないから落ち着かない?」
「いえ。俺は夜間の邸に慣れておこうかと少し歩いてました」
屈託なく笑う姿は、レイシアよりもどこか幼く可愛げがあった。
ダニアは人好きする性格だし、人の輪に入るのも上手い。現に女性ばかりのこの邸の使用人たちの間でも、すでにこの短期間で弟のように可愛がられている。
(子犬みたいに人なつっこいこの子が、十四でわざわざ家を出て……)
それでわざわざ遠い領地を目指した。何年も前にたった一度助けられたラナベルを心の頼りにして――。
幼少期に救われた記憶というのは、そこまで彼にとって大きいものなのだろうか。
ソルベル家の両親が彼を探しているのを聞いたからか、ラナベルはなんだか親子を引き離したような後味の悪さを覚えてしまう。
苦く考え込むラナベルを前に、ふとダニアがいつもの笑い顔から力がなくなって淋しそうに顔色を曇らせた。
「……俺のこと、疑ってますよね?」
「え」
「ラナベル様が急に護衛を探してるのも、殿下との婚約がきっかけで狙われる可能性を考慮したからですよね? それで急に熱心な俺が来たから警戒している」
つらつらと言い当てられて驚く。
まさかそこまで行き着いているとは思わなかった。
ニコニコと笑ってばかりの彼は、あまり物事の裏を嗅ぎ取ることはしなさそうに見えたのだ。
ギクリとして固まったラナベルをよそに、ダニアは弁解なのだろう。不意に自分の過去を聞かせてくれた。
「ソルベル家は剣神ムンディクの祝福を受けた騎士家系です。父も母も、兄も姉もみんな生まれてすぐに剣を持っていたような人間で――」
――それで俺だけが落ちこぼれでした。
呟いたダニアに、普段の屈託のなさはなかった。
「身体が弱くて剣もとろくに持てず、家族にはいつもため息ばかりつかれてたのを覚えてます」
だんだんと自分に期待を寄せなくなっていく家族の姿に、彼は幼心に恐怖を感じていたと言う。
祝福者の数が多い神は、水の神インセドや火の神ティアーナなどと幾柱も存在するが、なにより規模が大きいのは剣神ムンディクと武神アグレオンである。
剣技など戦いにおける戦闘の才を望み、気高く強い意志を持った者であれば誰でも祝福を授けてもらえたという話だ。
貴族はみな権能の継承に心血を注ぐが、その中でも一際強い思いを持つのもその二柱の権能所持者だった。
「今から十三年前……六歳の頃に父の剣を盗んで訓練しようとしてバッサリ自分のことを斬っちゃいまして」
「だ、大丈夫だったの?」
青ざめたラナベルが訊くと、どうしてか一瞬きょとりとしたダニアはすぐに嬉しそうにはにかんだ。
「家族はもうすごかったですよ。父は大事な剣が血で汚れてるのにビックリしてどうやって持ち出したって血だらけの俺を怒鳴って、母も兄も姉もみんな剣一つろくに持てない俺に唖然としてました」
ダニアはおかしそうに言うが、ラナベルには自分の家族が怪我をしているのにそんな態度をとるその人たちが信じられなかった。
「さすがに俺が真っ白になっていって焦ったんでしょうね。騎士の家から剣が扱えなくて息子が死んだ――だなんて醜聞は出せない。そう言ってお金をかき集めて神殿に連れて行ってくれました」
家族の話をするダニアはどこか冷めた目をしていて普段との変わりように寒気がするほどだ。だが、不意にその瞳に温もりが宿った。
彼はおもむろにラナベルの前で膝をつき、眩しそうに目を細くして見上げてくる。
「俺は、そこでラナベル様に出会えたんです」
意識も朦朧とし始めた頃、夜の神殿に運ばれて出会ったのは、ダニアと同じように白い顔をした少女だった。
少女が短刀を取り出したときには咄嗟に恐怖を覚えたが、彼女は不意にダニアと目が合わせるととても柔らかく微笑んだ。
――大丈夫よ。私が治してあげるから。
もう痛いのも苦しいのも終わり。だから安心してね。
その声が、笑顔が、今まで感じてきたどんなものよりも温かく、輝かしく思えた。
月明かりを照り返す金の髪や青い瞳も、彼女の白い腕を伝う鮮血の赤も、ダニアは今でもすべてを鮮明に思い出せる。
恐々と触れるようにラナベルの手をとると、ダニアはその手に残る傷跡をうっとりと見つめた。
「あなたの手で、俺は初めて人の温かさを知りました。あなたの笑顔で、慈しまれる心地よさを知りました。あなたに会って、初めて俺は家のためではなく誰かのために騎士になりたいと強く願ったんです……だから、あなたの騎士になりたくて家を出ました」
安心させるように微笑む表情とは裏腹に、血の気の引いた肌や震えた指先に気づいたとき、ダニアはこの美しい人を守りたいと強く思った。
そのときの感情を思い出したように胸が震えたダニアは、そっと傷跡に顔を近づけて親愛のキスを送る。
顔を上げた彼に、ラナベルは思い切って訊ねてみた。
「それではどうして家族はいまだにあなたのことを探しているのですか?」
途端、さっきまでダニアに浮かんでいた恍惚とした感情が冷めていくのが分かった。
「ラナベル様に治療を受けて全快してから、治癒の権能のおかげか寝込むこともなくなったんです。鍛錬を続けていくと、いつの間にかあんなに強いと思っていた兄や姉にも勝てるようになりました」
そこからは兄弟間での立場が逆転したという。
出来損ないの弟に抜かれた兄姉たち。そんな兄弟を放って熱心にダニアに稽古をつける両親。
「きっと俺はムンディクの祝福を強く発現できたんです。そんな俺に、両親は家を継がせたいんだと思います」
ダニアはその期待が重く、ここにいてはいつか必ず無理矢理にでも後継者にされるという危機感から夜逃げのように誓約書だけを残して家を出てきたという。
「まさかいまだに探しているとは思いませんでした……すみません。ラナベル様にはご迷惑をかけないようにします」
だから、どうかあなたの騎士でいさせてください。
まるで親に請う子どものような切ない眼差しで見上げられ、ラナベルはいてもたってもいられなかった。
膝をつく彼と目線を合わせるように屈み、今度はラナベルがマメだらけの固くなったダニアの手をとった。
「もしソルベル家が接触してこようとしても、あなたが望まない限りは私が守ります」
いつも穏やかに笑む碧眼が、強い意志を持って輝く。
その瞳に射抜かれるようにダニアは息を止めていた。
「そして、あなたが強いのは決して祝福のおかげだけではありません。あなたがめげずに鍛錬を続けてきたことの証明です」
だから卑下したりしないでと、ラナベルは固くなった手を慰めるように撫でた。
「へへ、やっぱりあのときラナベル様に出会えて良かったです」
噛みしめるように言葉を受け止めたダニアは、小さくそう呟いた。