貴族の邸宅が並ぶ区画を抜けてしばらく行くと、さまざまな商店の建ち並ぶ繁華街に行き着く。
貴族街と平民街の中間に位置するその場所は、貴族だけでなく商人などの比較的裕福な平民も訪れるため、活気に溢れていた。
あまり邸を出る機会のないラナベルは、パーティーなどとは違った雑多な人と音の多さに思わず目を回した。
ふらりとよろめく。そんな主人に気づいたアメリーやダニアが支えようとしたが、それよりも早く横から伸びた腕が力強く支えてくれた。
「大丈夫か?」
「はい。すみません殿下……お恥ずかしいところを」
「気にしなくていい」
そっと身を屈めたレイシアは、「ここでは殿下の呼称は使うな」と耳許で囁く。
「……では、なんとお呼びすれば?」
たしかに人の目があるから「殿下」はまずい。しかし、同じように「レイシア」の名も気をつけた方がいいはずだ。
小さく返せば、レイシアは少し考えてから言った。
「じゃあ……レイ、と」
「レイ、様……?」
辿々しく呼び返すと、「様もいらない」と訂正されてしまう。
「母や兄上からは、よくそう呼ばれていた」
微笑みを深くした端麗な顔に、懐かしむような温かさが宿った。
あの嵐の夜から見舞いにかけての出来事で、彼の雰囲気はさらに柔らかくなった気がする。
心を開いているのは自分だけではないのかもしれない。――そう思うと、ラナベルは嬉しくつられて微笑んだ。
そんな二人に、後ろから眺めていたダニアが「へえ~」と感心したように声を漏らす。
「ラナベル様が婚約してたなんて初めて聞いたのでビックリしましたけど、本当だったんですね」
「わざわざそんな嘘をつくわけないでしょ」
隣のアメリーが呆れた声を返してからラナベルの背中を嬉しそうに見返す。一緒に並んでいたグオンも、同じように微笑ましく眺めていた。
「それより、お二人があなたの買い出しにわざわざお付き合いくださってるんだから、さっさとすませなさい」
「分かってますよ! でも、俺王都に来たのは本当に久々で……全然分からないんですよぉ!」
助けてください、アメリーさん! と泣き言をいうダニアに、アメリーは叱りつつも立ち並ぶ店舗を丁寧に説明し始める。
そんな後ろからの賑やかな気配に、レイシアがふと息をついた。
「……そもそもどうして騎士の買い物に主人が付き合う羽目になったんだ?」
「初めは休みを出すと言ったんです。でも、私の護衛としてきたからには片時もそばを離れないと……熱心なのはいいですが、彼はほとんど荷物もなくここまで来てくれたので、それは不便だろうと私から声をかけたんです」
最初は恐縮して遠慮していたダニアだったが、やはり不便があったのだろう。最後には「一日だけ頼みます!」と深く腰を折ってラナベルの誘いに乗った。
「彼の制服も仕立てないといけなかったのでちょうどよかったですし……殿下――いえレイ、にまで付き合ってもらってすみません。まさかこんなに早く来てくださるとは思っていなくて」
ダニアの来訪後すぐに報告の手紙を出したが、まさか二日足らずで邸に来てくれるとは思っていなかった。
出かけようかと外に出たときに、ちょうどレイシアとグオンが馬で駆けてきたからなかなか驚いたものだ。
(きっと手紙を見てすぐ来てくれたのよね)
そう思って感謝の気持ちを伝えたのだが、なぜかレイシアの顔が曇った。まるで叱られるのを怖がる子どもみたいだ。
「すまない。先触れも出さずに訪ねてしまって……万が一刺客だったらと思うと気が急いて」
おどおどした様子で弁解を重ねるレイシアに、はてと首を傾げてから遅れてラナベルは気づいた。
――まさか今の言葉が遠回しな指摘だと思われたのだろうか?
彼と会ったばかりの自分の言動を思い出して冷や汗をかく。
今度はラナベルが慌てる番だ。
「ち、違います! 私は早く来てくださって嬉しいと伝えたかったんです! ……それに、以前とは違って知らない相手ではないですし、そうお気になさらず」
言うと、レイシアの顔にあからさまな安堵が広がった。
「それならいいんだ……それで、あいつの身元は確かなのか?」
生真面目な顔に戻ったレイシアは、ラナベルの腰を引き寄せたまま耳打ちした。
これなら不審にも思われず話が出来るが、いかんせん距離が近すぎる。
低い声がぽそぽそと耳に当たると背筋がこそばゆくて力が抜けそうだった。
「は、はい。男爵の話では五年前から領地にいるそうで、最初から騎士志願者として現れたようです。一緒に彼の経歴も入っていましたが、怪しいところはなさそうで……」
五年間領地にいたのだから、間者や刺客の線は薄いだろう。
「家名は捨てたとの話だが、生家はどこか把握してるのか?」
「はい。ソルベル家に関しては調査員を派遣してるので、そう経たずに報告が上がるかと思います」
「わかった」
ちょうど行き着いた仕立屋では、顔なじみであるアメリーが率先して店員と話をつけてくれ、ダニアは別の男性店員に別室へとつれられた。
それを見届けたアメリーは、ワクワクした様子で振り返ってラナベルを呼ぶ。
「お嬢様、頼んでいたドレスが出来ているみたいなので、せっかくですからレイ様の前でご試着してみたらいかがですか?」
「え、でも……」
レイシアを放っておくのもどうだろう。
チラリと隣の彼を見ると、むしろラナベルが戸惑っていることが不思議みたいで首を傾げていた。
「それじゃあ……お願いします」
店員のあとに続いてドレスルームへ案内される。
「アメリーさんはこの臙脂の生地にお嬢様の金の髪がよく映えるとそれはもう熱心に見ていらしたんですよ」
「そうなんですか?」
手伝ってもらって身に纏った臙脂色のドレスは、たしかにラナベルの美しい金髪とよく合っていた。
狩猟大会は森の中で開かれるため、馬車は途中で降りて歩かなくてはならない。
動きやすいようにと気を遣ってくれたのだろう足首が見える丈のスカートは、ウエストで一度絞られて少しボリュームをつけつつもまとまっている。
襟元には金の刺繍が施され、胸元の白いシルク地の大きなリボンが強調されたシックで可愛らしいドレスだ。
「外出されるのは来月だとお伺いしました。寒くなり始める時期ですから、もしお身体が冷えるようでしたらこちらのジャケットを上から着てください」
丈の短い白いジャケットと帽子も用意してくれていたらしい。
サイズを確認するために全て身に纏ってみると、店員は目を輝かせた。
「とってもお似合いです! アメリーさんの見立て通り、まさにお嬢様のために作られたドレスです!」
ぜひみなさまにも見ていただきましょう! と意気揚々とした店員がみんなを呼びに飛んで行ってしまう。
止める暇もなかったため、諦めて一人になったドレスルームで姿見を見返してみる。自分の身体を捻ったりしながら全体をもう一度確認した。
(レイシア殿下の髪と目の色だわ……)
婚約者としてあの方の隣に立つ以上、彼に相応しいように着飾るのは義務のようなものだ。
それなのに、どうしてこんなにドキドキしているのだろう。
(納得してもらえるか緊張してる……?)
いや、とラナベルは咄嗟に否定した。そういった強張るようなものではなく、もっと温かくて、どこか甘さを感じるような……。
「お嬢様! 本当にお似合いです!」
背後からの泣き声に、我に返った。いつの間にレイシアたちが来ていたらしい。
「ああ……やっぱりその色にして正解でした!」
アメリーは涙を流すように感激を現した。その横では、グオンも「お似合いです」とにこやかに立っている。
そうしてラナベルはそろそろとレイシアに目を向けた。彼はというと、驚いた猫のように丸くした瞳のまま微動だにしない。
「……どうでしょうか?」
心配になったラナベルが訊ねる。緊張を隠すために髪を耳にかけながら上目遣いに見ると、目が合ったレイシアの頬が一瞬で赤くなった。
「殿下?」
思わず呼びかけてしまう。しかし、レイシアは訂正してくるわけでもなく、赤くなって目を見開いたままだ。パクパクと小さく開いた口を見るに、言葉が出ない様子だけれど……。
(どうしたのかしら? なにか変なところでもあった?)
てっきり前のようにそつなく褒めて肯定すると思っていたのに、なにがあったのだろう。
固まってしまったラナベルとレイシアを見渡したアメリーは、なにやら察したようにグオンの背中を押してドレスルームを出て行く。
「私たちは先にダニアのほうを確認していますね」
「え、ちょっとアメリー様?」
「ほら、グオン卿も一緒に来てください!」
二人きりになったドレスルーム。しばらく居心地の悪い沈黙が流れ、不意にレイシアが近づいてくる。その褐色の頬はまだ赤みが残っていて、動きもどこか固い気がした。
彼が近づくごとに大きくなる不安に思わず俯いてしまう。すると――。
「綺麗だ」
と、飾り気のない率直な言葉が落ちた。
思わず顔を上げれば、レイシアは気恥ずかしそうに赤い顔で――しかし真剣な目でラナベルを見ていた。
彼の手が流れる金髪をすくって優しく耳にかけてくれる。
熱いと感じたのは、レイシアの手か。それとも自分の耳だろうか。
「すごく似合ってる。青も白も似合ってたが、赤も綺麗だ」
「あ、ありがとうございます」
なぜだか心臓の音がいつもより大きく聞こえた。
なにより不思議なのは、ぶっきらぼうにも聞こえる固い声に、どうしようもなく嬉しいと感じてしまっている自分自身だった。