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第36話


 回復したレイシアが見舞いのお礼だと花束を持って訪れたのは、王宮に向かったあの日から一週間は経った日のことだった。

 いつの間にか夏が終わりを見せ始める午後の日のこと。

 手渡された花をアメリーに託してソファーでレイシアと向かい合う。

 元気になったのだから当然だが、今のレイシアは熱に浮かされた様子もなく、怪我も無事に治ったのかその腕に包帯はなかった。

 内心で胸を撫で下ろすラナベルに、レイシアは「豊穣祭に参加しないか」と勧めてきた。

 秋はその年の豊作を祝い、そして翌年の恵みを祈るための豊穣祭が開催される。

 トリヴァンデス国ではどんなに小さな村でも行われる大事な祭事の一つだ。地域ごとに若干の差異はあるが、一際にぎやかなのはラナベルたちの住む首都で行われるものだろう。

 街中は鮮やかに飾り付けされ、週末の二日間を通して民衆は実りの象徴である作物をたらふく食べてお酒を飲んで祝いの歌を歌う。

 貴族は貴族で神への供物として狩猟大会が行われるのだが、レイシアはそれに二人で揃って参加しようというのだ。

 連れ立つのは社交界に二人の婚約を知らしめるためだろう。

 なにより、狩猟大会には神官も参加する。

 大会の最後、一番立派な獲物を捕った人物は表彰され、その獲物は神官の祈りとともに神へ捧げられる。

 その神官のなかに、シュティ・アンセルがいるということで、レイシアは直接話をつけようと言うのだ。

「説得に応じてくれるかは分からないが、一度話をしてみないことには対策も出来ないからな」

 レイシアの言葉に、後ろに立つグオンが頷きながら答えた。

「アンセル大神官は信徒にも民衆にも慈悲深い聖女様だと人気ですから。話してみれば理解を示してくれるかもしれません」

「たしかアンセル家は水の神インセドの祝福だったか?」

「ええ。彼女は治癒能力が発現したようです。稀に見ない強い権能だと評判ですよ」

 二人の会話を聞きながら、ラナベルもふむと相づちを打った。

 治癒の代名詞はセインルージュ家だが、それ以外にも治癒能力を示すものは存在する。

 それが水の神の祝福を得た者たちだ。人の身体のおよそ半分以上は水分で出来ているので、その関係で身体にかかわる権能が発現すると言われている。

 だが、治癒を発現するのは水の神の祝福者のなかでも約一、二割ほど。それ以外はアメリーのように直接水にかかわるような力を有するものだ。

 それでもインセドからの祝福を受けた家門は多く存在するので、神官にも常に何人もの治癒の権能を持つ人間が在籍している。

 しかし、血の神インゴールに祝福を受けたセインルージュほどの精度や能力の高さには敵わない。――とされていたのだが、シュティ・アンセルは違うようだ。

「だが、優秀である分信心深いからこそ拒んでいる面もあるだろう……慎重に話を重ねるしかないな」

 本来であれば神殿での婚約の儀が決まり次第、公に発表することになるが、今回はそうはいかない。

 日程が同時に公表されず、しかも神官と深刻そうに話す姿を見られればあらぬ憶測を呼ぶだろう。

「そういえば公爵家から狩猟に参加する騎士はいないのか?」

「父が亡くなったときに騎士団は解散しました。なので、セインルージュ家に騎士はいません」

「護衛もいらっしゃらないんですか?」

 驚いたグオンに、ラナベルは頷いて返した。

「騎士団の維持費だけでもずいぶんとかかりますから……それにここは王宮にも近いので近衛兵の定期見回りもありますし」

 だから特別入り用だとも思わなかった。あるに越したことはないが、騎士の多くは貴族なため、ラナベルのいるセインルージュに来てくれる者がいるとも思えなかったのだ。

「せめて一人でもいいからラナベルにつく護衛が欲しいな……狩猟大会中は大勢人が集まるし、俺やグオンはそばにいられない」

「私の護衛ですか……」

 果たして志願してくれる人はいるだろうか。難しい気もするが、これからレイシアの計画が進めば、ラナベルのほうに刺客の手が回るというのも十分考えられる。そばにいるアメリーたちの安全を確保する上でも、たしかに必要だろう。

「セインルージュの持つ領地には騎士がいますので、そちらから便宜を図ってもらえないか訊いてみます」

「もし難しいようであれば、こちらでも探してみるから教えてくれ」

「はい。そのときはお願いします」

 豊穣祭まではまだひと月ほどあるので、ひとまずは領地からの返答を待とうと話は締めくくられた。

「それじゃあ今日はこれでお暇しよう」

「レ、レイシア殿下……!」

 立ち上がったレイシアを、ラナベルは咄嗟に呼び止めてしまった。

(私ったら、どうしてこんなことを……!)

 前のめりになって袖口を掴んでしまった自分の手を、ラナベルは顔を赤くして呆然と見る。

 不思議そうに首を傾げたレイシアは、今はピンシャンしている。

 きょとりと瞬く姿は子どもらしい。その姿に癒やされつつ、この方は兄も母もいっぺんに亡くしたのだと思うと可哀想でならなかった。

 今さらながら考えてしまう。誰も彼も信用できず、しかしどうにかして仇を見つけたいと願うレイシアは、ラナベルの能力を知ったときにどれほど舞い上がったかと。

 本当に藁にも縋る思いだったはずだ。

 そう知ってしまうと、いてもたってもいられない。この方のためになにかしてあげたい。けれど、どうしたらいいのか分からない。

 ラナベルが弱っていたあの雨の日、レイシアはずっとぎこちない仕草で抱きしめていてくれたが――。

(でも、ここにはグオン卿だっていらっしゃるのに……)

 引き留めたラナベルを、グオンは主人と同じようにしばたたきながら見ていた。チラリと見ると、目があったグオンはなにやら得心したらしく、にっこりと微笑んで先に部屋を出た。

「私は部屋の外で待っていますので、ゆっくりお話ください」

 二人きりになった室内で、レイシアが困惑気味に「どうした?」と伺ってくる。

 不安がるような子どもみたいな眼差しを前に、先日イーレアと出会った時の気持ちが鮮明に蘇ってくる。

 ラナベルは感情のままにレイシアの頭をぎゅっと抱き寄せた。

「ラ、ラナベル?」

「……少しだけ、無礼をお許しください」

 背伸びしていても、レイシアは背中を丸めるように身体を預けている。それが、少し悲しいような淋しいような気持ちにさせた。

(子どもの頃のこの方を、抱きしめてあげたかった)

 親しい人を失い、誰も信じられない孤独を味わった七歳の幼いレイシアを――。

 仇を見つけると、そう奮起して憎しみを燃やすことでしか、きっとレイシアは生きられなかったのだ。

 そろりとレイシアの後頭部や背中を労るように優しく撫でる。初めはビクリと強張った彼だが、そのうち力が抜けてリラックスしたように身体を預けてくれた。

 それが嬉しいと同時に、今まで張り詰め続けてきただろうレイシアの心を思うと切なくなる。

「必ず、イシティア様の仇を見つけましょうね」

 囁けば、こくりと頷きだけが返ってきた。

 あどけないその仕草に、身勝手ながら本当は憎しみも怒りも全部忘れて穏やかに生きて欲しいと思ってしまった。

 だが、レイシアはきっと仇を見つけない限り、新しい一歩を踏み出すことは出来ないだろう。

 役に立てるのなら……そう思って協力を申し出た。きっとラナベルは誰が相手でも助力しただろうと思う。

 けれど今は、ハッキリと強く思う。

 ――この方のために必ず犯人を見つけよう、と。

 そして、どうかその先でレイシアに……この子に安らかな幸せが訪れますように。

 肩口に触れるかすかな呼吸の音を聞きながら、ラナベルは心の中で強く祈った。



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