イーレアが病で伏せっていることはもちろん知っていた。
しかもその原因がイシティアを亡くしたときの心労故だと思うと、どうしてもラシナと重ねてしまっている部分はあった。
――しかし、実際はどうだ。
ラシナを見る度に、頭の隅でイーレアも同じように痩せ衰えているのだろうと憂いていた。だが、そんな想像は随分と楽観視したものだったと、ラナベルは本人を前にしてようやく思い知ったのだ。
褐色の肌は一目見て乾燥していることが分かるし、長い白髪も艶がなくパサついている。――ろくに食べられていないのだろうと、すぐに察することが出来る。
梳かすこともしていないのか、起きてそのまま出てきたように髪が絡まっていて、暗がりで見れば幽鬼と見違えていたかもしれないと思った。
ずいぶんと昔、遠目にみたイーレアは内側から生命力の溢れるような生き生きとした美しい人だった。悲しいことに、今はその面影は見えない。
頬は痩け、今歩けているのが不思議なほど痩せ細った手足は、見る者を絶句させるほどに病的だ。
現にラナベルはあまりに生気なく映るその姿に、最初は言葉が上手く出てこなかった。
(お母様だってここまで痩せてはいないのに……)
いっそラシナが健康的に思えてくる。
それなのに当人はちっとも苦しむような様子もなく、愛らしい少女然とした笑顔でにこにこしている。それが底知れない恐怖にも似た気持ちを感じさせた。
ひどい言い方をすれば、
「イーレア様、さきほどまでお休みされていたのではありませんか?」
「あら? 騎士様は初めましてかしら? ふふ、今ね息子を探してるの」
微笑む姿は悪戯っぽい子どものようで、これでふっくらと健康的であればたしかに誰もが目を奪われる美女だったろうと思える。
しかし、明後日の方向に飛んでいく会話に、ラナベルは立ち尽くしながら痛々しさを覚えていた。
グオンの様子から見るに、彼と会うのが初めてなはずがない。それなのにイーレアは覚えていないのだ。
「あら、そちらの可愛いお嬢さんも初めましてね?」
「初めまして、イーレア様。ラナベル・セインルージュと申します」
「あらあらラーナちゃんて言うのね。とっても綺麗な青い目ね」
グオンの腕から抜け出したイーレアがゆっくり近づいてくる。止める気はないのか、グオンはハラハラしつつも彼女の後ろに付き従った。
なにが気に入ったのか、イーレアはラナベルの青い瞳をずいぶんと熱心に見つめてくる。
「今息子を探しているのだけれど、見てないかしら?」
途端、イーレアの向こうでグオンが息を詰めたことにラナベルは気づかなかった。
「息子さんですか?」
「ええ。とっても可愛い良い子なのよ」
私と同じ白い髪で、この国では珍しい肌の色でね。
指折り数えるようにその息子の特徴を挙げていくイーレアの横顔は愛情深いものだった。
息子のことは忘れていないのだ。そのことに安堵するような気持ちで見守っていたラナベルは、レイシアのことだろうかと考えた。
そして訊ね返そうとしたとき――。
「それでね、瞳が灰色の男の子なのよ」
(え――?)
吐き出すはずだったレイシアの名前を、瞬時に飲み込んだ。言葉が形を持ったように、ぐっと胸の奥が詰まるような息苦しさを感じた。
「灰色の目……?」
「ええ。イシティアっていうの」
名前も綺麗でしょう? と微笑むイーレアを前に、ラナベルは自分の喉が渇いていくのを感じた。
「あの……もう一人ご子息がいらっしゃいませんか?」
まだ衝撃の抜けない頭で、どうにかそれだけを訊ねる。イーレアは淀みなく頷いてくれたのでほっとしたのも束の間――。
「レイシアはまだこんなに小っちゃくて可愛いの。いつも私にくっついてる甘えん坊でね」
クスクスと鈴の鳴るような声で笑いながら、イーレアは自分の足元のあたり――空中にぽんと手を置いた。
頭でも撫でるように宙で手を動かすものだから、その姿にラナベルの心臓が冷たくなっていく。
まるでそこに誰か――子どもがいるような手つきではないか。
(……いいえ。きっとイーレア様にはレイシア殿下がいるように見えているんだわ)
そこにいる子どもと合わせるように視線を落としていたイーレアが、ふと不安そうに顔色を変えた。
「レイシアが甘えん坊な分、余計にイシティアのことが心配なの。あの子しっかり者すぎて溜め込んでいないかしら……」
もう少し私にも頼って欲しいのだと、イーレアは淋しそうに笑う。
それからあれやこれやと息子自慢にも近いようにイシティアの優秀で――でも心配なところをあげていく彼女の口はとまるところを知らない。
ラナベルは真面目に話を聞きながらも、ふとさっきまでイーレアが撫でていた空間――子どものレイシアを見た。
想像する子ども姿のレイシアと、さっき見守っていたレイシアの寝顔が頭に浮かぶ。
もどかしいというにはあまりに強い、胸をかきむしるような感情がふつふつと沸き立った。
それを抑え込みつつも、どうにも耐えられなかった一言がぽつりと落ちる。
「本当に、レイシア殿下は一緒におられますか? 本当にそこにいらっしゃいますか?」
震えた問いかけに、きょとりとしたイーレアが考えこんだのは一瞬だけだ。
「ええ。いつも一緒よ」
けろりと笑って言ったその軽やかな一言が、ラナベルの心にあまりにも重くのしかかった。
声もなく顔を白くしていると、奥から一人の使用人が慌てた様子で駆けてきた。彼女は恐縮した様子でグオンやラナベルに何度も頭を下げ、イーレアの手を引いて去って行った。
去り際に「またね」と手を振られたけれど、どうにも腕を上げる気力はなくて小さく会釈だけに留まった。
イーレアの姿がなくなってもなお立ち尽くすラナベルの心中を推し量ったように、グオンは静かな面持ちでそっとつけ加える。
「いつもああしてイシティア殿下を探しておられます」
「……レイシア殿下は、イーレア様とはお会いになるのですか?」
ラナベルの言わんとすることが分かったのだろう。グオンの凜々しい眉が悲痛そうに寄せられた。そうして、絞り出すような声で「私が知る限りでは、レイシア殿下としてお会いしたことはありません」と、たしかにそう言った。
「……っ」
思わず乱れた呼吸を隠すように、口を手で覆う。
――
胸中で思わず叫んだ。身体に溢れる感情を抑え込もうと、自分の身体をぎゅっと抱きしめる。
噛みしめた形の良い唇は真っ白で、固く瞑った瞼の奥で痛みに近い熱を感じた。
――母も喜んでくれたと思う。
部屋で聞いたレイシアのどこかぼんやりした、けれど温もりのある言葉を思い出す。
(直接渡せるはずがない……!)
誰が自分を認識してくれない母に、会いたいと思うものか。
グオンに頼んだのか使用人に頼んだのかは分からない。けれど、誰かに託すしかなかったレイシアの心情を思うとたまらない気持ちになった。
(ずっと、
イシティアを亡くしてから、彼女はずっとああして幼いレイシアとともにイシティアを探しているのだろうか。
息子が亡くなったことも忘れて成長した子どもに気づかず、ずっと同じ時のなかで彷徨い続ける母親の姿にレイシアはなにを思ってきたのだろう。
レイシアは兄と母を一度に喪ったのだ。そして、たった七歳で一人ぼっちになった。
彼の孤独は、ラナベルが想像していたよりもずっとずっと辛かった。
(怒るのも当然だわ!)
ローランに諭されたレイシアはその手を振り払って背を向けたが、事情を知れば当然だと思える。
彼になにかあればイーレアが悲しむ? そんなはずはない。だって、彼女のなかにいるレイシアは自分にべったりくっついた男の子なのだ。
今のレイシアになにかあったところで、きっとイーレアはそのことを正しく認識できはしない。
優しさで述べられたはずのローランの言葉に、あの時のレイシアはどれだけ痛みを感じたことだろう。
今さらながら、ラナベルはあの時のレイシアの背中をすぐに追いかけなかったことを後悔していた。
胸が詰まる思いで身のうちを震わせていたラナベルが落ち着くまで、グオンはその悲しみに寄り添うように静かに待ち続けてくれていた。