目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報
第34話


 熱ののぼっていたレイシアの頬から、みるみるうちに血の気が引いていった。

 焦点の合わない瞳が小さく震えだす。まるで罪を暴かれた罪人のような狼狽えっぷりだ。

 ハッ、と息すら忘れたように制止した様子が可哀想になって、ラナベルは慌てて言葉を重ねた。

「私にも覚えがあるんです……唯一私を愛してくれたあの子のことを、生前は嫉妬こそしたけれど私も同じように愛しています」

 でも、ときどき怒りも覚えてしまうのだと、今まで誰にも打ち明けたことのない秘密を明け渡した。

「あの子は生前よく言ってました。ずっと三人で仲良く暮らしたいと……その言葉がなければと思ってしまうんです。あの子がそんなこと言わなければ……言い残したりしなければ、私はここまで母との関係に苦しまずにすんだんじゃないだろうかと」

 たとえ家族としてのつながりを諦めたとはいえ、それですぐに縁を切ってしまえるほどラナベルは割り切れない。

 権能を失ったことへの贖罪もある。だが、やはりあと一歩のところで関係を切れずにいるのは、生前のシエルの言葉が胸に残っているからだ。

 ――あの子はラナベルのことを思うように、母のことも愛していたから。

 どれだけ口汚く罵られようと、頬を打たれようと。心が痛みを分からなくなるほど鈍感になるしかなかったとしても、ラナベルにはラシナを見捨てるという選択は出来なかった。

 見捨てたい、切り捨てたいと思う度に、シエルの笑顔が……言葉が頭に浮かび上がってくるのだ。

 そんな呪縛とも言えるものを残したシエルに、怒りを抱いた日も恨みを抱いた日もある。

「でも、聞かずにはいられないんです。だって死んでしまったあの子の言葉だから……覚えているわずかな言葉だから」

 ときどき、愛しているのか憎いのか自分でも分からなくなることがあります。

 自白して困ったように笑うラナベルを、レイシアは信じられないような面持ちで見ていた。そして、観念したような深い息をつき、不意に「俺もそうだ」と呟く。そのときには、幾分か血色の戻った顔をしていた。

「兄上のことが大好きだったはずなのに、母を頼むと言い残したあの人のことが、ときどきひどく憎たらしく思える。母だってそうだ。どうしてあんなふうに俺を一人にするのだと、憤りを覚える日もある」

 覇気のない言葉がぽつぽつと紡がれていくのを、ラナベルは静かに相づちを打って聞いていた。

 ゆっくりと瞬くレイシアの赤い瞳に、ふと懐かしむような温かさと痛みが混在した。

「雲一つない空だった。透き通るような真っ青な空の下で、兄上の吐いた血が鮮やかすぎて目眩がしたのを覚えている」

 でも――と口をついたレイシアは、目だけでチラリとラナベルを見た。――正確にはラナベルの持つ深い青い瞳を。

「晴れた空が嫌いだった。でも、最近はラナベル……お前のことを思い出すんだ。青い空は嫌いだったはずなのに、お前の瞳の色を……」

 覚束ない口調になったと思うと、レイシアは辿々しく言葉を紡ぎながらも途中で寝てしまった。

 健やかな寝息が静かな部屋に響く。安らかになった寝顔を眺めるラナベルの心臓は、いつもより少しだけ駆け足だ。

 親しみよりもずっと強く。けれど、興奮と呼ぶには穏やかな判然としない感情のまま、腕を伸ばしてそっとレイシアの髪を撫でる。

「……私もですよ」

 シエルを失って以来、雨の日が嫌いだった。けれど、今はきっとずぶ濡れで現れたあなたのことを思い出す。そう思った。

 濡れた身体で抱きしめられた、冷たいのに温かかった不思議な腕の中のことを。

 少しの葛藤の末に、ラナベルは初めて敬称を外して呼びかけた。

「レイシア、どうか良い夢を」

 髪を撫でる手つきは昔シエルにしていたように優しく。しかし、その胸にはシエルの時には感じなかった熱が灯っていた。


 ◆ ◆ ◆


 しばらくレイシアの様子を見守っていたラナベルだったが、あまり長居しても迷惑だろうと音を忍ばせて部屋をあとにした。

 扉の前で待機していたグオンが、すぐさまレイシアの様子を聞いてきたので、今は穏やかに寝ていることを告げるとほっとしたようだ。

「殿下とはお話しできましたか?」

「はい。少しでしたが……顔が見られてよかったです」

 普段よりもスッキリした面持ちで微笑むラナベルに、グオンは少し不思議そうだったが深掘りはしてこなかった。

 来たときと同じように二人で外へ向かっていると、不意に向かいから誰かがやってきた。

 その女性はいやに細い身体でふらふらした危なげな足取りだ。

 褐色の肌と長く真っ直ぐな白い髪が揺れる姿に、もしやとラナベルが思ったとき。

 女性に気づいたグオンが、一瞬で焦燥を浮かべてふらついた女性の元へ駆け出した。

「イーレア様! どうしてお一人でこんなところに?」

 悲鳴のようなその声に、ラナベルは内心でひどく驚き立ちすくんだ。

 グオンに支えられたイーレアは、どこか心あらずな様子で離れた所に立つラナベルを見た。

 レイシアと同じ赤い瞳が、にっこりと少女のように微笑む。

「こんにちは、お嬢さん」

 ――私の息子を見かけませんでしたか?

 はるか昔にみた美しい面影は微塵もなく、イーレアは痩せこけた顔でそう訊ねてきた。




コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?