グオンの言ったとおり部屋に入るとまずその本の数に圧倒された。
広い部屋の壁を埋め尽くすように本棚が並んでいるので、圧迫感すら覚える。
感嘆の息を漏らつつ、ついラナベルはまじまじと並んでいる本を見てしまった。
政治や経済に関するものから始まり、無骨な専門書がズラリと並んでいる。
――どうにもレイシアのイメージが合わない。
彼は以前、なんてことない雑談の際だったが、王宮にいるときは自分の身を守れるように訓練ばかりしていると言っていたはずだ。
ここまで熱心に本を集めているイメージが湧かない。
「そうだ。殿下……!」
我に返り、グオンの言葉を思い返しながら部屋の右側にある扉を叩く。――しかし、一向に返事はない。
「……失礼いたします」
伺うように小さく声をかけてから入ると、レイシアは中央にある大きなベッドに横になっていた。
近づくと、熱のせいだろうか。褐色の肌でも顔が赤らんでいるのがよく分かった。
「レイシア殿下」
苦しそうな様子に思わず呼びかけてしまう。すると、長い睫毛が震えながらゆっくりと持ち上げられた。
潤む赤い瞳はラナベルを見ると無垢な子どものように瞬く。しかしそれも一瞬のことで、すぐにハッとした様子で「どうして」と掠れた声で問われる。
「グオン卿が知らせてくれたんです」
「あいつ……! 余計なことを」
「殿下を心配してのことですから。あまり責めないでください」
宥めると、レイシアはムッとした顔で押し黙る。
グオンの気遣いをこそばゆく思ってのことか。それとも、それ以上声を出す気になれなかったのかは分からない。
「すみません……突然だったので大したものは持ってこられなくて」
サイドデスクに茶葉の入った瓶を置くと、レイシアはすぐにその中身に見当がついたようだ。
「あのお茶か」
「はい。喜んでいただけるものがこれぐらいしか思いつかなくて」
今お飲みになられますか? 訊ねると、首を振られてしまった。そして思い出したようにレイシアが言う。
「あの日、わざわざグオンにも渡してくれただろう? ありがとう……母も喜んでくれたと思う」
曖昧でどこか濁すような言い方にひっかかりを覚えつつも、直接は渡せなかったのかなと思い、深くは訊かなかった。
「いいえ……むしろ余計な気を回してしまってすみませんでした」
微苦笑して返したラナベルを、レイシアがぼんやりした眼差しで見上げてくる。
あんまり熱心にラナベルの顔を見てくるものだから、少し気恥ずかしい。
と、レイシアがふいに独りごちた。
「……もう、元気そうだな」
熱でぼんやりした瞳に明確な安堵が浮かぶ。その言葉の意味を察してしまったラナベルは、こそばゆい気持ちに襲われた。
「あの日はご迷惑をおかけしました」
でも、ありがとうございました。――そう続けながらラナベルは微笑んだ。気負いもない、軽やかな表情で。
「レイシア殿下のおかげで少し楽になりました」
「大したことはしてない。むしろ今は俺のほうが迷惑をかけてるしな」
「それも、きっとあの日雨に打たれたからですよね?」
元を辿れば同じこと……ラナベルがきっかけだ。
立ったまま静かに落ち込むラナベルを、レイシアは「そこに座れ」とベッド横に置かれた丸椅子を顎で示す。
ありがたく腰掛けると、それを見届けたレイシアがゆっくりと片腕を持ち上げて見せた。その二の腕には血の滲んだ包帯が見えた。
「雨だけじゃない。この傷のせいもあるだろう」
「いったいどうされたのですか!?」
目を剥いたラナベルに、レイシアは冷静に返す。
「あの日、帰宅途中で賊に襲われた。……多分後をつけられていたんだろうな。下手を打って一太刀だけもらってしまった」
「大丈夫なのですか?」
レイシアがあまりにも軽い口調だから、つい比例して声が大きくなってしまった。
悲鳴のようなラナベルの問いに、彼はどこまでも平常心で頷く。
「毒を塗られていたわけでもないし問題はない。ただ、グオンにバレると面倒だから黙っていてくれ」
「……グオン卿には知らせていないんですね」
無意識に叱るような口調になってしまった。
罰が悪いのかレイシアの顔がふいと逸らされる。
「……お医者様には見せられたんですよね?」
まさかと思って訊いてみたが、さすがに医師には診てもらったらしい。頷かれて、ラナベルはほっと胸を撫で下ろした。
安堵するラナベルとは反対に、レイシアは煩わしげに眉間に皺を寄せると天井を睨むように見た。
彼の口から、ハッと苦しそうな熱のこもった息が漏れる。
「こんなことをしてる場合じゃないのに……!」
クソ、と苛立ちまじりの罵倒が落ちた。
思うように動けない身体が忌々しいのだろう。やっと自身の計画が進み出した頃だからこそ余計に。
(こんなときぐらい、心も休めてくださればいいのに)
生き急ぐような様子に、ラナベルは普段よりも強いもどかしさを覚えた。
苛立たしげなレイシアを前に、前々から思っていた言葉がふと零れてしまう。
「殿下は、ずっと怒っていらっしゃいますね」
どんなときも表情は固く、誰も彼も睨むように警戒する彼の根底にあるのはいつだって怒りだ。
「当たり前だ。兄上を殺され、母もあんなに弱ってしまった。これが怒らずに……憎まずにいられるものかっ!」
熱のせいで力が入らないせいか、呼気まじりの弱々しい声。しかし、そこに滲む衝動はラナベルの肌を震わせるほどに強く感じられた。
それでもラナベルは怖いとは思わなかった。いっそ憐れむような切ない感情に締めつけられる。
(この方は……)
それは思いつきだった。自分の経験から来る無意識の予測でもあった。
ラナベルは我知らず訊ねてしまっていた。
「お兄様にも、お母様にも怒っているのではないですか?」