セインルージュ家にある祈りの間は、シンプルな造りながら地方にある小規模な神殿よりもよっぽど華やかに作られていた。
神殿の象徴でもある白い大理石は、王宮にも使用される一級品を敷き詰めて出来ており、昼間は差し込んだ太陽の反射で眩しいほどだ。
大きな両開きの扉は重厚なオーク材で、それを抜けると長方形の奥行きのある部屋に迎えられる。
扉から最奥の祭壇に向けて、血の神インゴールを祭るために真っ赤な絨毯が敷かれている。
ラシナはその真っ赤な道を進んだ先――祭壇とともに置かれた神を模したとされる彫刻の前で膝を折って項垂れていた。
なにか祈っているのかと思ったが、よくよく耳をそばだててみるとしくしくと泣きながら父やシエルの名を呼んでいるようだ。
「あなた……シエル……どうして死んでしまったの。私だけを置いて、どうして……!」
ラナベルと相対したときにはない悲しみだけに濡れた声は、聞いている者も同じように切ない気持ちへと誘う。
恋しいのだと訴えるように名を呼び、会いたいという切実さで涙を零す。
そんな母の姿に、ラナベルの胸はナイフを突き立てられたように鋭い痛みを感じた。
じくじくと膿んでいた古傷を、むりやり開かれて大きくされたようだ。
手足の先端が痺れたように温度をなくし、気づけば身を翻していた。
駆け足で自室に飛びこみ、ラナベルは暗い室内に転ぶように倒れ込んだ。
手をついたので辛うじて顔を打つことはなかったが、ぶつけた膝がじんじんと痛みを発している。足も捻ったようでじんわりと熱かった。
それでも、胸の内のほうがよほど痛かった。
――どうして私
耳の奥に返ってくる言葉に、胸の奥が爪でえぐられたように痛みが走る。そんな痛みを――こびりついた母の声を振り切るようにラナベルは激しく頭を振った。
(分かっていたはずでしょう……お母様のなかで私は家族なんかじゃない……!)
そばにいるラナベルなど、あの人にとってはなんの役にも立たないし、慰めにもならない。分かりきっていたことで、今さらそんなことで傷つくような心だってなくしたと思っていたのに――。
我知らず、ラナベルはかきむしるように自分の胸元を掴んでいた。
痛い。痛い痛い。胸が、心が痛い。
誰か助けて。――そう思うラナベルの脳裏に浮かんだのは、一人の少女だった。
生まれた頃から身体が弱く、いつも血の気の薄い白い肌をしていたシエル。神殿での務めを終えたラナベルが帰宅して顔を見せると、自分のほうが白い顔をしているくせに姉の心配をしてくれるような優しい子だった。
――お姉様。あんまり無理しないでくださいね。神殿にばっかり行かないでください。
本当はもっと自分のそばにいて欲しいのに。そう言ってラナベルの手をぎゅっと握り、ぷっくりと頬を膨らませる姿を見たのは一度や二度じゃない。
誰にでも優しい子だった。見ているだけで笑顔になってしまうような愛らしい子だった。
母やラナベルとお揃いの金髪を伸ばし、鏡を見る度に嬉しそうににんまりと笑う子どもだった。
――私が元気になったら、お母様とお姉様と私の三人でピクニックに行きましょうね。
ラナベルの血を与えていても、シエルはほとんどベッドで寝たきりだった。そんな彼女は希望の乗った瞳で、よくそう零していた。
元気になったらあそこに行きたい、ここへ行きたい。ワクワクしながらそう言って、いつも最後はこう結んだ。
――色んなところにお出かけして、でも最後は一緒におうちに帰ってくるの。そうやって、ずっとずっと三人で一緒にいたいなあ。
そんなふうに家族三人でのささやかな幸福を夢見ていた少女は死んだ。実の姉に見殺しにされて……。
くふくふと幸せをいっぱいに詰め込んだようなシエルの幻影にむかって、ラナベルは「無理よ」と囁いた。
「無理よシエル。……あなたがいないと私とお母様は愛し合うことなんて出来ないもの!」
今の現状を見ればよく分かる。
ラシナとラナベルだけではだめなのだ。橋渡しをするように二人を愛してくれていたシエルがいなければ、ラナベルたちの関係は成り立たない。
転んだまま起き上がることも出来ず、ラナベルは冷えた床に頭を押しつけるようにして泣いた。
思い出されるシエルとの温かな記憶に、胸中は嵐のように感情が吹き荒れる。
――あの子に会いたい。あの頃に戻りたい。
そんな切望する気持ちを断罪するかのごとく、責め立てる声が追って響く。
――私のせいで死んだのに。恥ずかしげもなくよくもそんなことを願えるのね。
思い出したシエルの笑顔で胸に温かいものがふっと灯るたびに、自分の手で粉々に砕いて足蹴にしていく。お前にそんな資格はないのだと。
ごちゃごちゃした複雑な感情で頭が支配されていたラナベルは、自分が今立っているのか座っているのかさえ分からなかった。
ふと、糸が切れたような感覚にゆっくりと瞬きをする。
すると――。
「……夜?」
気づくと、明かりの灯った自室でベッドに腰掛けていた。
着替える余裕などなかったはずなのに、今は真っ白なネグリジェを着ている。ぼんやりとした眼差しで白いワンピースを見下ろしていたラナベルは、ゆっくりと目許に触れてみた。
あれだけ泣いたのに濡れた跡も、熱をもった感覚もない。
(どうして……)
おぼろげにそう思ったとき、ガタガタと揺れる大きな音にハッと顔を上げた。見ると、バルコニーに繋がる窓ガラスが大きく揺れている。
おもむろに近づいてみると、ガラスが音を立てるほどの強風とともに雨が吹き付けていた。
(さっきは雲もなかったのに……)
それなのに、今は分厚い雲に覆われた空からは雨粒が叩きつけられ、ゴウゴウと地響きのように風が鳴っていた。
揺れるガラス戸にそっと触れる。ガタガタと指先に振動を感じながら、ラナベルはゆっくりと巻き戻ったことを実感していた。
記憶にある限り、こんなふうに悪天候だったのは二日前のことだ。
十二年前を思い出させる嵐のような天気に、なかなか寝付けなかったのを覚えている。
今のラナベルは、怯えることも記憶に苛まれることもなく夜の嵐を眺めていられた。だが、それは決してよい方向に切り替えられたわけではない。
なにも感じられないほどに、心が、身体が重いだけだ。
白塗りのバルコニーの先は、夜の嵐のせいで視界が確保できず真っ暗な闇のようだった。その闇が、いっそ魅力的に思えた。
誘われるようにバルコニーへと踏み出す。
細かい雨粒が痛いほど吹き付けてこようが、バランスを崩すほどの強風に晒されようが、ラナベルはただじっと前を――バルコニーの先に広がる闇を見た。
遠い意識のなか、自分の身体が雨で少しずつ冷えていくのが分かる。
どのくらいそうしていただろう。
ラナベルがバルコニーの手すりに手をついたとき、不意にどこからか風に乗って奇妙な音が聞こえてきた。
まるで馬の足音のようなそれに、ふとラナベルの碧眼が音を探すように見渡す。
――そうしてラナベルは
少しずつ近づいてくる馬の姿。その馬上には、見覚えのある青年の姿が……。
「レイシア殿下……?」
風にさらわれたフードの下から現れた白銀の髪が闇の中できらめく。
ラナベルの深海のごとき虚ろな瞳に、ぽっとかすかな光りが灯った。