「アメリーはそのときのことを気にしているのでしょう。自分があの時、私に声をかけなければ……そう思っているのです」
決断したのは私自身なのに……。そう言ったラナベルの碧眼が扉へと向かう。
その向こうに消えたアメリーの弱々しい背中を見るように、痛ましげに瞳が揺らいだ。
「それ以来神殿には足を踏み入れていません……治癒を失った私ではなんの役にも立ちませんし、神を敬う神官からしてみれば、見放された私は忌むべき存在ですから」
だからこそ、神殿側が渋るのも無理はない。
かける言葉が見つからない様子のレイシアに、ラナベルは笑って見せた。空元気のようにも見える、空虚さの漂う美しい笑みで。
「すべて私自身のせいなのです。助けを必要とする人々を勝手に天秤にかけ、勝手に判断を下しました」
私欲に走ったと言われても無理はない。しかもその結果、誰も救えなかったのだから。
「ご安心ください殿下。たとえ神託の間に行けずとも、私は最後まであなたにご協力いたします」
一度協力すると言ったのだ。今さら反故にはしない。
安心させるために力強く言ったラナベルだったが、なぜかレイシアの顔色は晴れなかった。むしろ、可哀想なものでも見るようなやるせなさが赤い瞳の奥に宿っていた。
(こんな私を憐れんでくれているのですね……)
てっきり自業自得で家族を失ったラナベルのことを、軽蔑されるかと思っていた。
ほっと安堵すると同時に、改めて優しい方だと思った。ほかの貴族のようにラナベルの罪を責めるのではなく、痛みに寄り添ってくれている。
控えたグオンも同じような顔をしていて、似たもの同士な二人に思わず吹き出しそうになった。
「契約書の内容は双方の同意があれば書き換え可能です。あとで作成者の元に一緒に行きましょう」
……あとやらなければならないことはなんだろう。
古傷を掘り返したような痛みがじくじくと身体の奥で疼く。それを無視するように頭を働かせるが、どうにも動きが鈍い気がした。
水に入ったときのように音が遠く、景色がぼやけたようなそんな
「私のせいでご迷惑をおかけして申し訳ありません……もし、婚約について考え直すようでしたらいつでもお伝えください」
自身の存在を脅威として見せたいレイシアにとって、神殿に入れてもらえないような悪い意味でのイレギュラーは望んでいないはず。
万が一彼が計画に支障があると判断するなら、喜んで従うつもりだった。
しばらくの沈黙の後、「顔を上げてくれ」と願うような必死さが隠れた声で言われてその通りにする。
こちらを見つめ返す彼からさっきまでの動揺は消えていた。固くムスッとした顔は、どこか怒っているようにも見える。
「今さら婚約を解消する気はない」
思っていたよりも随分とキッパリした迷いのない声に驚く。しかし、すぐに当たり前かと納得する。
国王たちに報告を済ませたばかりだ。今さらなしにしますとは言えないだろう。
けれど、真っ直ぐに見据えてくる赤い瞳に、そんな現実的な思考よりもなにか強い意志を感じてしまい落ち着かない心地になった。
「すみません。今日はアメリーのことも心配なのでこのあたりで……」
「ああ。気が利かずにすまない」
レイシアは、「また神殿と話をしてみる」と慰めるように言い置いて帰って行った。
◆ ◆ ◆
レイシアたちを見送ってすぐ、ラナベルはアメリーのもとに向かったが、すでに泣き止んだ彼女は目許にわずかな赤みを残すだけで元気な様子だった。
リリーたちが子犬のような顔でそばにいたのも大きいだろう。
むしろラナベルが入っていくと、途端に申し訳なさそうにするから悪いことをした気になってしまった。
十二年前のことはアメリーのせいではないこと。そして、レイシアがまた交渉してみると前向きだったことを告げ、今日は休むよう言いつける。
自室に向かおうと一人になって、ようやく人心地つく。
不意にラナベルは窓の外に目を向けた。晴れた夜空に、地平線にわずかに覗く夕日の赤が溶けあっている。
レイシアはもう王宮に着いただろうかと思いを馳せたとき、ふと邸から少し離れた白塗りの建物が目についた。
(祈りの間……)
貴族は代々神からの祝福を受け継ぐ者として信心深いものが多く、大なり小なり自宅に祈りの間を設けるものだ。セインルージュ家にも専用の部屋があったが、ラナベルの父がわざわざ立派な建物を用意したと聞いている。
父を含め、セインルージュ家は何代にも渡って権能が著しく弱まっていて、父はずっとそのことを憂いていたという話だ。
ラナベルはふらりと無意識のうちに祈りの間へと向かっていた。
夏に入った夜の空気は、陽が落ちても肌にじっとりと纏わり付くようだ。
綺麗に整列された石畳の通路を歩いていたラナベルは、祈りの間から明かりが漏れていることに気づいた。
かすかに開いた扉からの光に誘われるように、音もなくそっと近寄る。そろりと中を覗き見たラナベルは、膝をつく母――ラシナの姿にハッと息をのんだ。