ラナベルが権能を発現させたのは四歳の頃だった。
ほとんどの子どもが十を過ぎた第二次成長期に発現する中で、類を見ないほどの早さだ。
神殿には治癒の権能者が所属して治療を施す医療の奉仕施設としての側面も持つ。
ラナベルも、例外なく権能の発現後すぐに神殿に所属した。
首都の大神殿を赴いては、訪れる人々の治療に励む毎日。
最初は恐怖で震えていた短刀を持つ手は、すぐに躊躇いもなく肌を斬りつけられるようになっていた。
毎日ふらふらになるまで出血しても、インゴールの祝福のおかげか翌日にはケロリとしている。そのおかげでラナベルは神官として所属し始めてから一日も休まずに人々のために働き続けられた。
――辛いとも嫌だとも思うことはなかった。
父や母からは期待され、治癒をした人々はみんなラナベルを感動したように見てお礼を言ってくれる。
子供心に誇らしいと胸を張ることはあれ、役目を疎ましく思うことは微塵もなかった。むしろ、小さな身体だから治せる人数が少ないことを申し訳なく思っていたぐらいだ。
(もっと……もっと頑張らないといけないのに……)
未熟な身体に歯がゆさを募らせていた九歳のころ、アメリーからその言葉はもたらされた。
使用人も寝静まるような夜半。
ある日、気配を忍ばせてラナベルの寝室を訪れたアメリーは、涙をはらはらと零しながらラナベルの幼い身体を揺すって起こした。
眠い目をこすって起き上がると、アメリーは額を床に押しつけるように身体を丸めて懇願した。
「お嬢様、不躾ながらお願いがございます」
どうか私の父と母を……家族をお救いください。
涙に詰まりながら懸命に請われ、ラナベルは慌ててベッドから飛び降りる。そうしてアメリーに頭を上げさせて詳しく聞き出した。
アメリーの故郷であるその村は、少し前から疫病が流行り、今では村に在中していた医者も含めて病に倒れてしまったらしい。バタバタと人が亡くなり、自分の両親もいつ息を引き取るかと戦々恐々としているとのことだった。
「領主は一体なにをしているの? 周辺の街は……それこそ神殿に話がいけばあなたが頼まずとも私が派遣されるでしょう?」
「だめです……短期間で大勢やられ、周囲が気づいたときにはもう遅かったんです。領主は一度調査隊を向かわせただけでなにもしてくれません」
それでも、人が病に苦しんでいることを把握したのなら、神殿に助力を請えば良かったはずだ。そうすればラナベルを含む治療の出来る神官が派遣される。
――なぜ領主はそうしないの?
幼い顔に浮かんだ疑問に目敏く気づいたアメリーは、言いづらそうにおずおずと申し立てた。
曰く、ラナベルのような治癒能力の高い者の治療は、神殿への寄付金額が多い者が優先されるというのだ。
アメリーの地域の領主はさほど裕福ではない。アメリーの家も爵位を持ってはいるが領地を持たない貧乏貴族。とてもラナベルを派遣してもらえるほどの金銭は持ち合わせていないという。
「村が領地の奥だったため、現在は故郷の村だけで感染はおさまっています。それをいいことに、領主は村を切り捨てるつもりなんです!」
叫びが、ラナベルの幼い心を激しく衝いた。
そして、初めて知った神殿の内情に、幼いラナベルは愕然とした。足場の揺らぐような感覚に目眩を起きる。
(ずっと誰かの助けになれていると思ってたのに……)
いや、実際に傷ついた人や苦しんでいる人は助けられている。だが、その人たちよりもさらに強く救いを求めている人は?
アメリーの両親のように瀬戸際を生きるような者の助けを求める声に、自分の手は届いていない。
誇らしく心地よかった責任感や達成感が、幼いラナベルの身体に絶望となって重くのしかかった。
崩れそうになる身体を押しとどめたのは、目の前でさめざめと泣くアメリーの姿だった。家族を救って欲しいと泣く姉のような彼女の姿が、ラナベルの身体を奮い立たせ、突き動かした。
「大丈夫よアメリー。私が助けてあげる」
だから安心してと微笑めば、アメリーは頬を真っ赤にして安心したようにどっと涙を溢れさせた。
苦しむ人を救いたい。なにより、アメリーの頼みを聞いてあげたかった。
数年前――シエルの誕生とほぼ同時に父を亡くしていたラナベルには、家族を亡くす苦しみや痛みがよく理解できたからこそ余計に強くそう思った。
彼女はラナベルがどう答えようと村に帰るつもりだったようで、あらかじめ用意していた馬に二人で飛び乗り、夜通しかけて村まで辿り着いた。
村への道はことごとく封鎖されていて、遠回りしてやっとの思いで辿り着いたときにはもう遅かった。
静寂の広がる村を二人で練り歩いたが、どれだけ探しても息をしている者はいなかった。
試しに血を与えてもみたが、死んだ人間に効くはずもない。
泣き崩れるアメリーとともに村人の埋葬を済ませたときにはもう日が暮れていた。
(神殿のお役目を放棄してまで来たのに……誰も救えなかった……)
虚しさとやるせなさを抱えて邸へと帰る道中。運の悪いことに急な嵐に巻き込まれ、帰宅までにまたずいぶんと時間がかかった。
厚い雲が広がる空は普段よりもいっそう世界を黒く包み込んでいる。視界を奪われるような激しい雨と、耳をつんざくような雷鳴。
揃って下着までぐっしょり濡れて帰宅したのは、日付も変わってしばらくした頃だ。
遅い時間にもかかわらず、なぜか使用人たちは慌ただしく動いていた。そして、帰ってきたラナベルに悲鳴のように呼びかけると、すぐに祈りの間に向かうよう急かした。
泣き濡れた声で「シエル様が、シエル様が!」と言葉が詰まった様子に、ラナベルは嫌な予感を覚えた。走って白亜の部屋に飛びこむと、ぐったりとしたシエルを抱えた母が冷たい床に座り込んでいたのだ。
「お母様! シエル!」
駆け寄れば、ラナベルを認めた母の碧眼がギラリと光った。
「どこへ行っていたの!!」
頬を打たれ、ラナベルは冷えた床に倒れこんだ。続けざま、「シエルを治して!」と急かすように叫ばれ、その声に応えようとよろよろと身体を起こす。そうして幾度も自分の身体を傷つけてシエルに血を与えたが、シエルが回復することはなかった。
そのうち出血で意識を失い、再びラナベルが目が覚ましたときにはシエルは冷たくなっていた。
朝になってラナベルの行方を訊ねに来た神官によって、ラナベルは自分の行いゆえに祝福を取り上げられたのだと教えられた。私欲に走り、務めを放棄したことで神に見放されたのだと。そのせいで、シエルは死ぬ羽目になったのだと。
聖女とまで尊ばれた奇跡の治癒能力を持つ少女が、神から見放された。
――その話は瞬く間に世間に広がった。
そうしてラナベルは、一瞬にして人々の冷えた眼差しの対象になったのだ。
助けを待っていた人々からは罵られ、貴族たちからは下劣な人間を見るような眼差しが向けられた。
シエルの葬儀に出ることを、ラシナは許してくれなかった。使用人も誰も寄りつかない部屋の中で一人喪に服すラナベルのそばにいてくれたのは、アメリーただ一人だった。