王妃の茶会に呼ばれて以降は、とくに大きなトラブルもなく平和に過ぎていった。
しかし、王族や貴族の婚姻はなにも国王から認められて終了ではない。古くから神の祝福ゆえに発展を遂げてきたこの国では、神に仕える神殿で儀式を行うことも必要となる。
国王の認可後に神殿で高位神官から祝福を受ける。ここまでやりきって初めて正式な婚約関係と呼べるのだ。そして、最後は神の前で誓いを立てるべく結婚式を挙げれば晴れて夫婦となる。
国王から認められたラナベルたちは、つぎは神殿からの祝福を受けなければならない。
神官の祝福なく、神の前で誓いを結ぶことは出来ないからだ。
そのためにレイシアが代表して神殿に手紙を送ってくれていたのだが……。
どうやらすんなりと上手くはいかないらしい。
手紙を送ってから一週間ほどで、「返事が来た」とレイシアがセインルージュ家にやって来た。玄関ホールで向き合った彼の行き詰まったような顔を見たときから、ラナベルはなんとなく察してしまった。
しかし、
今回は婚約の日取りなどにも関係するので、側近であるグオンやアメリーにも同席してもらう。
アメリーはお茶の準備をしてから向かうと、少し遅れて後を追うことになった。
「神殿からのお返事は芳しくはなかったでしょうか?」
ソファについて早々、ラナベルから訊ねる。するとレイシアは、難しい顔――というよりも困惑の強い表情で一通の手紙を取り出した。
特殊な技法によって作られた、表面に波打つような凹凸のあるその純白の紙は、神殿だけが使うことの出来るものだ。
開いた手紙をもう一度確認するように
「今まで神殿が祝福を拒んだという話は聞いたことがなかったから油断していた……」
やはり、二人の婚約の儀式を断わられたらしい。
神殿にしては珍しい判断だ。
レイシアの言うように、神殿が誰かの婚約や結婚などの式典を拒否したことはほとんどない。
神殿とは、あくまで神に仕える信心深い者たちの集まりで、彼らの住まう一種の共同生活の場でもある。政治や貴族間の事情には深く関わらない――というある種の無関心を貫いてきた。
誰のことも受け入れる。その代わり、政治的配慮や貴族間の血統問題などさまざまな面倒ごとに巻き込むな。というのが、神殿からの無言の圧力だ。
なのに、王族と公爵家という一番敵に回したくはないだろう人間を拒否したのだとすれば、それ相応の事情があるはず。
そして、その理由がレイシアを困惑させている要因なのだろう。
「神殿はなんとおっしゃってるんです?」
問いかけると、レイシアの赤い瞳がチラリとラナベルを気にしたふうに見た。
「……ラナベル・セインルージュが神殿に立ち入ることを許せない、と申し出る信徒がいるため、今回神殿での祝福の儀を執り行うことは出来ない」
言いながら、レイシアは手紙を差し出す。受け取った文面に目を落としつつ、やっぱり自分のせいかとラナベルは納得した。
「神殿ではなく王宮で儀式を行うのであれば、大神官を派遣して祝福するとも言っている」
「大神官様が神殿から離れてわざわざ王宮までいらっしゃると?」
「ああ」
神殿では所属した年数の長い者ほど位が高くなっていく。――それだけ長い間、神に仕えているということだからだ。かといって、年を重ねるだけで大神官になれるわけでもない。神殿内や民衆たちからの支持もなければならないのだから。
そういった事情で、大神官は神殿内でも数えきれるほどの人数しか存在せず、その信仰への想いは人一倍強く神殿から離れることは滅多にない。
(それが最大の譲歩ということかしら)
レイシアが要約してくれた文面を追いかけていると、たしかに大神官の派遣について書かれている。
文字でありながら、王族の機嫌を伺うような腰の低さが見て取れる。やはり、王族の怒りは買いたくないみたいだ。
(それならいっそ断わらないほうが良かったんじゃ……)
今まで無関心であり続けたように、今回も形通りの式をして面倒ごとを避ければ良かったはず。
ラナベルが思うように、レイシアも同様の困惑を覚えたのだろう。
「神殿の大多数はこの件を断わりたくはなかったはずだ。そうじゃなければこんなふうに代替案を出してはこないだろう」
「位の高い神官の方で、私が神殿に行くことを拒む方がいるのですね」
「そうだろうな。よく見ると、一カ所だけ『彼女が』と書かれている。女性で位が高い者だと考えると、今話題の聖女とやらかもしれないな」
聖女――と、ラナベルは口の中だけで呟いた。手紙を持つ手のひらの古傷が、鈍く疼くように思えた。
ラナベルもその噂は聞いたことがあった。
ほか貴族との横の繋がりがなくても、数少ないパーティーの際に、令嬢たちが勝手にあれやこれやと離れたところから届けてくれるのだ。
レイシアとそう変わらないほどの年の女性だったはずだ。治癒能力に特別秀でていて、一部からは新しい聖女様と呼ばれているらしい。
「たしか、名前はシュティ・アンセル。伯爵家の出身だが、あの家はそこまで強力な権能を持っていたわけではないんだがな……」
レイシアは断わられたこともあってか、彼女の権能に懐疑的だ。しかし、家門の中で一人だけ強い権能を発現するというのは、ない話ではない。
「申し訳ありません殿下。私のせいでご迷惑をおかけしてしまって」
「ラナベルのせいじゃない。……まさか神殿がここまで拒否反応を示すとは思っていなかっただけだ」
仮にも
怒りが浮かぶその眼差しに、ラナベルの気持ちがどこか軽くなった。
王妃の茶会で指摘されてから名前で呼ぶようになったが、まだ慣れずに耳がこそばゆい。ラナベルも敬称を外す許可を得ていたが、どうにも恐れ多くていまだに呼べないでいた。
(殿下の口調も、どこか固さが取れたように思えるし……)
思わずふっと笑ったラナベルは、存外穏やかな顔で「仕方がありません」と続けた。
「私は神から見放された者ですから……貴族や平民でも忌み嫌います。信心深い信徒の方が反発しないわけがありません」
ましてや神殿は神に近しい場所として管理されている。見放された罪人のラナベルを、近づけさせたくはないのだろう。
噛み砕いてそう告げたとき、戸口のところでガラスの砕け散る音が盛大に響いた。
不意打ちの破裂音に、控えていたグオンが咄嗟に剣に手をかけた。レイシアとラナベルも思わず振り返った。
そこには、入室してきたばかりのアメリーが真っ青な顔で立ち尽くしていた。
彼女の足元ではまだ湯気の立つ紅茶が床に染みていて、カップの細かいガラス片が転がっていた。
「アメリー怪我はない!?」
慌てて立ち上がったラナベルを、焦点の揺れる灰色の瞳が追いかける。
ゆっくりとラナベルの金の輝きを認めていく瞳に合わせ、彼女は覚束ない足取りでふらりと近づいてきた。
足元の紅茶やガラス片など見えていないようで、踏みつけにされたガラスがカチャリと音を立ててさらに細かくなった。
「神殿での祝福を得られないのですか……? どうして?」
「ラナベルが権能を失った者だからだ。祝福を取り上げられた者が神殿に行くことを反対する神官がいて、神殿での婚約の儀は無理だと言われた」
明け透けなく話したレイシアの言葉に、アメリーの顔からどんどん血色が消えていった。
紙のように白い顔になったアメリーはその場で崩れ落ち、わっと手で顔を覆った。
「……私の、私のせいなんです!」
お嬢様は悪くありません! 世界中に訴えかけるようなアメリーの絶叫。普段の物腰柔らかく落ち着いたアメリーの激情に、レイシアとグオンは思わずびくついて呆気にとられる。
それを横目にするラナベルも、あまりに悲痛なアメリーの叫びに貫かれて立ち竦んでいた。