大股で歩くレイシアの腕の中――やや乱暴さを感じる手つきでラナベルは肩を抱かれていた。
王妃宮を離れ、正門にほど近い行政府を通り抜けていく。
足をもつれさせないように必死になっていると、不意にレイシアが立ち止まった。
「……どうして紅茶に先に口をつけた」
「勝手をしてすみません。しかし、殿下を毒味に使うようなことは出来ません」
自分なら死んでもさして問題はない。そう言うと、理解しがたいとでもいうように美麗な顔が歪んだ。
そんな顔をされると、どうしてかちくりと胸が痛んだ。
真っ直ぐにレイシアの顔を見られず、伏し目がちに謝罪と感謝を告げる。
「さっきはすみませんでした……フォローしていただいてありがとうございます」
あれほどの敵意を向けられた理由は分からないが、後半の労るような視線――あれはきっとラナベルを懐柔しようとしたのだろう。
冷静になって考えればすぐに分かることなのに、あんなに大袈裟に動揺した自分が恥ずかしい。
――ラシナもひどいわね。もう一人の娘を疎かにするなんて……
耳の奥に返ってくる言葉を、ラナベルは内心で繰り返した。
(もう一人の娘、か……)
果たしてそうだろうか。ラシナはシエルのことをそれはもう可愛がっていた。生まれながらに病弱だったというのもあるだろう。
侍女に任せたっていいのに、全ての世話を自分で買って出て、片時もシエルのそばを離れたことはない。――ラナベルにはそんなふうに接してくれたことなどなかったのに。
――母の娘は、シエル一人ではないか。
王妃の言葉を聞いて咄嗟に浮かんだ言葉が、再びじわじわと胸に迫ってきた。
そんなふうに卑屈に思うと、胃が小さくなったような鈍い痛みで息苦しさを感じる。
我知らず肩を竦めて固くなったラナベルを見下ろすレイシアは、苛立ちも削がれたようでふと罰が悪そうに唇を引き結んだ。
「すまなかった」
「え……?」
「王妃が友好的に迎えてくれるとは思っていなかった。だが、あそこまでお前に対して攻撃的だと想定していなかった」
「いえ……殿下に謝っていただくことではありません」
たしかに王妃のラナベルへの辛辣さは不可解ではあった。しかし、それもラナベルが動揺しなければよかった話だ。
「すみません。足を引っ張るような真似をしてしまい……あんな分かりきったことで動揺など……」
自分の落ち度に肩が重くなる。しおらしく謝るラナベルに、再びレイシアは鼻頭に皺を寄せて口を曲げる。
苛立ちまじりに「謝るな」と拗ねたように叱られ、思わず口を噤んでしまう。
「王妃はお前のことも、お前の家族のことも軽んじた。お前は怒っていい」
むしろ怒れ。そう言ってきそうな語気の強い主張に、憂い気だったラナベルの碧眼がきょとりと瞬く。
「……事実なのにですか?」
困惑を前面に出したつたない問いに、レイシアは耳を疑うようだった。また怒られる気配を感じたラナベルは、慌てて言葉を重ねる。
「母が私に褒められた接し方をしていないのは事実です。母が結婚してから苦労したのも、夫と娘を亡くして悲しんでいるのも」
「事実なら、お前を傷つけてもいいのか?」
言葉尻をさらうように言われ、ラナベルはさらに困惑を強くした。
――祝福をなくした者。妹を見殺しにした。神から見放された。
今までラナベルは貴族たちからなにを言われてもただ受け止めてきた。
どれだけひどい言葉を向けられても、それが事実なのだから仕方がないと思っていた。過去の自分の過ち故に、そう言われるのが当然とさえ思う。
王妃はまだ優しい。表面上とはいえ、ラナベルを労るような言葉を向けてくれたのだから。
彼の主張を一縷も理解できないラナベルに、苛立ちが浮かんでいたレイシアの顔がだんだんとやるせないものへ変わっていく。肩を抱いていた腕が、脱力したようにストンと落ちた。
「……あの言葉たちに怒りを覚えなかったのか?」
「怒り、ですか?」
繰り返しながら、王妃とのやりとりを思い返す。怒り……はなかったように思う。
と、不意にある言葉が蘇った。
――男爵家から公爵家に嫁いだから……
「……そういえば、両親の結婚について、身分差を咎められているように思えて少し腹が立ちました」
レイシアにはラシナとのひどいやり取りを見られている。それなのに、そんな母のために腹を立てるのはおかしいとまた怒られるだろうか。
叱られる前の子どもみたいに内心でビクビクしていた。
ラナベルもおかしいと思っている。愛して欲しいと思う心も、母を愛している気持ちも、全部もうなくしたはずだ。
今はセインルージュに生まれた使命感と義務感と少しの労りで、母を最後まで面倒見ようと……ただそれだけのはずなのに。
(それなのに母のことを咎められた腹が立つだなんて……)
一向にレイシアがなにも言わないから、ラナベルはそろそろと上目遣いに伺い見た。
そして複雑な表情をしたレイシアに、思わず息をのむ。
怒りたい――そう思っているはずなのに、そう出来ない理由があるような……まるでラナベルの心情を理解できてしまうが故の葛藤のようなものを感じた。
「馬鹿だな、お前」
最終的に小さく悪態をつき、レイシアはふいと歩き出してしまった。
その背中を追いながら、心がすこし開けたような心地だった。もしかしたら、共感を得られたのだと勝手に思ったからかもしれない。
自分よりも大きい年下の彼の背中を見ているうちに、不意にラナベルは心の内を零していた。
「王妃陛下は慰めてくれましたが、お母様の中では私は娘じゃなかったと思うんです」
だって、シエルみたいに身体いっぱいぎゅうぎゅうに抱きしめられたこともなければ、満面の笑みで呼びかけられたこともない。
母がラナベルに対して感情を大きく表したのは、権能が発現したときだ。ひどく感激し、泣きながらラナベルのことを抱きしめてくれた。
後にも先にも、記憶にある限りで母の腕に抱かれたのはあれっきりだった。
会話だって、神殿の活動はどうか、治癒は上手く出来ているか……そんなことばかり。
「……権能がない私は、きっと母の中では家族の輪にすらいないのでしょう」
言いながらレイシアを追って外へ出ると、ふと午後の陽差しに目が眩んだ。
「それでも、お前は娘だろう」
一瞬だけ目を瞑ったとき、その一言はスッとしみこむようにラナベルへ届いた。
あまりに端的で、そして淡々とした声だった。人によっては突き放されたと、冷たいと感じる人もいるだろう。
けれど、ラナベルにとっては違った。
遠くで樹木が揺れて葉のざわめきが届いた。そのあとすぐに、初夏の涼やかな風がラナベルの鮮やかな金髪をさらっていく。
身体の中も風で吹かれたような、そんなスッキリした軽やかさに襲われた。
「ありがとう、ございます」
風にさらわれるような小さな感謝の気持ちだったけれど、それでもレイシアにはしっかり届いたようだ。
こくりと頷いた彼に、ラナベルは歩調を速めてそっと隣に寄り添った。