王妃が敵意を向けてくる可能性について考えなかったわけではない。
むしろ、ああして権能を公表したレイシアについて、なんらかの苦言を呈してくると予想していた。
――だが、この眼差しはなんだろう。
ラナベルは内心でおおいに戸惑っていた。
王妃の視線の意図が全くつかめないからだ。レイシアへ向けられると思っていたその鋭さが、なぜかラナベルに向いている。
彼の婚約者だから……?
たしかにレイシアに対して友好的なのは表面だけで、物言いたげな視線はいつだってすべてを見透かしているようだ。しかし、ラナベルを見る双眸には、どこか底の深い言い知れぬ淀みのようなものを感じるのだ。
「母は現在も邸のなかで療養中です……王妃陛下に気にかけていただけるなど、母が知れば喜ぶと思います」
動揺は全て内心に留め、ラナベルは当たり障りのない言葉で返した。
その横顔を、レイシアが気にしたようにちらりと見る。
「男爵家から公爵家に嫁いだのだもの。苦労もたくさんあったでしょうね……しかも幼い令嬢や夫も亡くして……」
病んでしまうのも無理はない。そう言って王妃の目許に憐れみが滲んだ。
しかし、口許がうっそりと微笑んだままで、ラナベルは薄ら寒い思いがした。
額面通りに受け取れば苦労を嘆いてくれているだけだ。しかし、それだけには思えない。
ラシナの生家に言及したときの言葉は、ひどく棘があるように感じた。まるで、公爵家に嫁いだのは分をわきまえない行いだったとでも言いたげに。
ラナベルの胃の底で、苛立ちに近い感情が揺らめいた。
「母は妹のことを本当に愛していましたから……それだけショックだったのだと思います」
「同時期にあなたが権能を失ったこともあり、家のことや娘のこと、考えなければならないことが多かったでしょうからね……しようがありませんね」
そこでなにを思ったのか、王妃は昔ナシアスのパートナーとしてラナベルをあてがおうとしていたことがあると言ってのけた。
「あなたが権能を保持したままであれば、ナシアスと結婚して欲しかったものです。強大な権能は支持を集めるには一番の手段ですから」
その点、物心つく前から神官として人々を治癒していたラナベルはうってつけだったと語られる。
「強い権能、民衆からの支持、家柄、容姿……どれをとってもナシアスに申し分なかったわ」
だから権能を失ったときはずいぶんと落胆したものだと、王妃は肩を竦める動作をする。
(どうしてレイシア殿下の前でこんなことを……)
どう反応したものかと答えあぐねていたラナベルに、隣からすかさず助け船が飛んできた。
「王妃陛下、私の前だということをお忘れですか? ラナベルが素敵な女性であることは確かですが、そんなふうに言われてはナシアス兄上に会わせるのが不安になってきました」
「あら私ったら……ごめんなさいね。それだけラナベル嬢が素敵な女性だと言うことを伝えたかったのよ」
「それはもう重々に承知しています」
「けれど、噂ではお母様から辛く当たられているという話じゃない? 王族と婚約を結ぶに当たって自信をなくしてはいないかと心配になったの」
ドクリと一際大きくラナベルの心臓が高鳴った。
ラシナが病んで邸にこもっているのは有名な話で、周囲を考えずに庭や邸で声を上げるから隠せていると思ったことはない。
しかし、さすがに紳士淑女として娘を亡くして病んだ母を槍玉にあげるのは咎められるらしい。貴族間でどれだけ権能や過去の行いについて陰口を叩かれても、ラシナ関連のことで卑しい言葉を向けてくる者はいなかった。
だから、こうして面と向かって初めて母からの態度を言及され、図らずも頭が真っ白になった。
「いくら幼い娘を亡くしたとはいえ、セインルージュにはラナベル嬢のような美しい娘がもう一人いるじゃない? ラシナもひどいわね。亡くした妹ばかりに囚われてもう一人の大事な娘を疎かにするなんて……」
言葉にならない。
まるでそう言いたげに口許を手で隠して目を伏せた王妃を、ラナベルは起伏のない心持ちで眺めていた。
これではいけない。集中しないと――そう思っても、一度真っ白になった頭はなかなか正常に働いてくれない。
耳が遠くなったようだ。視界も聴覚も思考も、全てが薄い膜の向こうに追いやられたよう。
気を取り直すように「辛かったでしょう?」と、王妃は最初の敵意が嘘のような慰めの言葉を吐く。
同情するように。そして、それを救い上げようとするような柔らかさで。
「王妃陛下」
輪郭の曖昧だった世界を切り裂くような鋭い声が、ラナベルの意識を急速に引き寄せた。
「さきほどから私の婚約者にばかりご興味があるようですね。今日は王妃陛下といっそう親しくなれるかと思って張りきって来たのに淋しいかぎりです」
「……王族に嫁いでくる子ですから。どうしても令嬢のほうにばかりを話を振ってしまったわ」
「私の婚約者に関心を寄せてくれるの喜ばしいことです」
言った途端、レイシアの好青年の面が一瞬で剥がれ落ちた。と同時に、ラナベルの肩に腕が回され、そのままピッタリとくっつくように抱き寄せられた。
「ですが、母君や家族のことは彼女にとってはひどく繊細な問題です。あまり軽々しく訊くことはおやめいただきたい」
「そう。それはごめんなさいね。けれどね、レイシア。私はただラナベル嬢のことを心配しただけなのよ」
咎めるような言葉に、王妃は一切の動揺もなく、かといって不快さを示すこともなかった。
あくまで淡々と、会ったときから変わらないにこやかな表情のまま軽い謝罪を述べ、二人をじっくりと見渡すだけだ。
「今日はお招きいただきありがとうございました。彼女の顔色が悪いのでここで失礼いたします」
支えるようにラナベルを一緒に立ち上がらせ、レイシアはそのまま王妃に背を向けた。
慌てたラナベルがなにか言おうにも、肩に回ったレイシアの腕の力が存外強く、されるがままだ。辛うじて首を捻り、目を合わせてからぺこりと頭を下げた。
王妃は出口へと向かう二人の背中を、獲物を見つけた蛇のような静かな目でじっと見つめていた。そして、二人が温室を出ようとしたとき、不意に声をかけた。
「ミリアナの懐妊の報せが来たわ」
その言葉に、さすがにレイシアの足も止まる。
ミリアナは隣国に嫁いだ王女だ。彼女の懐妊が知らされたということは、つまり――。
「では、これで私の権能を認めてくれると考えてよいのでしょうか?」
「ひとまずは認めるということになっているわ。でも、ほかの貴族や民衆たちに無差別に知らせるわけにはいかないことも分かってちょうだい」
案に、あの場にいた王侯貴族のみが知る情報として扱うと、王妃はそう言っているのだ。
「もちろんです。いまだ発動条件もなにも不明なまま……こんな状態で民衆に知られては、悪戯に混乱を起こすだけでしょうから」
「理解を示してくれて嬉しいわ」
レイシアからすれば王妃やナシアスたちを中心に主要貴族に知れ渡れば満足なはず。言葉の通り不満はないのだろう。
話は終わりかとレイシアが一歩踏み出したとき、王妃は「最後に訊きたいのだけれど」と声音を低めた。
「レイシア、あなた王位を望む気はあるの?」
瞬間、張り詰めた空気にラナベルは息をのんだ。
温室の中は緻密な温度調節がされているため、ほどよく温かい。しかし、背中に突き刺さる王妃の冷ややかな視線で身震いがしそうだった。
一方で、レイシアは生き生きとした様子で再び微笑を貼り付けた。
「どうして突然そんなことをお訊ねになるのかは分かりませんが、私も王族の端くれです。いつだってこの国を思っていますよ」
答えにもなっていない言葉を言い置き、レイシアはラナベルを連れて温室を後にした。