「王妃陛下、本日はご招待いただきありがとうございます」
胸元に手を当てて
「いらっしゃい。二人ともさあ、こちらにお座りなさい」
向かいの席に促され、レイシアとともに腰掛ける。すると、侍女がすかさず紅茶を淹れて差しだしてくれた。
「突然呼び出したりしてごめんなさいね。前触れなく婚約だなんて聞いたものだからつい……神殿で正式に婚約を認められる前に、家族になる人と話をしてみたいと思ったのよ」
そう言う表情はにこやかだ。しかし、その裏でなにを考えているのか分からず、ラナベルは緊張したまま感謝を示した。
謁見の間で国王を一度止めようとしたところを見るに、この婚約について諸手を挙げて賛成しているはずがない。今の発言も、性急すぎる二人に向けての警告をほのめかし、婚約前の探りをいれているのだろう。
(こうして接触を試みてきたところを見るに、やっぱりイシティア殿下の件に王妃さまは関与しているのかしら……)
むしろ、当時十六だったナシアスが企てたとするよりも、その母である王妃が主犯だったと考える方が自然だ。
王太子派のほか家門の仕業だったとしても、王妃やその生家である公爵家を抜きに王族の死を狙ったとも考えにくい。
つまり、王妃が関与していない可能性など、ほとんどないに等しい。
レイシアだってそんなことはよく分かっているはずだ。そんな女性を前にして、彼は今なにを思っているのだろう。
「今日のために特別に用意したお茶なのよ。気に入ってくれると嬉しいわ」
緊張しないでちょうだいと、王妃は作り物のような笑みで促した。
謁見の時のように微笑を貼り付けたレイシアが頷いてカップを手に取る――その前にラナベルが先手を打った。
「もしや東部の茶葉でしょうか?」
軽やかにカップを手にしたラナベルに、二人の視線が集まった。
困惑したレイシアの視線に、ちょっぴり申し訳なくなる。しかしそんなことおくびにも出さず、ラナベルは涼しげに笑っていた。
「よく分かったわね。採れる数が少ないから、あまり流通していないのだけれど……」
「家にいることが多い私のために、侍女がさまざまなお茶を集めてくれているんです。東部のものは一際香りが良いですから……一度口にすれば忘れられません」
そう言って味わうように見せて、できるだけ時間をかけて飲み込んだ。
以前飲んだときと味に相違はない。もし毒が含まれていたとしてどの程度で効果が出るかは分からないが、ひとまず問題はなさそうだ。
「レイシア殿下もぜひ飲んでみてください。東部のお茶は、王妃陛下の言うとおりほかにはない特別な味わいですよ」
「……ああ。ラナベル嬢がそう言うなら楽しみだな」
事前にされていた言いつけを破ったからか、どことなく責めるような気配を感じたが知らぬ顔で受け流した。
だって殿下を毒味に使うなど出来るわけがない。なにより、こうしたほうが手っ取り早い。
(殿下も巻き戻ると分かっているのだから、それを利用してくれればいいのに……)
「死なない」というのは、レイシアの求めるこの計画において、最高の利点でもあるはずなのだから。
「恥ずかしながら東部のこのお茶は初めて口にしましたが、ラナベル嬢のいうとおりたしかに香りが良いですね。王妃陛下が気に入るのも分かります」
二人は意図的に視線を合わせ、仲睦まじく見えるように微笑み合う。
そんな二人の様子をじっと見ていた王妃は、「そういえば」とさらりと口にする。
「二人は婚約する身なのに、随分と他人行儀に呼ぶのですね。……もしや私の前だからでしょうか?」
それなら気にしないでいつものように呼び合ってください。
にこりと笑った顔は、それはもう美しく親しみを持たせるものだろう。本当に愛し合って緊張している二人であれば、その気遣いにほっと安堵するかもしれない。
そんなところまで気にかけてくれるとは……と感激するやもしれない。
だが、レイシアとラナベルにおいては痛いところを突かれた気持ちだった。
「王妃陛下の前で礼儀を疎かにするわけにはいきません」
咄嗟に微苦笑して誤魔化す。照れているとでも思ってくれればいいが、意味深に細められた双眸を前にすると、見透かされているようで冷や汗が出た。
(やっぱり私たちの婚約を疑っていらっしゃるわよね……)
今の照れ隠しと建前が通じない以上、どうするべきか。微笑みつつ思案していたラナベルの手に、不意にレイシアのものが重なった。
「では、お言葉に甘えてもいいでしょうか?」
――な? ラナベル。
ふと吐息まじりの低い声がすぐそばでラナベルを呼んだ。瞬間、カッと耳が熱を持ったように鋭く反応し、大袈裟に驚いてレイシアを見返してしまう。
しまった、と焦ったのも束の間、レイシアはふっと表情を崩すと王妃に向かって困ったように眉を落とす。
「申し訳ありません。やはり人前では恥ずかしいようです」
同意を求めるように微笑んだ深紅の瞳がラナベルへと流れた。その瞳の圧に、我知らずこくりと頷いてしまう。
「若い反応ね。微笑ましいわ」
王妃もひとまずは引き下がってくれるようだ。
それに安堵しつつも、ラナベルの心臓はまだドキドキしていた。
(誰かに名前を呼ばれたのはいつぶりかしら……)
アメリーや使用人たちはもちろんラナベルの名を呼ぶことはない。唯一名で呼ぶことの出来るラシナは、いつも罵倒するように「お前」と呼ぶ。
最後に、敬称もつけずに誰かに親しげに呼びかけられたのはいつだったろうか。
久方ぶりに他人の口から出た呼び声は、まるで水中から引き起こされたようにラナベルの神経を研ぎ澄ませた。
耳の奥に残る余韻に、無意識に浸るようにぼんやりしてしまう。
そうしているうちに、侍女が紅茶のおかわりを用意して新たな焼き菓子が置かれる。場を綺麗に整え直されると、この場に来た瞬間に巻き戻ったような錯覚を思わせた。
訪れたばかりの緊張感がじわじわと足元から戻ってくるようだ。
リセットされたように切り替わった空気に、不意に王妃の瞳が鋭い気配を持ってラナベルに向けられた。
「そうそう。お母様はお元気かしら? 姿を見なくなって久しいから心配しているのよ」
そう言って笑いかけてきた彼女に、どうしてか鋭い敵意を向けられたような底知れぬ恐怖を覚えた。