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第17話


 ――奥様がここに向かおうとしておられます。

 早口に告げられた言葉に、ラナベルは思わずアメリーを見返した。

 彼女の顔には緊張と焦燥が浮かんでいて、きっとラナベルも同じ顔をしていることだろう。

「ラナベル嬢……?」

 二人の空気から異様さを感じ取ったレイシアに呼ばれ、今の状況を思い出したラナベルは慌てて断りを入れてから応接室を出た。

「いったいどうしてお母様がここに?」

 いつもだったら最上階の自室で休んでいるはずだ。ラシナが自分からラナベルを探し歩くなど滅多にない。

 廊下に出てすぐに訊き返せば、アメリーもほかのメイドから報告を受けたのだろう。口承口調で素早く状況を伝えてくれた。

「どうやら今日は気分がいいと庭を散歩されていたようで……そのときに殿下とお嬢様を見かけたようです。訊かれた者が咄嗟にお嬢様の婚約者だとお伝えしてしまったところ、顔色を変えてここに向かおうとしているらしく……」

 ほかの者が止めている間にテトが泣きながら駆け込んで来ました、とアメリーは締めくくった。

「お母様は今どこに?」

 訊くと、どうやら庭に面した裏口からここに向かおうとしていて、今はリリーたちが止めているらしい。

(お母様は私の婚約なんて興味はないと思っていたけれど……)

 そもそも最終的には破断になるのだから、いちいち伝える必要もないと思っていた。家から出ないラシナには、お喋りな令嬢たちの噂話も届かない。

 ラシナには知らせずにひっそりと全て終わらせるつもりだったのだが……。

 さすがに先に伝えておくべきだったかと自分の失策にラナベルはついため息をついた。

「とにかく向かいましょう。興奮しているお母様を殿下と会わせるわけにはいかないもの」

 裏口へ向けて踏み出したところで、急に廊下の奥が騒がしくなった。曲がり角からのぞくと、すでにラシナがすぐそこまで近づいてきていた。

「邪魔をしないで! うっとうしいわね!」

 遠目にも怒気を纏ったラシナは、必死に止めようと腰に抱きついたメイドの一人に向かって拳を振り上げた。

「お母様、やめてください!」

 咄嗟に制止の声をあげれば、ラナベルを認めた母はそれしか見えないように血走った目でずんずんと進んでくる。

「婚約なんてどういうこと? この家を捨てるの!? それとも私を追い出すつもり!?」

「すぐにお伝えせず申し訳ありません。ですが、私はセインルージュを捨てる気もお母様を追い出すようなつもりもありません」

 謝罪をしつつキッパリ断言したが、むしろそれが腹立たしいとでもいうようにラシナは顔を険しくした。

 よくも堂々と嘘が吐けるものだとラナベルを糾弾する。そうやってしばらく喚いていたが、不意にラシナは勢いをなくしてしくしくと泣き出した。

「そうよね……私だけよね、こんなに悲しんで苦しんでるのも……お前はそうやって家も過去も捨てて幸せになろうっていうの?」

 ぶつぶつと淀んだ碧眼が呟く。そんなラシナの背中に手を回し、ラナベルはそれとなく彼女の部屋へと誘導する。

「お母様、大丈夫です。私は出て行ったりしません……ずっとそばにいますから」

 努めて穏やかに呼びかけ続け、心あらずなラシナを支えて階段を上っていく。が、踊り場についたところで、ふと昏い碧眼が明確な意志を持ってラナベルを見た。

「そばにいる……? 力をなくしたお前がこの家にいてなんになるの!」

 虚ろだった目には瞬時に凶暴な光が滲み、あっと思った時には突き飛ばされていた。危うく踏み外しそうになったところを踏ん張ってどうにか耐える。

 後ろをついてきていたアメリーが声にならない悲鳴を上げたのが分かった。

 ラシナの身体が弱っていなければ、このまま転げ落ちていたかもしれない。

「あの人があんなに目をかけていた力を失って! あまつさえ私からシエルを奪ったお前が! いったいなにが出来るっていうの!? そばにいてなんになるのよ!」

 怒りのせいか。それとも父やシエルを失った悲しみを思い出しているのか、ラシナのくぼんだ目からはさらに涙が溢れた。

「お前が死ねばよかった! どうせ力を失うんだったらお前が! あの人もシエルも死んでしまったのに、どうしてお前だけ……!」

 枯れ枝のような細い腕が、似合わぬ俊敏さで動いた。頬を打とうと振りかざされた手を、ラナベルは避ける気も起きずに静観していた。

 どうせ大した痛みは感じないだろうと分かっているからだ。

 ラシナの筋力が落ちているのもそうだし、そもそもラナベルには母に叩かれたところで痛いと思うような心の機微がもう残っていない。

 さっき拒絶されて突き飛ばされたときだって、これだけ怒りや悲しみをのせたラシナの叫びにも、ラナベルの心は鈍く揺らめくだけだった。そもそも正常な感知機能があれば自分で首を切りつけることなど出来やしない。

 それなら、いっそ正面から受け止めてあげたほうがラシナもスッキリするだろう。

 そう思って無抵抗で受け入れようとしていた身体が、不意に強く引っ張られた。

 思わずよろけた先に足場はない。一瞬の浮遊感に身体がギクリと強張った。

 あっ、と思い目を閉じたのも束の間、浮いた細みの身体はすぐに安定感のあるなにかに受け止められて、ラナベルはそろそろと瞼を押し上げた。

 ふと鼻をくすぐったのは王宮でよく見かける花の香りだった。

 柔らかな白髪に額をくすぐられて顔を上げる。ラナベルはそこで初めて、自分がレイシアに正面から抱きとめられているのだと気づいた。

「レ、レイシア殿下……!?」

 それを聞いたラシナもさすがに「殿下……?」と困惑顔になる。

「ラナベル嬢と婚約を交わしたレイシア・ヴァンフランジェと申します。ラナベル嬢の母君に挨拶もせず失礼をいたしました」

 レイシアは片腕でラナベルを支えたまま、形ばかりにぺこりと頭を下げた。

「どうして殿下などがこんな子と婚約を? ラナベルは権能も失っているんですよ?」

「俺にはラナベル嬢が必要なのです。事前に話を通さなかったことは謝罪しますが、婚約を取りやめるつもりはありません」

 取り付くしまもない様子で、「ご気分が優れないようですので、私たちはこれで失礼します」と一方的に告げたレイシアは、くるりと反転して階下へ戻る。――もちろんラナベルも連れて。

 彼の腕の中で二人のやり取りを半ば呆然と見ていたラナベルは、階段を下り始めてはっと我に返った。しかし、肩に回された腕は意外と力が強く、されるがまま部屋に戻る途中で廊下の隅に控えていたアメリーを見つけた。

 ――お母様をお願い。

 眼差しでの無言の訴えは無事に聞き届けられ、アメリーはおろおろしていたリリーたちを連れてラシナを階上へと連れて行った。

「あれが、お前の母親なのか……?」

 部屋に戻る最中、前を向いたままのレイシアが呟いた。独り言のようにも聞こえたそれに、ラナベルは静かに頷いて返す。

「母はシエルを……父の忘れ形見でもあった妹を亡くしてから気を病んでしまって……」

 申し訳ありませんと零した謝罪に、レイシアは「いや、いい」と短く答えただけだった。

 部屋に戻ったところでレイシアは気難しい顔でなにやら考え込んでいたし、ラナベルも身内のあんな場面を見られては気まずくて会話を弾ませることも出来ない。

 そうしてアメリーが報告のために部屋に戻ってきたのを皮切りに、レイシアはグオンを連れて帰っていった。


 ――そして半月後。

 隣国に嫁いだ第四王女ミリアナの懐妊の祝報を受け、ラナベルは契約通り命を糧に時間を巻き戻った。



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