さっきまで子どもみたいに拗ねていた可愛らしさはすっかり霧散し、獰猛な獣に見据えられているような刹那の緊張感がラナベルに走った。
「この契約は交換条件で成り立っている。だが、圧倒的にお前の利が少ない。王族と偽装婚約だってする羽目になったのに、どうしてそうも躊躇いがないんだ?」
今さらだなと思いつつも、きっとこれはずっとレイシアのなかに燻っていた感情なんだと察した。だからこうして正式に契約を結ぶ寸前になって堪えきれずに訊ねたのだろう。
構えていたペンを置く。ひとまずレイシアが納得するまでサインはしないと安心してもらいたかった。
そうして今一度自身の胸の内で
――どうして私は殿下に協力しているのか。
兄の仇を探すという彼の心情を思い、憐れみを抱いたのはもちろんだ。自分と重ねて、そしてまだ未熟さの見えるレイシアを放っておけないと手を差し伸べたくなった。
なによりラナベルは、自分が死んで楽になることが出来ないと思い知った九年前から決意していることがある。
「私に出来ることがあれば、それを精一杯やり抜こうと決めているんです」
幼いころから何度も胸の内で繰り返してきた言葉は、ラナベルの色づいた唇から淀みなく発せられた。しかし、レイシアを納得させるには抽象的だ。
レイシアの眉間の皺が深くなり、ラナベルは苦笑しながら続ける。
「死ぬことが出来ない私には、生きるしかないんです……ただ時間を浪費するぐらいなら、誰かのためになることをしたいと思っています」
「……そういえば昔は神殿で治癒をしていたんだったな」
「はい。物心ついた頃には誰かのために生きていましたから……どうにも、なにもせずに生きるというのが落ち着かなくて」
セインルージュ家の治癒能力は、必ず自分の血を与えなくてはならなかった。少なくとも鮮明に記録の残っている三百年ほど前からはそうだ。
しかし、ラナベルにとって自分自身を傷つけることはとても怖く、そして万人がそうであるように痛みが嫌いだった。
――だが、そんなふうに思っていたのは神殿で務めに入るまでだった。
初めてのお務めの日。怯えて真っ青になりながら手のひらを切りつけたラナベルは、痛みと出血で目眩がする思いだった。しかし、親の腕の中でぐったりしていた子どもがすっかり血色の戻った顔で微笑んだ姿を見たとき、ラナベルの感情は一変した。
あの瞬間、人生が変わったといっても過言ではない。
――神官さま、ありがとう。
全身が茹だったようなあの高揚感を、ラナベルはきっと忘れることは出来ない。
忘れられないからこそ、今のなにも出来ない自分がもどかしくて苦しくて仕方がない。
罪を償って死ぬことが出来ないというのなら――生きるしかないのなら、せめて自分に助けることが出来る人がいれば精一杯助けよう。
そうやってなんとか踏みとどまることで、ラナベルは日々を生き抜くことが出来たのだ。
そして今、目の前にはラナベルの力が必要だという人がいる。助けないという選択肢は、ラナベルには存在しない。
「……治癒の権能をなくして妹を亡くしたあの日から、私はただ母が穏やかに生きていけることを願っています」
夫の忘れ形見を失ったラシナがどれだけ悲しみ、身を引き裂かれるような絶望を思い知ったか……ラナベルは直接見ていたからよく知っている。
ラシナがそんな思いをしたのはラナベルのせいだ。だから、せめてお金に困ったり、不自由な思いをするようなことはさせたくない。
「母が亡くなった後は、セインルージュ家を解体して平民としてどこかでひっそり暮らしていこうと思います。だから、たとえこうして婚約したとしてもいつかはちゃんとお別れします。殿下の人生に縋り付いたりはしませんのでご安心ください」
よろしければ、契約書に追加しておきますか?
朗らかに訊くラナベルに、レイシアはゆっくりと首を振った。
「必要ない。警戒したところで無駄だと思えるほどのお人好しだ」
「そんなことはありませんよ……」
「人のために生きようなんて、よくそんなふうに思えるな。どうせ助けたってそいつは俺たちを助けてはくれないのに」
だから俺は自分のために生きる。
砂糖の塊を口に投げ込まれたような険しい顔で言い捨てたレイシアに、ラナベルは笑って頷いた。それもまた人の生き方として正しいと思ったからだ。反論するようなことでもない。
気を取り直して契約書にそれぞれ署名をすると、まるで深く刻みつけるようにサインが淡く光り出した。
しばらくして光りが落ち着く。興味本位でインクの上からそっとなぞってみたが擦れることも滲むこともない。しっかり契約が交わされた証だ。
これで両人の許可がない限り、この契約書は破棄できない。
「ひとまずは情報を得るまで動けませんね」
「ああ。俺が干渉することの出来ないものじゃないと信憑性も薄いからな」
それが焦れったいとばかりにレイシアが息をつくと、突然忙しないノックの音が響いた。
「お嬢様、申し訳ありませんがすぐにお伝えしたいことが……!」
ドンドンと余裕のないアメリーの声に急き立てられ、ラナベルは慌てて入室を許可する。
アメリーはなにを急いでいるのか転げるように入ってきた。
「どうしたのアメリー。今はレイシア殿下もいらっしゃるのよ」
アメリーのことだからそれぐらいは重々承知のはず。そんな彼女がこれだけ急いでやって来たのだ。
セインルージュ家で起こるトラブルとなると、その原因はほとんど決まっている。
(まさか……)
脳裏に過った可能性に心臓が嫌な予感を伝えてくる。
――奥様が……
足音もなく静かに駆け寄ってきたアメリーに耳打ちされ、ラナベルは瞬く間に焦燥に襲われた。