すでに過ごしたように身支度を終えたラナベルは、同じように王宮へ向かい、同じように王族に挨拶を済ませた。
雨が降ることを知っていたので、今度はワインを手に取らずにそうそうに帰ろうと思っていたのだが、不意に令嬢たちのことを思い出して外へ向けた足を反転させた。
彼女たちは記憶にあるとおり、壇上の王子たち相手に熱の入った目を向けていた。
きっとこのあとに来るのは、あのレイシアへ向けた嘲りだ。
その先手を打つように、ラナベルは令嬢たちに近づくとそろりと声をひそめて忠告する。
「王族の方々をそのような不用意さで話題にだすのはどうかと思いますよ」
咄嗟に飛び上がるように驚いた彼女たちは、その声の主がラナベルだと分かると、さらに驚きを深くした。
「どこに目があり耳があるか分かりませんから……お話には十分気をつけたほうがよいと思います」
言うだけ言って、時が止まったように動かない女性たちを警告するように細くした目でじっと見つめてから、ラナベルは会場を出た。
回廊を通りかかると、やはり雨音が耳につく。頭が締めつけられるような痛みを覚えて我知らず早足になった。
意識的に呼吸を深くして、ドクドクと速まりそうな心臓を落ち着ける。そうして馬車へ向かっていると、背後からバタバタと忙しない足音が急速に近づいてきた。ラナベルが足音に気づくと同時に、すでに真後ろまで来た人物に肩を掴まれて引き留められた。
その力強さに男だと判断したラナベルは、僅かな警戒心をもって振り返る。――けれど、その相手が第七王子のレイシアだったので、思いがけない人物にきょとりとしばたたいた。
どうしてここに……と思ったが、巻き戻る前でも回廊で出くわしていたのだ。出会うのは不思議ではないと思い直す。
(でも、この慌てようはどうしたのかしら)
レイシアの息は荒く、全力で走ってきたのがよく分かった。褐色の肌には汗が浮かんでいるし、見開かれた瞳は大きな驚きを表している。まるで死人でも見たような顔だ。
――レイシア殿下に
そう言うよりも早く、レイシアが悲鳴のように声を上げた。
「これはどういうことなんだ!? どうして時間が巻き戻った!?」
お前は死んだはずだろう!? と、捲し立てるような絶叫が響き、今度はラナベルが驚きのあまり息を止めた。
――覚えている? 私が死ぬあの瞬間を?
今まであった常識をひっくり返された。――ラナベルにとってはそれほどの衝撃だった。
自身の常識を壊されると、人は恐怖を覚えるらしい。今まであった前提が崩れ、足場を失ったような心地になったラナベルは、肩に置かれたレイシアの手を咄嗟に振り払い、そのまま逃げるように回廊を駆け抜けた。
どうして巻き戻ったことが分かったのだろう。
飛びこんだ帰りの馬車の中で悶々と考える。
なにより、王族であるレイシアに知られたのが問題だ。もし彼が国王や重役に報告をしたら……。
時の神の祝福を受けた王家でもないのにこの権能だ。危険視されるかもしれない。万が一、ラナベルがこれで自分勝手に時間を巻き戻っていると思われでもしたら……。
セインルージュ家の者まで巻き込んで処罰を受けるかもしれない。
(それは絶対にだめ……)
邸に帰って早々、アメリーを部屋に帰したラナベルは、意を決してもう一度首を切った。
そして巻き戻った先で参加した晩餐会で、残念ながらも再びレイシアに引き留められることになる。
逃げて、死んで、巻き戻って――何度かそれを繰り返し、雨音の届く回廊で声をかけられたのが五回を超したとき、ラナベルはようやく諦めることにした。
毎度手を振り払って逃げたからか、今度こそは逃がすまいと強く手首を掴まれている。
キッと見つめてくる猫のように目尻の上がった真っ赤な瞳に、ラナベルは諦念を浮かべて微笑んだ。
「レイシア殿下、もう逃げませんからご安心ください」
「……散々逃げた者の言うことか?」
「それは大変申し訳なく思っております。まさか誰かに巻き戻りのことで声をかけられるとは思っておらず、私自身も混乱しておりました」
本当に逃げないのかと疑わしげにジロジロ見ていたレイシアは、巻き戻りに言及した途端それ以外のことが頭から抜けたように身を乗り出して権能のことを問いただし始めた。
「やっぱり時が戻ったのはお前の力なんだな!? セインルージュはインゴールの血筋のはずだ。なぜ時が戻る? これは国王たちは把握しているのか?」
「で、殿下落ち着いてください」
勢いよく捲し立てられ、ラナベルは宥めながらも慌てて周囲を見渡した。しかし、こんなに早く会場を出てくる者は他にいないのか、幸い人影はなくほっとする。
「ここでお話しできることではありません。失礼ですが、日を改めて私の邸までお越しいただきたく思います」
「それで力のことを話してくれるのか?」
「はい。嘘偽りなくお話いたします」
一度言葉を切ったラナベルは、少し緊張気味にこくりと喉を揺らしてそっと頭を下げた。
「この力は私以外誰も知りません。どうか陛下たちへのご報告は私の話を聞いてからにしていただけたらと思います」
「国王も、誰も知らないのか……?」
頭上から降ってきた問いに、ラナベルは素直に頷いた。
なぜ申告しないと追及されるだろうか。そう思ったのだが……。
「……殿下?」
レイシアが急に押し黙ってしまったので、無礼と思いつつラナベルはそろそろと頭を上げた。そして、
「レイシア殿下?」
呼びかけた声は、底知れぬ静かな気迫に気圧されて震えていた。
「日を改めればいいんだな……分かった。あとでお前の邸に向かう」
「ご足労を……あ、」
言うが否や、レイシアはくるりと背を向けて会場のほうへと戻ってしまった。
「なんだったのかしら」
てっきりレイシアがこうも必死に追いかけてくるのは、時の神から祝福を受けた王族としての義務や責任からだと思っていた。しかし、さっきの昏く輝いた目を見ると、どうにも違う気がしてならない。
「まるで光明を得たような……」
そんな瞳だった。
レイシアの遠ざかる背中を眺めながらしばらく思案していたラナベルだったが、レイシアと接したことはほとんどなく、あの表情の意味は検討もつかない。
考えたって仕方がない。そう割りきって、今度こそ馬車へと向かった。
(それよりも殿下を招待するための口実を考えないと)
落ちぶれた公爵家が、一体なんの理由で末の王子を邸に招待できるだろう。
今まで文を交わすような友もなく、邸に招待するような機会もなかったラナベルは、帰りの馬車からベッドに入るまで唸るように考えていた。
結局いい案が浮かばないまま朝を迎えてしまったのだが、突然訊ねてきたレイシアのおかげで、それ以上悩む理由もなくなった。