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第2話

 入浴後に軽く食事を済ませたラナベルは、執務室で領地に関する書類に目を通していた。

 ラナベルたちが住むトリヴァンデス国を始め、この世界は神々から与えられた不思議な力を持って繁栄してきた。

 力は慈悲深き神からの祝福であり、神の権能として一族へと受け継がれてきた。

 ラナベルたちセインルージュ家は、血の神インゴールに祝福を与えられた一族だ。

 血は全ての生き物の命の源である。セインルージュはその命に関わる祝福を授けられたおかげか、身体の治癒に特化した家門だった。

 人々の傷を癒やし、なにより王族になにかあったときのための専門の治療師なのだ。

 その能力の稀有さから公爵の位を授かりはしても、急事の際にすぐ王宮へ向かえるよう王家と同じ首都に居を構えることとなっている。

 ほかの貴族のように領地を与えられはしても、それは形ばかりの小さなものだった。

 それでも精一杯領地の運営に関わってはいたが、若くして当主だった父が亡くなり、その後シエルが亡くなって母も外に出られるような体ではなくなった。

 当時ラナベルはまだ九歳だったので、アメリーの手を借り、縁戚を辿って信頼できる家門に任せたのだった。

 今じゃその男爵家が立派に運営してくれているので、ラナベルはこうして報告書に目を通すだけで済んでいるのだ。

「公爵の位だって、今じゃ形だけになっちゃったわね……」

 本来の役目は国の重役への治癒行為だったはずが、今じゃセインルージュ家に治癒を行える者はいない。

 母は別の家の出身で、そちらの一族の権能を受け継いでいたし、ラナベルはほんの十数年前には人々から奇跡とまで言わしめた権能の持ち主であったが、それは忽然と消えてしまった。

 その後、ラナベルには別の権能と思しき力が発現したが、それは誰にも明かすことの出来ないものだ。

 血が薄れて権能が弱くなっているのはどの家門も似たようなものだが、継承者がいない家門はこのトリヴァンデス国においてセインルージュ家だけだろう。

(お父様には申し訳ないわね……私が至らないばっかりにこんな形で家が終わってしまうなんて……)

 せめて、自分の権能が健在であったなら……。そうは思っても、全てラナベルの軽率な行いが招いたこと。

 今のラナベルには、悔やむことしか出来ない。

「お嬢様! すみません、奥様がまた!」

 と、ノックもなく飛び込んで来たのは、少し前に新しく雇った平民のリリーだ。

 急な入室にすかさず叱りつけようとしたアメリーを止め、ラナベルはリリーに先を促す。

「お母様がどうかしたの?」

 答えは分かりきっていたが、念のためと訊ねる。案の定リリーは「奥様がお嬢様をお捜しです」と真っ青な顔で言った。

「お嬢様、まず私が様子を見てきますから」

「いいのよアメリー。私が行くわ」

 言うが早く、ラナベルは足早にラシナの寝室へと向かう。

(たしか今日の付き添いの子は入って日が浅かったわよね)

 元々働いていた姉に続いて雇って欲しいと言ってきた少女だ。何度か会ったが、素直な明るい子だった。

 まだ成人前の少女を思い返し、ラナベルの足が速くなる。

 ラシナはラナベルを見ると不安定になることが多く、普段は邸の階を跨いで隅と隅で離れて生活していた。だが、こういうときはひどく不便だ。

 焦れる思いで階段を上って長い廊下に出ると、女性の荒れた叫びが届いた。

 次にガラスが盛大に割れる音と若い女の悲鳴が聞こえ、ラナベルは飛びこむように扉を開けた。

「お母様、遅くなりました!」

 わざと張った声に、部屋の中の視線がラナベルに集まった。

 壁に投げつけられて割れただろうカップが無残に落ちており、そばには心配していたあの少女が蹲っていた。見ると、指を切ったようで血が流れている。

 隣に付き添っているのが姉だろう。面影がよく似ていた。

 ラナベルが後ろに控えるアメリーに目配せすれば、彼女はすぐに姉妹の元へ行って部屋の外へ誘導した。

 肩で息をするラシナを支えるように立っていたもう一人のメイドにも、ラナベルは外に出るよう視線で合図する。

 姉妹を外へ出しても部屋に残っていたアメリーは意地でも動きそうにはなかったが、ラナベルが困ったように笑って首を振ると、苦い顔で渋々退室した。

 ドアが閉まると同時にラシナと向き直る。

 さっきまで叫んで暴れていたからか、ラシナはひどく疲弊していた。

 枯れ枝のような手でテーブルに手をつき、震える足でどうにか立って息を整えていた。

 くすんでしまった金髪の隙間から、ラナベルと同じ鮮やかな碧眼が覗くが、その瞳には凶暴な感情が滲んでいる。

「あの子はどこ」

「お母様、シエルは」

「あの子は、シエルはどこにいるのよ!?」

 テーブルに残った茶器が振り払われ、すぐにけたたましく砕け散った。足元に落ちた破片を、ラナベルは一瞥するだけに留める。

「お母様、シエルでしたらいつもどおりベッドで休んでいますよ」

「早く連れてきて! あの子が自分から私のそばを離れるはずがないわ!」

「寝ているんです。だからもう少しお待ちください」

 宥めようとラナベルが近づくと、途端に目の色を変えたラシナが飛びかかった。

「お前が! お前が殺したんでしょう!?」

「お母様、落ち着いてください」

「やっぱり殺したのね!? この悪魔! 実の妹を見殺しにするなんて!」

 ――そんなにあの子が憎かったの!?

 喉がすり切れるような絶叫に、ラナベルは一瞬胸を掴まれたように息ができなくなった。が、すぐに持ち直す。

「破片がどこに飛んでいるか分かりません。危ないですから一度ベッドに行きましょう」

「シエルを殺した手で私に触らないで! 死ね! お前なんて死んでしまえ!」

 ラナベルの手を振り払ったラシナは、そのまま後退してよろめくと、ストンと床に座り込んでしくしくと泣き始めた。

「ああ、シエル……シエル。どうして……」

 こうなった母にはなにを言っても届かない。むしろ、このまま泣き疲れて眠るのを待つのが一番安全だ。

 恋しいとばかりにシエルや父の名を呼ぶ母の声をじっと聞きながら、ラナベルは母が眠るまでその場で静かに立ち尽くしていた。

 それから一時間もせずにラシナは床で眠りについてしまったので、廊下に控えていたアメリーや使用人を呼び、ベッドまで運んでもらう。

 片付けも任せたラナベルが執務室に戻る途中、ふと少女の泣き声が聞こえて足を止めた。

「大丈夫よ、そんなに深くないから」

「で、でもお姉ちゃん、すごく痛かったの」

「今は血も止まったでしょ? すぐに痛いのもなくなるわ」

 曲がり角から覗くと、思ったとおり怪我をしたあのメイドがいた。姉に頭を撫でられる少女は、以前会ったときよりもうんと幼く見えた。

(前の私だったら、すぐに治してあげられたのに……)

 そう思うと心苦しくて、ラナベルはくるりと反転して反対側の階段に向かった。

 少しずつ早くなっていく足の動きに合わせ、心臓が嫌な予感とともにバクバクと大きく鳴り始める。

 ――心苦しいから背を向けたの? 違うでしょう?

 頭の中で冷静な自分が言う。その通りだと、ラナベルは内心で思った。

 申し訳ないと思ったのなら、せめて優しい言葉をかけてあげればよかったのだ。

 それなのになにも言わずに立ち去ったのは、あの子のことを思い出したからだ。

 執務室に行くはずが、ラナベルは我知らず自室に向かっていた。そして部屋に飛びこんだ先で、力が抜けたように座り込んだ。

 脳裏には、仲睦まじげな姉妹の姿が鮮明に焼き付いている。

 「お姉ちゃん」と呼びかける少女の声に、記憶の中のシエルが重なった。

 ――お姉さま、お庭に綺麗なお花が咲いているんですって。

 私が元気になったら、お母様と三人で一緒に見に行きましょう。約束ですよ?

 人々に治癒を施すために家を空けがちだったラナベルのことも、シエルはとても慕ってくれていた。

 会えば、その天使のような顔を綻ばせて小さな体で飛びついてきた。

 お姉さま、と無邪気に慕ってくれた愛らしいシエルの笑顔が思い返される。そして、頭に浮かぶシエルの微笑みが、一瞬でぐったりとしたやつれ顔に変わった。

「あ……」

 ――お前が殺したんでしょう!?

 血の気の引いたラナベルは、耳をつんざく叫びに「違う」と小さく答えた。

「違います。私だって救いたかった……生きてて欲しかった」

 たった一人の大事な妹だ。愛らしくて、可愛くて。私を純粋に愛してくれた、たった一人の子。

 それなのに――。

 脳裏で、あの日の惨状が明滅する。白いワンピースを汚す赤。紙のように白い顔で死にかけた、妹の青い瞳――。

「助けなきゃ……」

 ふらりと立ち上がったラナベルが呟く。なにかに急かされるように、ラナベルはふらふらした足取りで机の引き出しから白い柄の短刀を取り出した。

 乱暴に鞘を放り投げ、刃の鈍い光に魅入られた虚ろな目で、ラナベルは刃先を自身の首元に押し当てた。

 少し触れただけで、刀身はラナベルのまっさらな肌に血を滲ませる。

 チクリとした痛みに後押しされるように、ラナベルは短刀を勢いよく首にめり込ませた。

 途端に部屋に飛び散る血しぶき。熱いとも痛いとも知れぬ感覚に、ラナベルはいっそ安堵した。

 倒れて頭を打ち付けたのだろう。ゴンと強い衝撃とともに視界が暗転し、ラナベルは意識を手放した。

 あの傷の深さでは助からない。誰もがそう思うだろうに、ラナベルの意識は再び浮き上がっていく。

 目を開ければ、ラナベルは執務室で書類を手にしていた。

 聞こえた物音に顔を上げると、アメリーがお茶を用意しているところだ。

「……アメリー。今日は何日だったかしら」

 訊くと、彼女は不思議そうにしながらもすぐに答えた。――ラナベルの記憶にあるものよりも、一日ズレがある日付を。

 どうやら今回は一日だけ戻ってきたらしい。

 明日になれば、きっと同じようにリリーが執務室に飛び込んで来て、向かった先では姉妹が怪我をしていることだろう。

「アメリー……最近入ってきた子がいるでしょ? たしか、セトだったかしら」

「セトですか? 彼女がどうかしましたか?」

「明日、お母様のお世話係のはずだけれど、お母様に付き添うのはもう少し後にしましょう」

「かしこまりました。伝えておきます」

 お茶を出したアメリーはそう言ってすぐに部屋を出た。

 一人になった部屋で、ラナベルは深いため息をつく。

(どうして時間が巻き戻るのかしら……)

 十年前に初めて死んだときから繰り返した問いを、ラナベルはもう一度胸中で呟いた。

 死ねば時間が巻き戻る。――治癒の権能が消え去り、なぜか新しく発現したラナベルの権能と思しき力。

 この十年で自分なりに調べつくしたが、これが血の神インゴールの祝福に関係があるとは思えなかった。

 そして、時に関する祝福は王族に継承されしもので、迂闊に誰かに訊ねることも出来ない。なにより、時が戻ってもラナベル以外はそのことに気づくことが出来ない。そんななか、例え話をしても誰に信じてもらえるというのだろう。

 いっそシエルの死ぬ日に戻れれば――そう思っても、今まで一度たりとも年単位で巻き戻ったことはなかった。

 妹への贖罪で死ぬことも出来ず、かといって過去を変えて救われることも出来ない。

 じりじりと首を締めつけられているような息苦しさのなか、自分だけ違う世界を生きる孤独感に蝕まれて生きていくしかないのだろうか。

 そう思うと、ラナベルは途方もない気持ちになってまた死にたくなった。

 死んだところで同じことを繰り返すだけだと分かっているのに。それでも、ふとしたときに死を望むことをやめられなかった。

 死ねもせず、かといって救われることもなく、ラナベルは今日も無為な一日を過ごしていくしかなかった。


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