真っ暗な闇が広がっていた。
一抹の光りもなく、辺りを塗りつぶす暗闇。足元だけが不気味に白く浮かび上がっていて、ラナベル・セインルージュはそこに立っていた。
少し離れたところには、母――ラシナが座り込んでいる。その細腕にはぐったりした妹のシエルが抱かれていて、ラシナは普段の貴婦人然とした美しさを捨てて髪を振り乱した。
「お願い、お願いよ……この子を助けて……」
あなたなら出来るでしょう? と、ラシナは切実な声でラナベルに繰り返した。
幼い少女に向かって泣き崩れるように頭を下げる大人の姿は、事情を知らないものが見ればひどく不気味に、異様に見えることだろう。そして、そこまで必死に頼み込む女性に憐れみを持つはずだ。
けれど、哀願を向けられたラナベルは、まるで石になったように微動だにせず立ち尽くしていた。
本来の彼女であれば、すぐにでも駆けつけただろう。しかし、ラナベルはもう数え切れないほどにこの光景を見てきた。
そして自分の体がどうあっても動かないことを十分に理解していた。見届けることしか許さないと、そう言われている気分だった。
そのうちシエルが咳き込んで吐血すると、ラシナは今度は半狂乱でシエルの名を呼び出した。
「ああ、シエル! しっかりして……お願いよ、死なないで!」
喉に血が滲むような絶叫とともに、ラシナの碧眼に絶望が押し寄せる。
シエルの纏う真っ白なワンピースの胸元が、吐き出した血で真っ赤に染まる。
口許をべったりと血で汚したシエルの虚ろな目が、ふとラナベルを見た。
家族で揃いの碧眼には、気力のない鈍い光だけが浮かんでいる。死人のようなその瞳に見つめられると、ラナベルの肌が粟立った。
――怖い。
咄嗟に逃げ出したいと思っても、体は石のように動かず、ラナベルの瞳は死にゆくシエルから逸らすことが出来なかった。
血で赤く染まった小さな唇が、ゆっくりと形作られていく。死地の狭間で救いを求めるように。
――おねえさま。
「シエルッ!」
跳ね起きるように腕を伸ばし、ラナベルは寝台から身を起こした。
長く呼吸をやめていたように、懸命に息を吸いこむ。
動揺で揺れる瞳が、少しずつ夢から覚めていく。伸ばした手をそろそろと胸に抱き、ラナベルは肩を丸めるように深く項垂れた。
そうしてしばらくの間、早朝の青白い空気のなかにラナベルの呼吸音だけが静かに響き渡った。
ようやく息が整ってくると、ラナベルはおもむろに顔を上げる。
乱れた金糸の髪の隙間から覗く瞳は、夢で見たシエルよりもいっそう生気のない目をしていた。
それでもなお、母ラシナから譲り受けた深みのある碧眼は、見るものを絡め取ってしまうように美しい。
青い瞳はぐるりと部屋を見渡した。
床には足が沈むような柔らかさの上質な絨毯が広がり、平民であれば近づくことさえ躊躇うようなキラキラと輝く調度品たちが囲んでいる。
見慣れた部屋の様子に、ラナベルはやっとあれが夢だったのだと区別できて人心地ついた。
ため息とともに邪魔な髪をかき上げ、水差しに手を伸ばそうとしたところで、それが空であることに気づく。
(……今は何時かしら)
窓を見るに、まだ日は昇りきっていない。
侍女を呼ぶことに、一瞬だけ躊躇いを持った。だが、すぐに仕方がないと備え付けてあったベルを鳴らす。
すると、そう経たずに侍女のアメリーが顔を出した。
こんな時間にもかかわらず、アメリーの黒髪は綺麗に梳かしつけられて肩まで真っ直ぐ伸びており、そのグレーの瞳にも眠気は一切ない。
「お水をもらえるかしら。あと、汗を流したいからお湯の準備もお願い」
「はい。お嬢様」
差し出されたグラスをひと息で飲み干すと、アメリーはすぐに浴室へと促した。
「一人で入れるから着替えだけ用意しておいてくれる?」
「かしこまりました。なにかあればすぐにお呼びください」
テキパキと準備をしたアメリーは、気遣わしげな瞳を寄越すだけですぐに退室していった。
(いつもこんな時間に呼びだして申し訳ないわね……)
ネグリジェを脱ぎながら、ラナベルはふと思った。
こんな時間に呼びだしたにもかかわらず、アメリーは制服をキッチリと纏っていた。その姿を思い返し、申し訳なさが沸き立つ。
いつから準備してあったのか、温かく湯気の立つ浴槽を前にすると、余計に胸が痛んだ。
ラナベルが夢に魘されるのは、この十数年ほぼ毎晩のことだ。
そのせいだろうか。アメリーは日の出とともに呼びだしたっていつも完璧に応えてくれる。
思い返せば、最初のうちは彼女も寝起きだった気もするが、いつしか浴室に向かうまで時間がかからなくなった。
無理をさせている。そう思って目が覚めても呼ばずにいたこともあったが、心配したアメリーが様子を伺いに来て、結局気を遣っていたことがバレてしまった。
――お願いですから、私から仕事を奪わないでください。
まだ幼いラナベルの手を握り、アメリーはそう涙ぐんだ。
いつでも呼んでください、と言わなかったのは、それではラナベルが気にすると分かっていたからだろう。
だからわざと言い回しを変えたのだ。
(それが分かっているのに甘えてしまってるんだから、私もだめね)
浴槽の縁に頭を預け、心地よいお湯のぬるさに目を閉じた。けれど、瞼の裏に浮かぶ夢での光景にすぐに目を開けてしまう。
体に湯をかけたとき、ふと自分の手に目がとまった。手のひらに残る大きな傷跡に、苦い思いが広がる。
ラナベルが夢で見るのは、いつも同じ場面だ。
ぐったりした妹を抱えて助けを求める母。そして、それを見ているだけの幼い自分。
十二年前、シエルが死んだ日の記憶。ただ一つ違うのは、倒れたシエルを見たラナベルは、ラシナに呼ばれるよりも早く駆け寄ったことだろう。
すぐさま懐から取り出した短刀で慣れたように躊躇いなく自分に傷をつけ、ラナベルはその血をシエルへと与えた。
それでシエルは回復するはずだった。今までがそうであったように。
――どうして!? なんで治らないの!?
頭に残る叫びは、母のものか自分のものか、ラナベルには分からない。
容態の戻らないシエルを前に、焦燥と混乱で何度も自分に刃を突き立てたのは確かだ。
そして、あまりの出血に意識を失ったラナベルが起きたとき、もう全てが終わっていた。
シエルは息を引き取り、その亡骸の前でラシナは深い悲しみのあまり壊れてしまったのだ。