「ショウくん……もうこのまま、ずっと起きないの?」
ん……………………。
――女の子の声が聞こえる。俺……寝てたんだな。誰……
目を開けようとしたけど、何かに塞がれているみたいだ。
何? 包帯?
体を起こそうとしたけど、うまく動かない。
というか……すごく重い。
さっきの女の子が何かわめきながら、大慌てで部屋の外に出て行った。
なんなの……。
ああ、腹減った。
何か食いたい…………食う?
食う?
食う?
食う?
――食われる?
「ギャアアアアアアアアアアアア――――――――ッ 溶けるッ 溶けるぅ――ッ!」
俺は、動かない体を何とか動かそうと、寝台の上で身をよじった。
足は――溶けてる。
溶けてるから、だから、だから、溶けてるから――――――――
「うあ、やだ、やだ! いやだああああぁぁぁッ! うぁああうおああうああああッ」
「落ち着け勝利! ここはお前の部屋だ!」
別の女の人の声――。
痛い。
誰だ俺を押さえつけるのは。
やめろ、痛い。体が痛いんだよ。
なんでそんな痛いことするんだよ。俺動けないのに。
「勝利、勝利、私だ。分かるか? もう大丈夫だ。大丈夫なんだ」
シスターベロニカ、なのか?
もう、だい……じょうぶ?
いない?
あいつ――
「見えないよ……見えない……どこ、シスターベロニカ……」
シスターベロニカは、息子――俺の髪を愛おしそうに数度撫で付けると、ミイラのように全身包帯巻きになった俺の、頭部を覆うものを取り除き始めた。
彼女は、俺の後頭部に手を差し入れて頭を浮かせると、所々に青黒いシミのある包帯をぐるぐると巻き取り、それが終わると俺の頭をそっと枕に戻した。
次に、俺の目をすっぽりと塞ぐ眼球保護用のガーゼ、それを止めている粘着テープを剥がしていった。
粘着テープには髪の毛や眉毛が貼り付いて、剥がすと同時に毛がぷちぷち抜かれ、その度に、俺はうめいた。
俺の顔が全て露わになると、シスターベロニカは濡れタオルで俺の目の周りをていねいに拭いた。
「あれから一週間も経つ。そろそろいいだろう。ゆっくり、目を開けてみろ」
一週間……?
俺、一週間も寝てたの?
俺は、シスターベロニカに言われたとおり、ゆっくりと目を開けた。
ぼんやりとした視界。
何度か目をパチパチしてみた。
上から誰かが覗き込んでいる。
白黒のシスター服に金髪……これはシスターベロニカかな。もう一人、女の子が……誰だっけ。
「ショウくん、もう大丈夫よ」
さっきの声の子だ。えっと……
――そうだ。
こいつは、俺の『敵』だ。
「出て行け! ここから出ていけえぇぇッ!」
ベッドの上で、俺はもがいた。
身を起こすと、全身に繋がれたチューブやケーブルなどがギュっと引っぱられ、体の動きを妨げる。
いくつかは針が抜け、いくつかは機器から外れはしたが、無様にもがくだけで、負傷で衰弱した俺には、全てを引き千切りベッドから逃れる力は無かった。
もがき暴れながら、俺は『ガールフレンド』に向かって、何度も出て行けと叫んだ。だが、彼女は泣くばかりで部屋を出て行こうとしない。
俺は、さらにわめき散らした。出ていけ、出ていけ、と。
さすがに目に余ったのか、シスターベロニカが俺をベッドに押し倒した頃には、『ガールフレンド』と呼ばれる少女は、顔を覆い、項垂れながら部屋を出て行った。
俺が錯乱しているしばしの間、シスターベロニカはベッドの上で、傷ついた息子をぎゅっと抱き締めていた。俺も最初は暴れていたものの、ママの豊満な胸に抱かれると間もなく大人しくなった。
◇
元軍人だった彼女が、教団に雇われて数年で左手足を失い、主戦力として異界獣との戦いが出来なくなった時から、彼女の運命は義理の息子、多島勝利と共にあった。
俺が捨て子として赤ん坊の頃から教団に育てられていた……という話を、俺はともかくシスターベロニカは真に受けてはいなかった。
翼を生やし、人間を遙かに超える知覚と身体能力を持つ少年。
それは、彼女の理解を逸脱したオカルトな生物なのか、怪しげなバイオテクノロジーの産物である生体兵器なのか、兎にも角にも、そのへんに落ちているような代物の筈がない。
そんな子供の教育係を仰せつかった彼女は、最初はおっかなびっくり、宝物を扱うように育てていた。
武器の扱いを教えられる年になるまでは――。
◇
「さっきの娘は、お前のガールフレンド、遙香ちゃんだぞ。忘れたのか?」
正気に戻ったことを察したベロニカが、俺に話しかけた。
「……え? そう……なの? 顔は覚えているけど……でも……」
はあ、とシスターベロニカは嘆息した。
でも、自分とって害になる存在だ。そう俺の中の何かが囁いている。
「私が、お前の不調にもっと注意を払っていれば……許してくれ」
「いや……あの……」
記憶が混濁していて、何があったのかよく覚えていない。
本当に、何がどうして、今こんなことになっているのか。
なんで母さんが謝っているのか……。
ある程度、俺が落ち着いたと見たシスターベロニカは、引き剥がしてしまった点滴のチューブや、バイタルチェック用のセンサー類を、俺の体の元あった場所に戻しはじめた。針の抜けた跡に、青く血が滲んでいるのが痛々しい。
血液の青い生物というと、甲殻類や軟体動物が上げられる。赤い血の元は鉄を含むタンパク質、ヘモグロビンだが、青い血の場合は銅を含んだヘモシアニンだという。だが、酸素を失ったヘモシアニンは無色透明になってしまうので、俺の血のように青黒く変色することはない。
だとすれば、俺の血液は一体何で出来ているのだろうか?
もちろん、そんなことを、軍人出身であるシスターベロニカや、俺自身が気にすることはなく、もっぱら教団の研究機関で話題にされる程度の事なのだが。
「なにか食べられそうか?」
「うん……。腹、へった」
「わかった」
それだけ言うと、シスターベロニカは部屋を出て行った。恐らく厨房にでも行くのだろう。いまだ俺の頭の中は霞みがかかったように不明瞭なままだった。
シスターベロニカの持ってきたおかゆを食べて一段落した俺は、糖分が頭に回ってきたせいか、ぼんやりしていた意識がはっきりし、記憶も徐々に戻ってきた。
強い衝撃を受けると、ブレーカーを落としたみたく記憶がズドンと遮断される。思考も止まる。そして、一時的に本能にコントロールを預ける。もしかしたらこれが、自分の安全装置みたいなものなのかもしれない。だから、いろんなことを忘れてしまったんだ。
『私が、お前の不調にもっと注意を払っていれば』
さっきの母の言葉が胸に突き刺さる。
「違うよ……俺がヘマをしただけだよ。母さんのせいなんかじゃない」
俺は、一週間前の夜に何があったのか、やっと全部思い出した。
自分の身に起こったおぞましい事も。思い出したくはなかったけど。
俺は、緑地公園で異界獣と戦った夜のことを思い出していた。
あの惨たらしく、でも、俺等にとっては日常的な日のことを。
あの晩俺は、駆除対象=アンモナイトにペイント弾を撃ち、シスターベロニカ、シスターアンジェリカの待つ狙撃ポイントへと誘導していた。
アンモナイトは体高二mはある二足歩行の大きな化け物で、ドスドスと音を立てて俺を追いかけていた。俺のすぐ後を奴の触手がヒュンヒュン飛んできて、わずかなタイミングのズレや油断で、俺の体はいつ絡め取られてもおかしくなかった。
『ジュッ』
……と、耳元で何かが溶けるような焼けるような音がした。
正体はすぐに分かった。
――『強酸』だ。鼻に刺さる臭いがした。
奴が咥えていた犬も、この酸でむごたらしく表面を溶かされてしまったのだろう。
俺はこの時、一瞬で恐怖に囚われた。
普段なら感じることのない、恐怖に。
『次はお前だ』と、言われた気がした。
自分と遙香も、あのカップルみたいに喰われて頭だけになって、納体袋に詰められるまでの一連のイメージが、一瞬で脳裏を何周も駆け巡った。
普段なら、己の死のイメージなんて浮かばない。
任務以外のことは、頭から極力排斥出来るはずなのに。
敵の死のイメージだけが浮かぶのに。
――なんであの時に限って。
原因はなんとなく分かってる。
そう、遥香だ。最愛の女、遥香。
でもそれだけじゃない。
よく分からない自分の出自、何か裏がある教団の目的、そして上書きされ続ける己の記憶――。
自分の心が乱れないよう、余計な記憶を入れないよう、教団は莫大な資金を投入して様々な対策を施してきた。自分だけのために。何故?
俺がこの町へ来て、遙香と出会い、失ったと思われていた記憶がよみがえった。だがそれは、教団の恐れること――心の乱れを生み出す結果になった。
それはすなわち、教団の敗北、そして俺の死に直結する。
一番失いたくないものが、俺を死に至らしめるのだ。
あともう少しで指定ポイントに到着する、という所で、俺はハデに転倒した。
死にたくないと思うあまり、道の高低差に気付かずに蹴躓いたのだ。
日頃機械のように淡々と殺戮を行う腕利きハンターの俺の心に、一度沸いた恐怖と迷いは獲物の異界獣よりも手に負えなかった。
教団による過保護のあまり、恐怖を倒す手段、心を御す方法を、俺は何一つ知らなかったのだから……。
当然俺はアンモナイトに追いつかれ、太股から下を奴にバックリとやられた。奴の口の中は強酸の粘液が溢れ、俺の足は灼かれるように痛み出した。だが、あともう少し前に出なければ、狙撃の射線に届かない。
俺は激痛をこらえながら、奴の頭に特殊弾をブチ込んだ。
『ギョワェェェッ』
何の動物とも似ていない、耳障りな悲鳴を上げるアンモナイト。奴の口が開いた瞬間、俺はアンカー銃を遠くの木に撃ち込んだ。
このアンカー銃、普段は高い場所に登る時などに使っているものだ。
下半身を食われている最中に、当たるかどうかなんて分からなかった。でも、それしか逃れる方法はなかった。
俺はアンカーの先端が木の幹にヒットした瞬間、一気にワイヤーを巻き上げた。俺の体は化け物の口から飛び出し、地面を這い、真っ直ぐアンカー目がけて滑っていった。強酸でズル剥けになった両足が激しく地面と擦れて、死ぬほど痛くて痛くて、俺は歯を食いしばり、泣きながら滑っていった。
これ以上失敗が続いたら、自分は教団に居場所が無くなる。
教団しか居場所がないのに。
どこにも行かれないのに。
そうなったら本当におしまいなんだ。
もう、失敗なんか出来ない。俺はここにいたいんだ。
――だけど、遙香も記憶も失いたくない。矛盾してるのは分かってるけど――
その執念だけで残りの力と気力を振り絞り、俺は自らをエサに敵をおびき寄せた。
俺を追って狙撃ポイントに入ったアンモナイトは、見事粉砕された。
文字通り、木っ端微塵に。
――全く、俺も運がいい。
そして、その後意識を失って現在に至る、というわけで。
ひとつ間違えば自分は死んでいたし、射線に誘い込めず奴を討ち漏らしただろう。そして奴は仲間の肉を喰らってどんどん強くなって、さらに手がつけられなくなり、被害は拡大……という最悪のシナリオが待っていたはずだ。
シスターベロニカたちに救出された時には、俺の両足はかなり強酸で溶かされて酷い有様だった。筋肉と腱、そして一部の骨までが露出していた。
通常なら切断して義肢を着けていたろう。
だが俺は――
「勝利君、すっかり綺麗になってるね。歩けそうなら学校行ってもいいよ」
往診にやってきた教団の医師が、ベッドの中の俺に言った。昨日目を覚ました俺の様子を見に来たのだ。資料で俺の身体能力は承知していたものの、驚異の回復力を目の当たりにした医師は、終始すごいを連発していた。
教団所属の人外を、実際に目にする医師はそう多くない。彼もこれまでは、そんな医師の一人だった。なにせ教団全体で二十人もいない。超常的な事柄を扱う団体と分かって所属している一般系職員でも、実際に敵と接触する機会のある者は半分もいないだろう。
市内には、俺の通う学校のように、教団経営の医療施設がある。異界獣の湧き出す「ゲート」の密集しているエリアには、監視・殲滅拠点としての教会、俺のための高校、ハンターを収容する病院が、おおむねセットで作られる。往診にやってきた男は、そこからやってきた医師だ。
俺自身も、自分のことながら驚いていた。なにせ、ここまでひどいケガを今までしたことがなかったからだ。かの先生曰く、担ぎ込まれて最初の二日ほどは病院の薬液水槽に浸かっていたが、早々に骨が再生を開始し、三日目には筋肉などがおおむね再生、四日目の朝には皮膚までが再生をし、ほぼ元通りになってしまったという。
ここまで回復すれば水槽は用済み、薬液から取り出された俺は教会自室のベッドに移され、意識が戻るのを待つことになった。
――ところが翌日になっても、翌々日になっても意識は回復しなかった。
教会スタッフやベロニカ母さんはもとより、遙香や竹野まで心配して毎日見舞いにやってきた。誰もが俺の目覚めを待ち望み、日頃祈らぬ神に彼の回復を祈る日々だった。そして負傷から一週間、このまま意識が戻らないのではないか、と絶望する者も出始めた頃、俺は現世に戻ってきた。
「いやー、それにしてもすごい回復力だねえ」
「先生それ今日は十五回目ですよ」
いや~、とか、う~ん、とかうなりつつ、俺の肌をなで回しつつ、医師は点滴のチューブや、バイタルサインを調べるためのセンサー類を外している。
自力で食事も取れるのだから、もう点滴は必要ない。医療機器での記録もほぼ正常値で安定しているため、機材は不要となった。急変すれば、病院に搬送すればいい。
◇
医師が機材共々病院へ戻った後、シスターアンジェリカが、フルーツの盛り合わせを俺の部屋に持ってきた。タケノコが持ってきた見舞いの品で、さすが成金の息子だけあって高そうな果物ばかり入っている。
おそらく俺に食べさせようと、前から用意してあったのだろう、美しいカッティングの施されたガラス容器ごとよく冷えている。
「ショウくんさん、竹野さんから預かった雑誌だ、ですけども」
「……雑誌? えっと……なんだっけ……」
「表紙をベンジンで拭いて値段シールを剥がし、消毒スプレーをかけた後、透明ブックカバーでコーティングして、机の上の本棚に並べておいたぞ、ですよ。お使いになるならお持ちしますが、どんなのがいいですか?」
「……え」
背中に冷たいものが流れる。
さらっと恐ろしいことを、その名のとおり天使の笑みで言ってのけるシスターアンジェリカ。あんたはせどりでもやってんのか。
他人に性癖を見られることほど決まりの悪いものもなく、なおかつ、あれらはオーダーを受けたタケノコのチョイスであって、ズバリ自分の好みではない。
「あ、ど、どうも。おお、お手数おかけしまして……必要な時には自分で取りますから大丈夫です。はい」
(必要な時ってなんだよ! 自分で言ってて恥ずかしいわ!)
机の上をチラ見すると、確かに自分の頼んだエロ本が、つやつやのOPPフィルム透明ブックカバーに包まれて、エロ同人書店の薄い本の見本誌みたいになっている!
これをあのアンジェリカが……。これからどんな風に顔を合わせればいいのか。
正直つらい。
ああ……、きっとシスターベロニカにも見られている。親にオカズを見られるなんてクソ恥ずかしいにも程がある。
かなりつらい。
俺は、折れかけた心を立て直すため、食べかけのフルーツ盛り合わせを一気に平らげた。さすがに高級フルーツ、食材パワーが強い。MPもかなり回復した。
――これならイケる!
意味深な笑みを残してアンジェリカが去った後、彼はタケノコの持って来たエロ本を見聞しようとベッドから降りた。
「ぐっ……」
痛い。
足の裏からふくらはぎ、ふとももと、軋むような痛みが走る。
でも、歩けないほどじゃない。
ああ、こうやって人体は動きを筋肉で伝えていくんだな、と保健や生物の授業を唐突に思い出しつつ、筋肉の収縮を確かめるように足を動かした。
そして俺は、壁に手を突きながら、机までゆっくり歩いていった。
歩いていると徐々にこの痛みと違和感が薄れていく。
なんだか筋肉全体がジンジンする。不思議な感触だ。
そうか。
皮膚は生まれたばかりで、中身の肉体と馴染んでなかったんだ。だから、不具合を起こして痛かったんだ。そんな気がする。
やっとの思いで机に到着した俺は、ゆっっっくりと椅子に腰掛けて、お宝を楽しむことにした。
……が、一冊だけ後半シスターものになってる。せっかくのオカズ、もったいないけど使えない。
シスターだけは絶対ダメ。どうしても、そういう気分になれないんだ。
性的対象とは思えないのは、いつも身の回りにいたからだろう。
上がったテンションが一気に下がる。ふう、とため息。
それと同時に、ふと遙香のことを思い出し、切なくなってきた。
(そういえばさっき……ハルカ泣かしちゃったんだっけ)
遙香にあんなひどいことするなんて。自分が信じられない。なんで彼女のことを「敵だ」なんて言ったんだろうか……。彼女のことを考えると心が揺らぐから、本能が命に関わると判断したのか。確かに、非常時に彼女のことなんか考えていたら、マジで死んでしまうかもしれない。
――この間の夜のように。
やっぱり、一緒にはいられない。
このままだと、彼女も傷つけるし、自分も死ぬかもしれない。
だけど。
ふぅ―――――――――――――― …………。
「俺のこと、嫌いになってくれないかな……」
……………………………………そんなの、スゲエ嫌だ。
イヤだ。イヤに決まってる。
でも、ダメにも決まってる。
「うああああああああああああああああ……んもおおおおおお……」
俺は頭を抱えて、悶え、のけぞった。
このまま付き合えば、命に関わるし、失敗を続けたら教団にも居場所が無くなる。
どう考えても彼女と付き合うのは、ドがつくほどマイナスだ……。
頭じゃ分かってる。
本能ならもっと分かってる。
でも気持ちはそうじゃない。
もっといろんなことしたかったのに。
あんなことや、そんなことや。
……俺のこと、正体知ってても怖がらないし……俺に惚れてるし……もう、遥香を逃したら、俺に彼女なんか一生出来ないに決まってる。シスターなんか論外だし。
ああもう、そんな事考えたらダメだ俺、考えたらダメなのに。
ダメ……なのに。
「ハルカぁ……やっぱ、せめて、せめてお別れくらい言いたいよ……」
俺は、机の上に突っ伏して、愛しい遙香を想ってメソメソ泣いていた。
だってしょうがないだろ。イヤだよこんなの。
初恋なのに。十年越しに再会したのに。
……いや、俺忘れてたけど。
ひとしきり泣いた後、俺は空になったガラスのボウルを持って部屋を出た。
無人の廊下が、オレンジに染まっている。
(今は夕方なんだな……)
廊下の窓から何気なく門の方を見ると、誰かがうろうろしている。
……女の子?
……視界がぼんやりしてるのは、ずっと目を塞がれていたせいなのかな。
そんなことを思いつつ、俺は手の甲で、少しねばついた目をごしごしとこすった。
「ハルカ、どうして…………」
昨日、あんなにひどいことをしたのに、何故来たんだろう。
どうしよう。謝りに行くべきなのか。このまま嫌われている方がいいのか。
俺は途方に暮れて、その場に座り込んでしまった。
俺の頭上を通り越して、朱い日が真横に差し込んでくる。
窓の下、腰壁に寄りかかって影の中に潜む自分は、まるで日光を避ける
今の自分は泣きたくなる程みっともない、手負いのゴミムシ。本当は、光を纏う天使のはずなのに。
天使ってなんなんだろう?
伝承によれば、神のメッセンジャーだという。では、その神は一体どこにいるのか。最低線、自分はそんなのも見たことも聞いた事もないし、電波が降ってきたこともない。伝承なんてうそっぱちだ。自分には血も肉もあって空も飛べない。ただのそういう生き物。後世の人間が勝手に美化してるだけだ。
本当の自分はバカで世間知らずで、黒子ように人目を忍んで、夜の町の害獣駆除をする清掃業者。赤青黄色緑紫白黒透明……虹色の返り血を浴びて、化け物の憎悪と苦しみと断末魔の叫びを身に浴びる男。クソのような大人達に唾棄される男。それが俺、多島勝利だ。
教会の皆は、自分にそれを悟られないように、毎日毎日、楽しい夢を見せ続けてきたのだろう。闇にフォーカスさせないために。
――でも、しょうがないじゃん。俺、気付いちゃったから。
窓の外をこっそりと覗き込む。もう一度ハルカを見たかったから。
胸が締め付けられた。胸だけじゃなくて首まで締め付けられた。
俺がこのあいだ下駄箱前で締め上げたタケノコみたいに。
遙香も、さっきまでの自分みたいに、門柱に背を預けて座り込んでいた。
「ショウくん、彼女さん表にいるけど、連れてきていい? あれじゃかわいそうよ」
いきなりシスターアンジェリカに声をかけられた。
いや……、自分が気配に気付かなかっただけだが。
意を決して、こう告げた。
「帰ってもらって下さい。もう、会わないと伝えて下さい」
アンジェリカは本当にいいの? と何度か念を押したあと、立ち去った。
彼女はそのまま遙香の所に行き、二、三言交わした。
遙香がアンジェリカに食い下がったが、アンジェリカは頭を左右に振って屋内に戻っていき、遙香はその場で、顔を両手で覆った。
気付いたら、俺は窓ガラスに爪を立て、うめき声を上げていた。
――会いたい。会いたい会いたい会いたい。会って抱き締めたい。
耐えられなくて、窓を開けて外に飛び出そうとした時、誰かが遙香に声をかけた。
――タケノコだ。
タケノコは、遙香にハンカチを渡し、背中をさすっている。多分彼女は泣いていたんだ。そして、奴は遙香に手を差し伸べ、彼女を引き起こした。
遙香はスカートの後をパンパンと払うと、荷物を拾ってタケノコに促されるまま俯き加減で歩きだした。
一部始終を見ていた俺は、以前自分が言ったことを思い出した。
『もしも俺に何かあったら、ハルカの力になってやってくんないかな』と。
タケノコは自分の言ったことを忠実に実行しているんだ。
そうさ。そうだけど……。
遙香たちと己の間に、空気の壁が出来た気がした。
いや、次元の壁、みたいな。見えるけど交われない。もうムリなんだ。生きる場所が違い過ぎる。
◇
落ち込んだらいつもみたいにシスターたちに甘えて慰められればいい。
だって俺の権利だもん。俺は教団に愛されていればいいんだ。
俺が誰かを愛する必要なんかない。
――俺が誰かを愛する必要はない。そうでしょ、母さん?