遙香に泣きつかれた俺は、その後数時間引き留められてしまった。
思い詰めていたのは、自分だけじゃなかった。遙香もだった。
十年間もの長い間、自分を思い続けてきた彼女の気持ちを想像するのは難しい。
――だけど。
結果的に、彼氏 (仮)が、彼氏 (正式)に格上げになった。
これは、幸いなのか災いなのか。
今の自分には、生きる理由がある。忘れたくないものがある。
それを確信出来ただけで上等じゃないか。
俺は、失われていた心の一番大事なピースを得た気がした。
◇
俺が、すがる
「ただいま」
教会に戻ると、玄関でシスターベロニカがブーツを磨いていた。
「遅かったな。さっさとメシを食え……ん?」
「な、なに?」
ベロニカはニヤリとすると、
「ずいぶんとスッキリした顔をしてるじゃないか」
「えっ、な、何のことかな」
背筋に冷たいものが流れる。
「お楽しみも結構だが、避妊はちゃんとしろよ」
「うっ…………」
彼女の目はごまかせなかったようだ。
その通りだが親に露骨に言われると、たまらない心地になる。
「もっとも、お前の子供なら教団は喜んで育てるだろうがな」
カラカラと笑う母親の前から、俺はそそくさと立ち去った。
◇
俺は料理番のシスターに怒られながら、山盛りのからあげを特急で腹に詰め込んで、食後シスターベロニカの部屋を訪ねた。
「これ、どういうことなんだ」
俺はコピーした地図を彼女に見せた。一切合切、説明してもらわなければ。
シスターベロニカの部屋は俺の部屋とおおむね同じ広さだが、会議机や作業台などを追加で入れてある。作業台の上には、工具やメンテ中の武器が転がっている。
シスターベロニカは比較的まだ空いているテーブルの上を探し、ジャマな工具や雑貨などを手で端に押しやると、バラバラにコピーした地図をテープでつなぎ合わせ始めた。
「この地図は、教団の周りを嗅ぎ回っている一文字とかいうジャーナリストのものか?」
やはり、遙香のお父さんは教団にマークされていたのだ。
――ということは、彼女もか?
「うん。家の居間に貼ってあった。これ……俺達が移動してきた場所、だよね。しかも、点のある場所には、教会や他の教団施設がある……」
地図に記された点と点を結ぶと、首都圏がすっぽり入るほどの大きな魔法陣が出来上がる。円の外周は二重のリング状になっていて、内側の広い部分には大きな星型状に線が引かれている。星の頂点にあたる場所には、いかにも意味深に、タワー状の大きな構造物がある。
遙香の父親の件に教団の関与はあるのか、ダメ元で聞いてみよう。
「……一文字さんの失踪に、ウチは何か関わっているの?」
「いや、私は知らない。だが、教団から娘の排除命令も出てはいない。だから、本部と一文字氏失踪との関係は、ないと見ていいだろう」
「そう、なんだ」
俺はほっとした。だとしたら、本当の理由は一体……。
「いいか、勝利」
シスターベロニカは、外周のリングに指を這わせ、ゆっくりと円を描き始めた。
「今更隠し立てをしても仕方がないので、私の知っている範囲のことをお前に教える。ただし、実務に関係のない部分は極力情報を与えられていないので、お前の満足いく回答が出来るかどうか自信がない。全てを聞いた上で納得のいかない場合は、自主的に教団本部に問い合わせて調べるがいい。……本当のことを連中が吐くかは分からないがな」
そう言って、シスターベロニカはニヤリと笑った。
「はい……」俺はゴクリと唾を飲み込んだ。
シスターにも与えられていない情報とは、一体何なのだろう……。
夕食のからあげの油が程よく体に回り、少々脳味噌がゆったりしてきた頃。シスターベロニカの部屋で講義は始まった。講義というよりも、ブリーフィングに近いようだが。
「この魔法陣の概要を教える。一世紀ほど前のことだ。ある男が、ある目的のために、帝都周辺に巨大な魔法陣を描いた。男は何年もかけて、こつこつと異界への小さな穴を無数に穿ち、地上に幾何学模様を彫り込んだのだ。地図上に描かれているこの魔方陣は、頂点と頂点だけを結んで描いたものではなく、この線の下にもちゃんと穴は存在している。それらは主に地下水脈や竜脈、霊気の流れと交差する場所などを選んで穴を穿たれている。だが、犯人は分かっているものの、どうやってこの穴を開けたのかは、未だ解明されていないのだ。だから、誰も塞ぐことも出来ず放置されている」
「この穴って……」
「そう。我々のよく知っている、あのゲートだ。この穴の一つ一つが異界と繋がっており、獣が湧き出す出入り口となっているのだ。ただし活動しているのは外周部分で、内側の星形部分は休眠中だ」
なんということだ。
これだけ巨大な図形を点々で描いていったというのか。それも、膨大な数のゲートを開けて。どおりで自分たちの仕事がいつまで経ってもなくならないはずだ。
「この魔法陣が発動すると、異界への巨大なゲートが発生する。この円そのものが異界への穴となるのだ」
「なん……だって?」
俺は絶句した。核兵器ですら、そんな大穴を一発で開けるものはない。
「発動方法は、外周のリングを駆除対象で埋め尽くし、多くの生け贄を捧げることだ。具体的に言えば、リング内の人間を虐殺し尽くすことだ」
「虐殺……」
確かに、あいつらを野放しにしておけば、確実に人間は死滅する。
無邪気に殺す奴もいれば体液を吸い尽くすもの、肉を食らうもの、骨を食らうもの、いろいろだ。
「……この巨大ゲートが開いたら、どうなるんだ?」
まさか、魔王や邪神でも沸くのだろうか?
「今、お前が想像したようなものが、こちらの世界にやってくる。その際の被害は天文学的、世界大戦が数回起こった時に匹敵すると言われている」
「なん……だって? 世界大戦なんて、一度でも起これば人類終了じゃないか!」
彼女は一旦、ペットボトルのお茶で喉を湿らすと、講義を再開した。
「さて、現在我々が教団の命により日々遂行している任務は、外周リングに駆除対象が拡散するのを防ぐのが目的だ。広大なエリアをカバーするため、私のような元軍人を始め、元自衛官や元警官など、戦闘訓練を受けた多数の人間が前線で働いている」
「まあ、それは知ってるけど。……にしたって、地面にでかい魔法陣、湧き出す化け物、開いたゲートから大魔王……って、どんだけベタなんだ」
「いいか勝利、よく聞け。この世には古より伝わる神話、伝承、民話、寓話、童話、民謡、舞踊など、およそ物語と名の付くものの全てがフィクションとは限らない。そういったものに偽装した真実というものも、案外隠されているのだ。お約束もその一種だ。だからこそ、人は油断し、見過ごしてしまう。月刊都市伝説マガジンが教団から目こぼしされているのも、世間から見過ごされるような怪しげな存在だからなのだ」
確かに、と言うしかなかった。
そもそも俺自身が説明もつかない、常軌を逸した生物なのだから、魔王がいたっておかしくないじゃないか。教団の皆は俺のことを天使だと断定しているが、他の有翼種かもしれないし、誰も本物の天使を見たことがないのだから、前提そのものが間違ってる可能性だってある。
「俺等って、沸いたら駆除、沸いたら駆除、を繰り返してるけど、なんとか穴を塞ぐ方法はないの? トンデモ武器を作ってる場合じゃないでしょう」
「先ほども言ったが、出来たらもうやっている。一世紀かかっても、まだ見つからないのだ。恐らく、開けた本人にしか分からないのもしれない。よって二次的になるが、駆除対象が発生する度に排除するのを繰り返すしかないのだ。手段が見つかるまで永遠にな」
俺はうんざりした。一生こいつらと付き合わされるのか、と。
「さっきお前が言っていたが、穴の近くに教団施設が存在する理由は、……もう分かるな? 我々実動部隊が活動しやすくするためだ」
「だよね」
「だが、学校だけは、お前のために作られた物だ」
「俺の……ため?」
「ハンターを支援する施設なら、最初から学校など必要ないのだ。原則的に学生は存在しないからな」
「んまあ……確かに。じゃあ、どうして?」
シスターベロニカはこほん、と咳払いをすると、話を続けた。
「貴様の陳腐な脳味噌のメモリーを極力消費しないために、全く同じ造り、同じ制服、カリキュラムの学校を全ての拠点に作ったのだ。どこでも校舎や教科書が一緒なら、余分なメモリを使わずに済むからな。おかげでお前の成績も下がらない。便利だろう?」
「え……そ、そうなの……」
俺は目が点になった。
驚愕の事実だった。
地形データにバグが出ないように、わざわざ同じ学校をいくつも作ったなんて……。
「俺、専用なのか……」
「といっても、各地域ごとにいる大勢の教団職員の子女が通っているし、地元住民にも門戸を開いている。また緊急時には、シェルターとしての機能も持たせてある」
「へえ……すごいじゃん」
「お前は十分に教団に貢献しているのだ。この程度の福利厚生で恐縮する必要は微塵もないぞ。むしろ、お前への報酬としては足りないと私は思っている。いいか、勝利。それだけお前は教団にとって、スペシャルな子供なのだ」
心なしか、シスターの顔が誇らしげに見える。でもホントにそうなのかな?
「私が魔法陣に関して知っている事は、概ねこんな所だ。疑問があれば自分で聞け」
結局、学校に関しては、スケールはデカイものの、ありきたりな話で拍子抜けした。校舎が同じなのも、出現ポイントに教団施設があることも、全部合点がいった。かえって恐れて損をした気分になった。
シスターベロニカは、お前はものすごく教団に貢献してる、って言うけど、正直そんな実感は沸かないのだけど……。