「ねえねえ、こないだの部活の件、保護者の人に聞いてくれた?」
翌日、帰りのHRが終わると、遙香が俺の席に飛んできた。
このまま部室まで連行する気マンマンに見える。
「いや、まだ……。それより、全然人数足りてないんだから、タケノコでも入れたらどうだ? 熱心に働くぞ」
遙香は一瞬タケノコの方を見ると、
「イヤよ。備品壊されたら困るし。だいたいあいつ写真なんか興味ないでしょ。友達とバイクとゲームの話ばっかしてるし」と一蹴。
「写真に興味ないの俺だって一緒だよ」
「はいはい、部室行きましょうね~」
と言って、俺の腕を引っぱり始めた。
その手に乗るもんか。
「いやいやいや、入れるかわかんないからマジで。それよかこれから家行ってもいい?」
「えっ! あ、い、いいよ」
急な申し出に、遙香は驚いて目を丸くしている。
◇
俺と遙香は、帰りにちょっとコンビニに寄り、『夢の螺旋階段』を買い食いした。最初に彼女と食べた時とは違う味がするのは何故だろう。
「おいしいね」と言って遙香が笑いかける。
至福。
思わず目を細めてしまう。
それと同時に、近いうちに彼女と離ればなれになる運命を呪わずにはいられなかった。
――このまま、連れ去ってしまえたら。
俺と同じ、教団の子どもになってくれたら。
願っても仕方のないことを、頭の中から追い散らす。
このまま死んでしまいたい。悲しみたくない。
そんなバカな考えすら浮かぶ。また、頭の中から追い散らす。
「どうしたの? さっきっからヘンな顔して。まだケガの具合よくないの?」
心配そうに顔を覗き込んでくる遙香。
(ちげえよ、お前のせいだよ)
そう思いながら、残りのソーセージをさっさと胃の腑に納めた。
◇
俺たちが一文字家に到着すると、先日の借金取りはいなかった。あの時、銃で脅してお引き取り願ったのだが、アレで大分懲りたろうか。少なくとも、御曹司のタケノコ当人は本気にしていたようだけど。
「それで貸すのはいいけれど、地図なんかどうするの?」
家の鍵を開けながら、遙香が尋ねた。俺が借りようとしているのは、一文字氏が仕事で使用していたと思しき、リビングに貼ってあったあの地図のことだ。
ドアが開くと、東南アジアのインセンスや古書、古木の匂いが漏れ出してくる。さしずめ、アジアンテイストの古物店の香りが一番近いだろう。
「確かめたいことがある。ハルカさんのお父さんが、何を調べていたのか。もしかしたら、失踪の手がかりが掴めるかもしれない……」
「ホントに!?」
遙香の目が大きく見開かれた。ただでさえ大きな瞳が、ひときわ輝く。
「あ、あくまで可能性だ。あんまり期待しないでよ」
「そっか……。うん。わかった」
口には出してないけれど、期待して損した、と顔に書いてある。
(早合点すんなよ……)
遙香が例の地図を持ってくるまで、俺は廊下に飾られた世界中の民芸品を眺めていた。
「世の中には、ホントに器用な人がいるもんだよなあ…………」とため息。
どれもこれも素人目にも本当に素晴らしい品で、民芸品と言うのが失礼なほど精巧なもの、美しいものでいっぱいだった。もしかしたら、この中にシスターベロニカの興味を惹くものがあるかもしれない。
(そういえば、シスターベロニカは日本の古都や美術品を見に来日したんだっけ……)
かつて某国の軍人だったシスターベロニカは、退役直後に観光で日本を訪れていた。和風好きな彼女は度々来日し、仏教芸術や日本の手工芸品を熱心に見て回っていたという。その最中、彼女の経歴に以前から目をつけていた教団がスカウトしたのだった。
俺が食い入るように廊下の民芸品を見ていると、奥から遙香の声がした。
「ショウくーん、ちょっと来てー」
「なにー?」
「画鋲に手が届かないから、こっち来てー」
(そういうことか。はいはい、今いきますよ)
「わかったー」
俺は、怪しいグッズや本で足の踏み場もない廊下を慎重に進み、リビングに向かった。部屋の中では、遙香がうんうんと画鋲に手を伸ばしている。
「何やってんの。椅子でも使えばいいじゃんか」
「イヤよ。前に椅子に昇ってひっくり返ったことがあるんだから」
とむくれながら、画鋲の入っていた、樹脂製の小さい透明なケースを手渡した。
「はいはい。あ、地図べろーんとなるからそこ押さえてて」
「うん」
俺は、地図の上辺に点々と刺し込まれた画鋲を、一つ一つていねいに外し始めた。
「ここ、このあたり、教会あったよね」
遙香が急に、地図の一点を指した。
「あー知ってる知ってる。昔、大きな木があったとこだよね」
俺は外した画鋲をケースにザラザラっと入れ、パチンとフタをした。
そして、遙香にポンと手渡した。
「ショウくん、いま、あの木どうなってるのかな?」
「あの木、古くて朽ちかけてたから去年切っちゃって今は母子家庭用施設になってるよ」
俺は地図を丸めて、足元に用意された樹脂製の大きな書筒に入れた。建築の図面等を入れるもので、ご丁寧にストラップもついている。
「それってさ……この場所だよね?」
遙香が俺の目の前に、写真立てに入った、幼い俺と遙香のツーショット写真を突き出した。何をか言いたそうに、こちらをじっと見ている。――俺はカマをかけられたのだ。
「み、みたい……だな」
「あのね。この写真撮った日。その教会で毎月恒例のこども会があったの」
俺の隣に並んで、壁に背を預ける遙香。
先日のような、ひどい尋問を受けるのかと思ったら、遙香は昔語りモードに入っていった……。
「食事も終わって退屈していた私は、もらった風船を手に裏庭に遊びに行ったの。危ないから大人がいない時は入っちゃいけないって、今まで何度も言われてたのに、その日は無視して裏庭に行ったの。それを見ていたこの子が私を追いかけてきて、先生に怒られるから戻れって何度も私を注意してたの。もちろん私はその子も無視してどんどん裏庭に駆けていった」
遙香は、子どもの頃からずいぶんとおてんばだったようだ。
勝手にあちこち入り込み、人の言うことを聞かないのは、今もあんまり直っていない気がする。
「裏庭で走り回っていた私は、そのうち何かに蹴躓いて転んで持ってた風船を飛ばしてしまったの。で、あの木の枝に引っかかった。私は風船を取るために木に登ったわ。でも、登ってはいけないって、下から男の子が叫ぶの」
(そりゃそうだ。あの木は子どもの身の丈からすれば、結構な高さだったはずだ……)
「男の子は、登ってはいけないって何度も何度も叫んだけど、私は無視して登った。あんまり私が無視するから、男の子も後から登って、私を注意しに来たの。すぐ後まで男の子が来たけど、枝に引っかかった風船に手が届きそうだったから、私は幹から枝の方に這っていった」
(俺じゃなくたって、普通は止めるだろソレ。落ちたら最悪死ぬぞ)
「男の子は半分泣きながら、降りよう、降りようって言ったけど、私はうるさいって怒鳴って風船に手を伸ばした。案の定、二人分の体重に耐えかねた枝がぽっきり折れて、私たちは落っこちた」
(ほれ見たことか。……って、俺も落ちたのかよ! ひでえ)
「その時よ。男の子が私を抱えて……背中から翼を出したの」
――ちょっと待て。
――俺が、翼を出した、だと?
『翼』
その言葉がトリガーだった。
俺は、霧に覆われていた頭の中身が、急に整理されていく気がした。そして、いまだ見えないが、これまで見えなかった何かがある。その確かな感触を得た。
遙香はさらに話を続けていく。
「驚いた私はばたばた暴れて、結局その子は羽ばたくことも出来ず、そのまま背中から落ちた。男の子がクッションになって私はかすり傷だったけど、その子はまともに落っこちたせいで、片方の翼を骨折してしまった……」
――片方の翼を、骨折……だって? 骨折?
また何かが、頭の中で姿をあらわにしていく。
四散していた、とても小さくて細かいパズルのピースが、ひとつ、またひとつと、あちらこちらで島を作り、組み上がっていく。
その度に、目の奥がチリチリとする感触に襲われる。
――これ、なのか。思い出さなければならないことって。
彼女は俺のことなどお構いなしに、話し続けた。
まるで、話さなければならない、という使命感に突き動かされているようだった。
「彼は、自分の方が死ぬほど痛かったはずなのに私のことを心配をして、何度も大丈夫かって聞いてくれた。私は彼をその場に置いて、大人の人を呼びに行った。ケガをしたその子は担架で運ばれていって、お父さんは私をすぐ連れて帰ってしまった。お礼もお別れも出来なかったのに……」
遙香はそこまで一気に話すと、手元の写真に視線を落とし、愛おしそうに子供の俺を指先で撫でていた。
『カチリ――』
バラバラだった記憶のカケラが、ピタリとはまる。
――思い出した。そうだ。確かに俺はこいつを――
見えなかったモノの正体が、今わかった。
粉々に砕かれ、霧散していたものはコレだったのか。
今日の今日まですっかり忘れていたものは、『彼女の記憶』だったのだ。
――だからか……背中の古傷が痛むのは。
自分と遙香の過去を思い出してしまった俺は、必死に動揺を噛み殺した。
呼吸は乱れ、心臓は早鐘を打つ。
背中の中の翼は疼き、握りしめた拳の中で爪が手のひらに突き刺さる。
俺は、叫び出したい衝動と必死に戦っていた。
こんなに自分の気持ちと抗うのが大変だなんて、これなら異界獣と戦った方が余程楽じゃないか、と思った。
――俺は、何でこんな大事なことを忘れていたんだ!
いくらガキだったからって、あんな高さから落ちたくらいで忘れるなんて……。こんなに大好きだった友達の事を……。
「後日、お父さんと一緒に、その男の子にお礼とお詫びを言いに行ったの。だけど、教会の人はそんな子はいませんって。さんざん一緒に園庭で遊んでたのを見てたくせに」
(なんだって? 俺はあの施設にその後数年はいたんだぞ!)
そう言いたい気持ちを、俺はぐっと飲み込んだ。
「何度も会いに行ったけど、この写真も見せたけど、この男の子にはそれっきり会えなかった。どうして教会がこの子のことを隠すのか、私にもお父さんんにも分からなかった。でも私は、いつも遊んでて仲の良かったこの子に、どうしてもごめんなさいって言いたくて、お父さんに探してって頼んだの。……それからお父さんは、都市伝説ハンターになった」
彼女は肩を震わせ、啜り泣きを始めた。
それでも、彼女は話し続けた。
「私が勝手に裏庭なんかに行ったから、あの子は大怪我しちゃったし、私があの子を探してってお父さんに頼んだから、お父さんは行方不明になっちゃった……。みんな、私のせいで……ひどいことになって……」
それ以上はもう、言葉にならなかった。遙香は両の手のひらで顔を覆うと、その場にしゃがみこんでしまった。
――俺のせいで、遙香をこんなに不幸にしちまったのかよ……。
――俺には、こいつを好きでいる資格すらない。
遙香の告白で、俺は忘れてしまった過去の一部を取り戻した。
しかし、それは同時に残酷な事実を伴っていた。
俺はうずくまる遙香の傍らに座り、泣きじゃくる彼女の肩を抱いて語りかけた。
「ハルカはなんにも悪くない。男の子はお前を助けたかっただけだし、お父さんだってお前の願いを叶えたかっただけだ。その結果が望むものじゃなかったとしても、二人とも後悔なんかしてないし、お前を恨んだりなんてしていないよ。きっと……」
彼が遙香を恨んでいないのも、後悔していないのも、本当だ。
そもそも記憶すらしていなかったし、知ったところでそんな感情になりっこない。
一文字氏の方は不明だけど、娘のために、あれから十年近くも俺を探し続けていたのなら、きっと後悔はしていないだろう。
「そう……かなあ……」
ぐすぐすと、鼻を鳴らしながら遙香がつぶやいた。
「そうだよ、きっと」
そう言って俺は、ハンカチで遙香の顔を拭ってやった。
「ホントにそう?」
「そうだよ。だからもう泣くな」
遙香は手の甲でごしごしと目をこすると、ポケットから試験管のような細長い瓶を取り出して、目の前で軽く振って見せた。
「これね、その子の落とした羽根」
中には小さな羽根が一枚入っている。白くて、少しパールがかった羽根だ。
(まさか……)
俺は思わず息を飲んだ。その羽は…………
「ねえ。どうしていなくなっちゃったの? ずっと探してたんだよ?」
遙香が悲壮な表情で訴える。
「…………」
俺は、否定も肯定も出来なかった。
自分はいなくなったつもりもなかったし、一文字親子が自分を探してることも知らなかったし、そもそも、遙香のことなんか綺麗さっぱり忘れていたんだから。
肯定したい。
そりゃあ自分だって、名乗ってやりたい。
だけど、教団が一文字親子と自分を引き離したのが事実だとすれば、これ以上自分と関わると、彼女が危険かもしれない……。
「黙ってないで、何とか言ってよ」
「……それは……俺じゃないよ。多分、誰かと勘違いしているんだ」
「……え? だって――」
「俺はお前が木から落ちたことなんか知らないし、誰かを探してたことなんか知らない」
「でも……」
さみしがりな子犬のような目で、遙香が自分を見る。
とても直視できない。
俺は顔を背けた。
俺は全力で素っ気ない振りをした。
本当に全力で。
それでも口元が震えてしまう。
これ以上遙香の目を見たら、自分も号泣してしまいそうだった。
「そいつを探してどうなる。お前とは、生きる世界が違うんだろ。だから、今まで、十年もずっと会わせてもらえなかったんだろ」
がんばっても、がんばっても、声の震えをどうしても止めることが出来ない。
俺の両肩を掴んで、遙香が叫んだ。
「それは……それはそうかもしれないけど! でも!」
「だったら、もうあきらめろ。なにもかも全部忘れて、お前は自分の人生を歩め」
俺は目をつむって、遙香に絶縁を言い渡した。
それが俺の精一杯の抵抗だった。
「何言ってんのかわかんない! ショウくん、君なんでしょ? ねえ!」
遙香は俺の胸板を両の拳で何度も叩いた。
俺の肺に衝撃が伝わる度に、食いしばった歯は力を失い、小刻みに息が漏れた。
つむった目蓋は情けない格好に歪み、その奥に溜め込んだ涙が零れて、ブレザーの胸元を転がり落ちていった。
彼女の拳が打ち付ける度に、俺の付け焼き刃な決意が、あっけなくボロボロと崩れ落ちていく。そんなに自分は弱い生き物だったのかと、情けなく思うとともに、このまま流されてしまいたいとも思った。
「
言葉では否定しながらも、目では肯定する俺。
「ムダな抵抗しないでよ……。分かってるんでしょ?」
「しらない」
「ショウくんの嘘つき。何度も遊んだのに」
「しらないしらない」
「泣きながら言ったって、説得力ないよショウくん」
俺は口をへの字に結んで、イヤイヤをする。
「ったく……」
遙香はすっと立ち上がると、リビングのダッシュボードの上から何かを取って、戻ってきた。
「これ。あの夜のあの場所に落ちてたの。これでもシラを切るつもりなの?」
「げっ! いや……あの……」
目の前に突きつけられた物証。
パールホワイトにキラキラと淡く発光している、薄くて細長いその物体は……。
「これ、ショウくんの羽根、だよね? いい加減白状しなさいよ!」
「タジマくんは何も知りません知りません、知らないから許してください」
言い逃れを続ける俺をガン無視し、遙香は俺の太股の上に馬乗りになった。
(あー……これは、昇降口の悪夢・リターンズじゃないか……)
昔の羽根と今の羽根の両方を突きつけられた俺は完全に逃げ場を失った。
「なんで認めないの? 怒るよ?」
「もう怒ってるじゃんか」
「あたりまえでしょ! 十年怒ってるよ!」
俺は言い返す台詞が見つからず、口をつぐんでしまった。
そうだ。
彼女は十年間もの間、俺の消息を探していたのだ。父親の助けを借りて。昇降口でネクタイを掴んで怒声を上げたのも、キスしたからじゃない。黙って雲隠れしてしまったことを怒っていたのだ。
「ご、ごめん……」
プリプリ怒った遙香が、フンと鼻を一度鳴らすと、少し大人しくなった。
「じー…………」
と、口で言いながら、俺の怯えた目を見据える。しばらく見て気が済んだのか、俺の太股の上から降りて、再び俺の横に並んで座った。
「私、思い出したんだよ」
「なにを?」
「ショウくんがこの街に来て、初めて会った晩のこと」
なにやら嫌な予感がする。……そのまま忘れてくれてよかったのに。
「あの夜、私は瀕死の重傷を負った……そして、ショウくんが何か生暖かいものを私に口移しで飲ませて、私を抱いて、そして……大きな翼で包み込んでくれた」
――どうして。大量の出血で、意識は失っていたはずだ。
俺は激しく動揺した。
翼を出したのは彼女の回復を早めるためだったのだが……。
「夢でも見たんだろ。そもそも俺にはそんなもの生えてない」
「まだしらばっくれてる。逆になんでよ? 羽もある、写真もある、なのにどうして?」
「まだ分からないのか? さっきも言っただろう。どうして教会がお前等親子と男の子を会わせなかったのか、よく考えてみろっての」
「わかんないよ! ちゃんと言ってよショウくん!!」
「言わせんなよ!! こっちにも事情があるって分かれよ!!」
同時に怒鳴って、お互いの顔を見合わせた。数瞬、間を置いて、
「「……ごめん」」
そして、どちらともなく相手の体に手を回し、ぎゅっと抱き締め合った。
「ハルカ……」
俺は、彼女を強く抱き締めた。身動きが取れないくらい、ぎゅっと、強く強く。
ついさっきまで、遙香と縁を切ろうとしていたことも忘れて。
「今からホントのこと言う。――ハルカのことが、大好きだ」
――ひどいよ……。胸元から、か細い声がした。
本当だな。自分は、本当にひどい。
「答えになってないよ……。ショウくん」
「だから、ごめん」
俺は遙香の顎をぐっと持ち上げると、あの夜のように唇をふさいだ。
「んっ……んぅ……」
遙香がくぐもった声で呻く。
でも、いやがってるわけじゃない。彼女も自分と同じく、唇を激しく求めてるから。
しばらく抱き合った後、俺は寸止め状態で遙香の体を引き剥がした。
俺はまんじりとも出来ず、床に座り込んだまま遙香の手を握っていた。
遙香も彼の手をにぎにぎしたり、指先でなでたり。
物足りなさを無言で訴える。
だが、せっかくのクールダウンも水の泡。
愛しさが抑えきれず、俺は再び彼女を抱きしめる。
床の上で、二人の切ない吐息だけが聞こえる。
これ以上は――
夜には狩りに出かけなければならないのだから、ガールフレンドと悠長にイチャついてる場合じゃない。
一線を越えそうになる度に、歯を食いしばって耐える。
その繰り返しに俺はおかしくなりそうだった。
己の野生を押さえつけ、床に転がり天井を眺めていると、遙香が胸に身を預けてくる。まだ暴れる鼓動を聞かれるのが、少し恥ずかしかった。
日も落ちて、外は少し暗くなってきたが、部屋の灯りは点けないままだ。
そしてまもなく、道路に面した窓から、街灯の明かりが白い帯となって差し込んでくる。異界獣避けのために、一般の街灯より何倍も強い光を放っているからだ。
その光の届かない暗い床の上で、ほんのりと輝くものがある。
先日、俺が落とした羽だ。
子どもの頃のものはもう輝きを失っていたが、抜け落ちたばかりの方は、薄闇の中でその高貴な存在を誇示している。
形は鳥の羽根に見えるのに、それは明らかに、通常の生物が持つ輝きではなかった。
「キレイね……」
「うん」
「小さい方は、もう数年前に光らなくなってしまったの」
「そう……」
そんなこと、自分でも知らなかった。
己の羽を保管する趣味もなかったから、蛍光塗料のように何年も輝くものだとは思わなかったのだ。
言われてみれば、確かに美しい。
普段は体の中に格納しているが、自分はこんなものを背中に持っていたのか、と再認識した。
「……まだ白状してくれないの?」
度々の抱擁ですっかりとろけた遙香が、甘えた声で問いかける。昨日までなら、その手は食わない、と思っていたが……。
「白状する前に、話しておくことがある」
「なあに、改まって」
言いたくないけど、言わなければ。
俺は覚悟を決めた。
万一、教団が彼女に危害を加えるようなことがあれば、全力で阻止しよう。
屍の山を作るのは慣れている。
もう迷うのはヤメだ。
「俺、この仕事が終わったら、この街を出るんだ。数週間なのか、数ヶ月なのかわからない。だけど、そんなに長い時間じゃない。だから……聞かないで欲しかった。告白させないで欲しかった。別れるのがつらくなるから」
「ショウ……くん……行っちゃうの? せっかく十年ぶりに会えたのに……」
遙香は俺の手をぎゅっと握った。この手を離したくない、という気持ちが伝わってくる。
「ごめん……だから、写真部には入れない」
「そういうことだったんだ……。知らなかった。ごめんなさい……」
「別にいいさ。ただ、力になれなくて申し訳ないと思ってる。それはホントだよ」
「いいのよ。気にしないで」
俺は大きく深呼吸した。
「俺、あのコンビニの前で一目惚れしたんだ」
「……私に?」
こくりと頷く。
「俺、今まで女に興味なんてなかったから、何故だか分からなかった。でも、今なら分かる。俺、ハルカのこと、どこかで覚えてたんだ。大好きだったって。だから――」
遙香が首に抱きつき、耳元で囁く。
「よかった。私のこと全部忘れたわけじゃなかったんだ」
「それが、答えじゃダメかな……」
「それで十分よ。お帰りなさい、ショウくん」
「――ただいま、ハルちゃん」
ふと昔呼び合った名が、自然と口から零れた。
通りの方から、パトカーのサイレンが聞こえてくる。少し離れた県道の方からだ。今夜も誰かが異界獣に食われているのだろう。とろけた心が一瞬ざわつく。
本気で帰らないとマズい。
今の自分で仕事になるか分からないが、行くしかない。
「じゃ、今日はこれで帰るよ。聞こえるだろ? 俺、行かなくちゃ」
俺が立ち上がろうとすると、遙香が握った手をぎゅっと引っぱる。
行くな、と。
「俺、みんなを護るためにお前の街に来たんだ。分かってくれよ。遊びじゃないんだ」
「あんなに気持ち良さそうに飛び跳ね回っていたくせに」
「それはそれ、これはこれ。仕事の中にも楽しみを見いだすタイプなの、俺は」
一体どこを見ているのか。油断もスキもない女の子だ。
もしかしたら、本当にカメラマンの才能があるのかもしれないな。
「……で、ハルカ、そろそろこの手を離してくれないかな?」
「ダメ」
「どうして。明日学校で会えるだろ?」
「会えないかもしれないじゃない……。こないだも大けがしてたし」
全身包帯グルグル巻きのミイラ状態を、彼女に見られたことを思い出した。
不安なのだろう。
「俺は平気だから――」
「兵器だから?」
ただの聞き間違いなのに、うッ、となってしまった。
そうだ。遙香の言うように、教団にとって自分はあくまで兵器なのだ。
たった一人で幾百幾千の獣を屠り、ほぼ不死身の体を持っている。
普段意識はしないものの、他の誰かに言われると、暗い気分になってしまう。
「ちがう、そうじゃない。俺はカンタンには死なないっつってんの」
「でも……」
「仕事なんだ」
遙香が両手でぎゅっと腕を握った。
どうしても帰さないつもりか。
「お願い、行かないで! もう会えなくなるのはイヤなの!」
遙香が泣きだしてしまった。
「ハルちゃん……」
どうしよう……。