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傷だらけの天使

「おはようございます、多島君いますか?」

 鎮痛剤を飲んで、やっと自室で眠りについたばかりの俺は、往来で自分の名を呼ばれて目を覚ました。億劫そうに身を起こし、指先でカーテンを少し開けると、門の前に遙香の姿が見えた。

「……うぅ。タジマくんはいません」

 ばたり、と寝床に倒れ込む。相手が想い人だったとしても、眠いものは眠い。寝入りばなで起こされれば、誰だってイヤだ。

 無視を決め込んでいると、シスターの誰かが応対し始めたようだ。

(すまん、ハルカ。寝かせてくれ……)

 布団を被って二度寝を決め込んだ。

 廊下をバタバタと歩く音がする。朝っぱらから随分と慌ただしい。

 ううん、と寝返りを打って、うっかり傷に体重を掛けてしまい涙目になる。

 痛みをこらえ、今度こそ本気で寝ようと思った、が。

 ――バンバンッ、とドアを乱暴に叩く音で飛び起きた。

「ショウくん、朝だよー。起きてー」

 声の主は、遙香だった。

(ゲッ、誰だよ、中に入れたの!)

「いません……タジマくんはいません……」

 掛け布団の中で念仏のように唱える。

 さらにドアを連打する遙香。

「いませんいませんいません、タジマくんはいません、眠りの世界に旅だったのです」

 布団の中でさらに小さく丸まっていく俺。

 ただただ、災害が通り過ぎるのを、息を殺して待っている。

「ウラぁっ!!」

 かけ声とともに、ドカンと扉が蹴り開けられた。

 遙香は勢いよく室内に侵入して来た。

「おきろってば!!」

 バサッと、俺の掛け布団を剥がす遙香。

 だが、次の瞬間、彼女は絶句した。

「やあ」

 気だるげに無理やり笑顔を作り、片手を上げて遙香に挨拶をする。

 だが、遙香は布団をめくった時の姿のままで固まっていた。

 俺は下着一枚でベッドに転がっていたのだ。

「……どうした? 自分で男の布団をはぎ取ったんだから、覚悟くらいしてんだろ?」

 声を掛けられて、ようよう遙香は一言だけ言葉を発した。

「…………なによ、それ……」

 パンツ一枚の俺。

 だが、問題はそこではなかった。

「どうしたの……そのケガ……」

 遙香は真っ青な顔で、ベッドの上の彼氏 (仮)に訊ねた。

 見れば俺はパンツ一丁だったが、体中に包帯を巻かれ、肌が露出しているのは、手足の先と首から上だけだったのだ。ところどころ、青黒く血が滲んで痛々しい。

「仕事。朝までやってた。だから寝かせて」

 それだけ言うと、俺は遙香から掛け布団を奪い返し、頭から被った。

 傷だらけで仕事を終えた俺は、現場から真っ直ぐ教団直営の病院へ運ばれ、手当を受けた。本来なら数ヶ月は入院が必要な程の重傷だったが、応急処置だけで教会に戻ってきたのだ。

 大きな負傷個所は医療用テープでむりやり皮膚を寄せてくっつけて、止血してある。雑な処置のように思えるが、俺の治癒力をもってすれば、半日程度で表面の傷はおおむね塞がってしまうからだ。それでも内部の傷の修復には時間がかかるから、栄養補給と安静は必要だ。

「ショウくん……あの……。今日、学校は?」

 布団の上から、遙香の心配そうな声が降ってくる。さっきまでの威勢の良さはすっかり消え失せてしまっていた。

「今晩も仕事だから、今日は休む。教会から学校に電話入れるから心配しなくていい」

「しご……」遥香が絶句した。

「帰れ」

 数舜逡巡して、遙香が布団の上から俺の体を優しくさすりはじめた。

 傷は痛まないが、胸が痛い。

 邪険にしていることが、ただ心苦しい。

 しかし、今は一人にして欲しかった。

「………………あの……ショウくん……」

 俺は大きく息を吐くと、心を鬼にして遥香に言った。

「お前が何かを言いたげなのは分かる。でも今の俺には、お前に構っている精神的肉体的余裕は全くないんだ。俺はこの街に仕事で来てる。分かっているだろ」

「うん。……でも……」

「出てってくれ。じゃないと人を呼ぶぞ」

「ごめん……。放課後また来るね」

「ん。おやすみ」

 遙香はとぼとぼと部屋を出て行った。

 あのまま粘られでもしたら、キレて怒鳴ってしまいそうだった。

 今の自分は『普通じゃない』のだから。

 罪悪感にかられ、カーテンの隙間から外を見ると、肩を落とした遙香が出てきた。だが、どのみち今の自分には何も出来ない。

 罪滅ぼしをするにしろ、傷を治すのが先決だ。そう思って、俺は眠りについた。


     ◇


「勝利さん、お客さんですよ」

 その日の午後、体中の痛みに耐えつつ、ぐったりしながら食堂でシスターたちのお茶会に混ざっていると、外で掃除をしていたシスターが来客を報せにやってきた。

「はあ、どうも。それで――」

 誰が来たのかと尋ねるよりも前に、騒々しい客人たちがスリッパをペタペタ鳴らしながら食堂に入ってきた。

「なんだショウくん、もう起きてる」

「チース」

「ハルカがいるのはいいとして、何でタケノコまでついて来てんだよ」

「お見舞いっス。これ、今日の宿題のプリント」

 そう言って、タケノコはスクールバックから、少々シワのついたプリントを取り出して差し出した。

「おー、あんがとよ」

「起きられるくらいにはなったのね」

「朝……すまんかったな」

「こっちこそごめん」

「気にすんな。二人とも座れよ」

 珍客の来訪で、お茶会はかなり奇怪な雰囲気になったが、昨晩限界まで追い詰められていた俺の精神状態は、遙香と竹野のおかげで幾分か回復した。元々このお茶会自体が、俺を労う意味合いの強いものだったのだ。賑やかに越したことはない。

「オレ教会に入るの久しぶり。子ども会以来っすよ」

「私も」

「……にしても、まさかヤクザが教会を隠れ蓑にしてるなんて、スゴイっすね」

「「「「「え?」」」」」

 俺と遙香と竹野以外の全員が、一斉に竹野を凝視した。

(あわわわ、忘れてた……。そういう設定だったんだよな)

「あ、あくまでここは間借りしてるだけだ。事務所の用意が出来たら出て行くんだ」

 俺は誤魔化しつつ、シスターたちにアイコンタクトを送った。しかし顔は引きつり、どう見ても挙動不審な男子高校生にしか見えない。

「へえ、そうなんスか」

「う、うちの組長が昔世話になった時からの縁……らしい」

「縁! 任侠には大事っすよね!」

(あああ……タケノコがバカで良かった!!)

 俺は心の中で、ほっと胸をなで下ろした。


     ◇


「じゃあね。お大事に」

「お大事にっス」

「おう。早く帰れよ。今日はありがとな」

 お茶会もお開きとなり、教会の門まで出て遙香と竹野を見送った俺は、ジャージのズボンに両手を突っ込み、くるりと背を向けて教会へと入っていった。

 遙香に「夕食用」にと、お茶会で残ったサンドイッチを持たせ、竹野には、さっと済ませた宿題のプリントを持たせた。万一翌日も登校出来なかった場合の用心だ。

「友達、か。こんな感覚久しぶりだな」

 ちら、と廊下のガラス越しに夕暮れの街へと視線を投げて、俺は独りごちた。

 自分には、友達なんていたんだろうか?

 思い出そうとしても、誰も覚えていない。

 でも、遙香は…………。


 通常のハンターは数人でチームを作り、小規模かつ計画的に駆除作業を行う。

 ロスも多く、被害も増えるが、現状で効果的な方法はない。

 俺の狩り方は、あくまで特殊で、人間どころか若干数教団に所属している人外ですらマネ出来るようなものではなかった。

 広範囲の地形、その立体的な構造を精密に記憶するのが俺の特技だ。

 赴任した都市の地形を丸ごと記憶し、縦横無尽に街を飛び回り、正確無比に異界獣を大量抹殺する。それが人ならぬ俺の、狩りのスタイルだ。

 地形情報を記憶するには、頭部にインプラントされたデバイスが必要だ。赴任先の3D情報を入力したチップを頭部デバイスにはめ込んで使用する。

 だがそれは諸刃の剣で、地形情報を入力すればするほど、過去の記憶を無差別に消してしまう。

 ――俺はまだ、その事実を知らなかった。教団の非人道的な行為を。



     ◇◇◇



「お前が情緒不安定なのは、地形情報の入力による弊害だ。今までうまくバランスを取ってきたが、何らかのきっかけで表出したのだろう。あまり気にしすぎるな」

「つまり、気のせいと……」

 俺はシスターベロニカの回答に釈然としないものを覚えた。

 昼食時にシスターベロニカから聞いた話によれば、俺は頭部インプラントのせいで、もともと情緒不安定になりやすい。教団ぐるみで俺のメンタルを維持してきたのが、今回のようなイレギュラーの発生により危ういバランスが崩れ、急に学校で不安にかられたり、晩に勘が狂ったりしたのだろうと。

 俺は、改めて自分を追い詰めたものの正体を考えた。

 原因として大きいのは、恐らく遙香を傷つけた件だ。その場で蘇生したとはいえ、恋する女性を死なせた上、彼女に本当の事を未だ言えないでいる。しかし、バランスの崩れた原因はそれだけではない。何故教団の経営する学校の構造がどこも同じなのか、何故自分は遙香のことを一切合切忘れているのか。遙香の父親の失踪に教団は関与しているのか。自分はこれらの件に対して、強い不安や恐怖を感じている。

(ハルカの父さんは、教団に始末されたりしてないだろうな……)

 俺はさらに問い正そうと思ったが、今現在行方不明となっている遙香の父の件を考えると、うかつに聞き出すのは危険だ。いくら信用しているシスターベロニカとはいえ、彼女は教団側に雇われた人間なのだ。何をどう本部に報告されるか分からない。

(今にして思えば、教団内に信用出来る人間が、一人もいないじゃないか……)

 これまで考えようともしなかった事が、次々と脳裏に浮かぶ。

 ――自分は、孤立無援なのか? 自分は教団にとって一体何なのだ?


     ◇


 夕食後、シスターベロニカが俺の部屋にやってきた。彼女がいつになく心配そうな様子だ……。

「今晩は無理せず休んでいてもいいんだぞ」

 俺はそれに応えず、自室のベッドの上で黙々と全身の包帯を外していた。サージカルテープで貼り付けた幾枚ものガーゼをピリピリと剥がす度、少し痛む。多少カサブタが剥がれたものの、あらかたの傷は既に塞がっていた。

「ほっとけば、また今夜も誰かが死ぬんだ。俺が全ての獣を狩り尽くすまで、死人は出続ける。行かないわけにゃいかないだろ」

「今夜は私が――」

「母さん」

「私が行くと言っている」

「母さん!」

「くっ……」

「ねえ、その足で、どうする気なの。また、残った手足を食われたいの?」

 シスターベロニカは俺に二の句を告げられず、ただ歯噛みするしかなかった。

 俺の言うとおりなのだ。

 今の彼女では、たとえ武器が充実していたとしても、囲まれたらお終いだ。

 現在装着している義手と義足は、最低限身を守るためにパワー重視のセッティングとなっている。五体満足な頃のように機敏な動きは出来ない。

「……分かっている。だが、今お前が無理をすると……」

 シスターベロニカは、珍しく口ごもった。

 普段は明瞭簡潔な物言いをする女なのだが。

「大丈夫。もう、あんなみっともないマネなしない。ケガも全部治っている。大丈夫。いつも通りに狩りをすればいい。でしょ」

「しょうがないヤツだな。今日は軽めの区画にするんだぞ」

「分かってる。それと……」

「なんだ?」

 俺はニヤリと笑って言った。

「小遣い増やして」

「ああ、検討しておく」シスターベロニカは呆れ顔で応えた。


     ◇


 その夜、近場の現場に出動し、ものの三十分もしないうちに俺は教会に戻ってきた。

「た、ただいま……」

 非常にバツの悪い顔で控え室のドアを開ける俺。

 室内で装備品の手入れをしていたシスターベロニカが、やっぱり、という顔で俺を見上げた。

「だから言ったじゃないか、息子よ」

「………………チッ」

 ジロリ、と恨めしげな目を保護者に投げると、俺は舌打ちした。

 剛胆な保護者は気にも留めず、

「いいから早く脱いで風呂に入れ」と言った。

 出戻りハンターの俺は、その場で装備品を外し、バラバラと床の上に落としていく。足下は、全身から滴る水でびちゃびちゃになってしまった。

「で、一体どうしたんだ?」

「………………電柱の上から足踏み外して、川に落ちた」

「いい加減自分の調子くらい……いや、とにかく早く風呂に入れ。風邪をひく」

「今――」

 俺はシスターベロニカをにらんだ。

「ん?」

「何を言おうとしたんだ? こないだも、何かを言いかけてやめた。ハッキリ言ってくれよ、頼むから、母さん」

 咎める俺の声音に、わずかに悲壮な色が混ざっていたのにシスターベロニカは気付いていた。だが、この時の俺に全てを語ることは出来なかったようだ。

「別に何もない。疲れているのに、ついお前に厳しい事を言いそうになって、やめただけだ。気にすることはない。体を温めて、今日は休め。いいな?」

「ふ――……、もういいよ」

 俺は風呂場に向かった。


     ◇


「どこに行く気だ、勝利」

 背後からシスターベロニカのドスの効いた声が、玄関ホールに響いた。

 風呂に入り、仕切り直して仕事に出かけようとした矢先のことだ。

 俺は振り返らず、靴紐を結びながら応えた。

「仕事。今日のぶん終わってない」

「その格好でか」

 プレーンな黒い野戦服に運動靴。

 腰のベルトに銃とマガジンを二本、それとダガーを二丁差し込んである。

 背負った市販のディバックには、さらに予備のマガジンと、ライトなどが入っていた。サバゲのプレイヤーだって、もうちょっとマシな装備を身に付けているご時世だ。異界獣ハンター的には、丸腰に近い。

 俺はシスターベロニカに咎められるのは分かっていたから、控え室を避けて自室でこっそり準備したのだ。だが当然ながら予備の服や普段持ち歩いている銃の弾倉くらいしか自室に置いておらず、この様な無様な状態になっている。

「今夜の獲物なら、これで十分やれる」

「だけ、ならな」

 当然だが、異界獣は好き勝手にこの街の中を闊歩している。こちらが地図に引いた線で分割した場所には、複数の種類の異界獣がいる可能性が高いのだ。この晩の狩り場に指定された場所は、あくまで小物が多いというだけで、大物が絶対にいないという保証はどこにもない。万一、先日のカエルやアギトのような大物が現れた際、今のような装備では、俺を護る装備はごく僅か、ということになる。

「ヤバくなったら戻る」

「では今戻れ」

 と言うなり、いきなり俺の襟首を掴んで持ち上げた。身の丈二メートルの大女に吊り下げられた俺は、まるで親猫に咥えられた子猫のようだ。

「離せよ、出かけるんだから」ジタバタと足掻く俺。

「女の所に行くなら離してやる」

「えッ!!」

 動きがピタリと止まった。

「だが違うんだろ」

「ちーがーうー。はーなーせー」

 俺は再度ジタバタしはじめた。本気で暴れれば逃げられるのは分かっているが、玄関を破壊したり、シスターベロニカにケガをさせる可能性が高い。そう思うと、そのまま無様にジタバタする他なかった。

「じゃ、ダメだ。枕元で絵本を読んでやるから寝ろ」

「うがーッ、はなせってば」

「ダメだ」

「はーなーせぇぇー」

 俺はぶら下げられたまま、自室に強制Uターンすることになった。

「チェッ……」

 自室で謹慎を命じられた俺は、ベッドの上で不貞腐れた。

「ったく。マジでハルカんちに行ってやろうかな」

 ……などとブツブツ言いながら、俺は銃をもてあそんでいた。シスターベロニカの前でやると『ツキが落ちる』と怒られるのだが。

「だいたい、銃で遊んでないのにツキが落ちた。どういうことだよ。銃関係ねーじゃん」

 俺は床に銃を放り出すと、ベッドの上をゴロゴロと何度も左右に転がった。


 自室での謹慎を言い渡された俺だったが、一時間もしないうちに、とうとうイライラが止まらなくなり、部屋を飛び出して食堂にやってきた。食堂では、数人のシスターがテレビを見ながら絹さやの筋を取っているところだった。配膳カウンターの上に並んだ食材類から推測するに、翌日の食事は炊き込みご飯だろう。

「あら勝利さん、謹慎はいいんですか?」

 ふふ、と柔らかい笑いを投げながら、シスターの一人が言った。

「謹慎っつーか、軟禁? みたいな」と、バツが悪そうに応える。

 俺は自分でコーヒーを入れ、女共に構われないように部屋の端のテーブルに陣取ると、イヤホンを耳に着け、音楽プレイヤーのスイッチを入れた。

 飲む前から、コーヒーの香りが気分をやわらげてくれる。

 イラつく時には一番いい。

 音楽で外界の雑音を遮断し、ゆっくりとコーヒーを啜ると、だんだん気分が落ち着いてきた。

 そこで俺は一人反省会を開始し、この所の不調について考えた。

 やはり、原因は心理的な問題なのは間違いない。

 基本的に、機械を使って覚えた地形情報は、余分な情報やノイズが含まれると、命にかかわる事態を招いたりする。最近続いている俺のドジも、現象だけで見れば情報のバグによって引き起こされているように見える。ありもしない場所に飛び移ってしまったり、ないと思った場所に壁があったり、といったように。たとえばビルの幅を見誤って屋上から落っこちたり、送電線にぶつかったり、電柱から飛び移る先の位置を間違えて川に落ちたり等々、たった二日で数十回も発生した。しかし町に来て初めのうちは、地形情報にバグどころか寸分の狂いもなく、いつも通り順調に仕事が出来た。だから、入力時に問題はなかった。

 俺がおかしくなり始めたのは、遙香に遭ってしまってから後だ。

 彼女を傷つけたこと、それを黙っていること。だが、それらをとても心苦しく思ってはいるものの、それ自体にデータを歪ませるほどの大きな影響があるとは思えない。

 遙香の彼氏を演じていること。これに関しては、正直どう考えていいのか自分でも分からない。地形情報への影響に関しては、多少はあるかもしれない。

 遙香の父、一文字氏の消息について、教団が関与している可能性が高い件、それと過去に現場で遭遇していたかもしれない件。確かに不安要素のうちではあるが、やはり地形データを歪めるほど大きくもない。

 関連して、娘の遙香の生活が困窮していることに関しては、そこそこ大きな不安要素ではあるものの、金銭でカタがつくぶんそれほど心配はしていない。

 学校そのものが奇妙な件。これも、気付いた時には恐怖したが、そもそも経営している教団そのものが異常なのだから、そこまで気にする程でもないだろう。その後のゴタゴタでしばらく忘れていたくらいだ。

 ……では、何が原因なのか。

 まだ、気付いていないことがあるかもしれない。それは一体、何なのだろう。


     ◇


 頭を使いすぎて少々脳味噌が疲れた俺は、コーヒーのお代わりをれた。

 カップには、砂糖を五つ。日頃肉体労働をしているのだから、ダイエットなんか気にしたことはない。だがシスター共は、常にダイエットを気にして砂糖を入れないくせに、お菓子はバリバリ喰らうのだから矛盾している。

 一旦頭をリセットし、糖分を補給したので、再度地形情報がバグった原因について考えてみる。本当は考え事なんて柄ではないのだが、ここまで仕事に支障が出ているのでは、考えずにはいられない。

 ……あとは……。

「あッ!!」

 俺は思わず声を上げた。

 室内のシスターたちが一斉に俺を見た。

「どうしたの? ショウくん」シスターの一人が声を掛ける。

「あ、いや……何でもないです。ちょっと、思い出したことがあっただけで……」

 そう、と言うと、彼女はシスターたちとのおしゃべりを再開した。

(そうか……あれを忘れていた!)


『俺は、ガキの頃、ハルカとさんざん過ごしていた』


 これだ。この事実。

 悩んでいたわけではなく、常に考えていたわけでもない。

 だが、心のどこかに刺さっていた。

 過去が分からない。覚えていても、あやふやなことが多い。

 学校にしたってそうだ。

 二つ前の学校のこと、クラスメートの顔も既に忘れかけている。

 もしかして、過去を明らかにしようとするのは、マズいことなのだろうか?

 これまで全く気にも留めていなかったこと。それを白日の下にさらすのは、危険なのか? だから、記憶がバグってしまったのか?

 自分は、教団に何をされてきたのか・・・・・・・・・・・・

 その考えに至った時、俺は部活棟で感じたのと同じ恐怖に襲われた。

 そして、自分自身ではどうにも出来ない、という事を悟った。

 記憶の欠落を放置し続ければ、自分は仕事でドジを踏み続け、いずれ本当に死ぬかもしれない。それはきっと間違いはない。

 シスターベロニカも、俺の不調に薄々感づいているようにも思える。だが、幾度も言葉を濁しているところを見ると、教団にとって本当にマズい事態になっているのだろう。

 今まで俺は、

「別に親も兄弟もいないし将来の夢も何もない。教団に拾われなければとっくに死んでいた。だから、いつ死んでもいい」

 と、己の命をあまり重いものと感じることが出来なかった。心のどこかに虚無が居座っているせいだろう。当然ながら過去に一切のこだわりもなかった。実際はどうであれ、さほど教団の扱いが酷いとも思っていなかったし、親代わりのシスターベロニカも彼女なりに愛情を注いでくれてきたのも分かっている。そのことに大した不満はない。


 だけど。


 心に空いた虚無の原因は、自分が何者なのかが分からないことだと自覚している。存在を実感出来ないから、心にぽっかり穴が空いてしまった。断じて愛が足りていないわけじゃない。

 ただ、人ではない何か。その何かとは何か。誰もわからないから、誰も教えてはくれなかった。

 己自身がブラックボックスなのだ。今回の件は、このブラックボックスにも関わることなのかもしれない。

 ――やはり、全てを確かめなければ。

 俺は決心した。


 食堂から自室に戻った俺は、カーテンを開け放した窓の外をぼんやり眺めていた。深夜だというのに、この街の通りは皞皞と照らされている。無論、異界獣を寄せ付けないためだ。

 連中は、日の差すこの明るい世界に入り込んできたクセに、暗がりを好む。矛盾しているとは思うが、あっちの世界には食い物が足りないのだろう。

 今夜もけたたましいサイレンが、街のあちこちから聞こえてくる。


 ――自分が行かないからだ。

 ちくりと罪悪感が胸を刺す。


 だが、元々、一人で始末するような分量ではない。この街ひとつでも大小取り混ぜて数千もの異界獣がわき出しているのだ。犠牲を完全に防ぐには、街から全ての住民を疎開させる以外にない。

 だが、余程の事でもなければ、騒ぎを大きくするようなマネは出来ない。国家は市民の命よりも、事態の隠蔽の方が重要なのだという。ひどい話だ。

「……ったく、教団は人手不足なんだよ。元自に外人部隊なんか出稼ぎに行かれちまうくらいなら、さっさとリクルートすりゃあいいのに。俺が楽できねえし、彼女も作れない」

 自分で言って、俺は少し驚いた。

 これまで恋愛をしたいと思ったことなど、一度もなかったのだ。

 原因は教団内の女性たちだ。

 将来を嘱望された、教団の秘蔵っ子である俺をゲットしたい、と思う教団内の女性はとても多い。もちろん俺以外にも、魅力的な教団職員やハンターは数多く在籍している。しかし、トップクラスの異界獣ハンターであり、教団の広告塔として扱われている俺とは、その将来性は比較出来ない。

 つまり、そういう現金リアルな考え方の女性がとても多いのだ。だから、教団本部は元より、仕事で行く先々の教会で熱烈な歓迎を受ける。そのもてなしが下心ゆえと分かっていれば、若い俺が女性に興ざめするのも当然だろう。

 自分自身を見もせずに、肩書きや権威にすり寄る女を誰が愛せるのか?

 俺の答えはノーだ。

 こんな環境では、恋愛に夢や希望を持つだけ苦痛でしかない。

 その自分が、彼女が欲しい、だと?

 いや、違う。

 遥香が欲しい、が正解だ。

 そんなのわかりきっている。

 縁を切ろうと思って一日も保たなかったんだから。

 タケノコにひどい嫉妬までして。その件に関しては、自分でもうんざりしている。

 あんなひどい出会い方をしたのに、あんな酷いことをしてしまったのに、あんな脅迫をされたのに、DQNや金貸しを追い払うための芝居だったのに、……芝居だったのに。

 今俺は遥香に本気になっている。


 幼馴染みだから?

 彼女にとってはそうだろう。でも自分には記憶はない。

 だけど一目惚れをした。

 幼馴染みだから? もしかしたら、そうなのだろう。


 タケノコを遠ざけたんだから、本当なら自分は用済みだ。

 強いていえば、金づるになりそうだと思われているだろう。

 彼女にだって生活がある。


 考えれば考えるほど分からなくなってくる。

 そりゃそうだ。

 自分のことならいざ知らず、相手の気持ちなんか分かるわけがない。


 知りたいか?

 知りたい。でも、自分は遠くないうちに街を出る。

 遥香に気持ちを伝えるなんて出来ない。


 彼女は都市伝説に理解のある、普通の人と幸せに暮らす方がいい。









 …………そんなの、ヤダ。

 タケノコよりはマシだけど。


 それも偽らざる気持ちだ。

 自分は、やっぱり遥香の本当の彼氏になりたい。


 ――ん? 


 過去が分からないのと、遥香とくっつけないのと、本当はどっちが仕事に支障を来しているんだ?


 ――本当は、同じ問題なのか?

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