その晩の仕事は、いたく簡単な駆除作業だ。
夕食後、俺はシスターベロニカと仕事の打ち合わせをしていた。
「いま本部に照合しているが、まもなく正体が分かるだろう」
警察から提供された監視カメラの映像からすると、恐らく中型犬から大型犬くらいのサイズの敵だろう。こいつらのおかげで、
「ああ、こいつらなんとなく見覚えがある。新種じゃないのは助かるよ」
敵が判明すれば適切な武器を選ぶことが出来る。
場合によっては昨晩のように耐電スーツを取り寄せることも。
結局、電気を喰らうのは分かっても、工場の電源を有効に使うことは出来なかった。いくらおびき寄せることが出来たって、有効な攻撃手段がなければ意味がない。
あのまま電源を使っていたら、配電室にいたシスターたちは全滅していただろう。
ケガをしたのが自分だけで済んで良かった、と思った。
◇
俺は常々、小物程度の処理は警官でも出来るのだから、教団は出し惜しみせずに武器弾薬を提供すればいいのにと思っている。
そうすれば、駆除部隊の自分らの仕事も少しは楽になるし、食われた警官も救われたかもしれない。だが教団は、武器の供給量が少ないだのとよく分からない言い訳をしては、莫大な仕事量を自分たちに強要している。
実に解せない。
せめて小遣いを増やしてもらわないと割が合わないというものだ。
――たとえば、遙香を養えるくらい、とか。
◇
シスターベロニカからの指示が出た。
「現在、所轄が北側K地区を封鎖し、照明障壁を作っている。ま、気休め程度にはなるだろう。我々は南側県道に接している部分から侵入、駆除作業を行う。西側、東側の二カ所に補給担当を配置、今日は通常装備でいいだろう。私は最北部ゲート前まで車両で侵入、万一に備えて電磁ネットを用意する。始末出来ない場合には、ゲートまで誘導しろ」
「了解。じゃ、用意してくる」
異界獣が沸きだす穴を、教団では『ゲート』と呼称している。
その外観は、地域によって大きさの差異はあるが、何もない空間にぽっかりと黒い穴が開いて、異界へと繋がっているのが共通だ。
虹の螺旋階段の惨劇が発生した100年前、教団が一旦はゲートを封印したのだが、それは一時しのぎで十年後くらいには綻びが始まって現在のようにぽつぽつと異界からモンスターがこちらにやってくる。長いこと虹の螺旋階段が発生していないところを見ると、最初の封印はまったりと効果を維持しているのだろう。ただ完全に塞ぐ手段がないから、俺らのような掃除屋を使って、沸いては駆除するを繰り返している。
ゲートはステンレス鋼板の囲いとバリケードで塞いであるのだが、溢れかえった異界獣に毎度破壊されて、結局は市中へとあふれ出す。小物ならある程度は持ちこたえられるが、力の強い異界獣にはあまり効果がない。
もっとも、近年はセンサー類のおかげで発見が早く、昔ほどの被害は出なくなったが、それでも面倒な連中には変わりない。
「今日は普段通りでいいかな」
俺は装備一式を身につけて、控え室から待機室に戻った。
先日ボロボロになったコートは、新品に交換してもらった。
「よし、出かけるぞ」
そう言って、シスターベロニカは電磁ネット弾の入ったコンテナを担いだ。
俺とシスターベロニカの二人で教会裏の駐車場に出ると、ワンボックスカーにシスターたちが弾薬などを積み込んでいる最中だった。
「お疲れ様です。まもなく積み込みが終わりますので、もう少し待っていてくださいね」
俺たちに気付いたシスターの一人が声を掛ける。
この教会には、戦闘訓練を受けた職員はほぼいないと言っていい。
異界獣と接触することを想定されている、ゲート観測員のシスターアンジェリカのみが、教団本部で基本的な訓練を受けているに過ぎなかった。
いま作業をしているシスターたちでは、せいぜい荷物番や通信係が関の山で、駆除作業の実務においては、俺たち二人でほとんどを賄わなければならない。
「今夜も騒々しいですね」もう一人のシスターが呟く。
夜の街に緊急車両のサイレンが響き、湿度を伴った風が、災いを予感させる。
「諸君はあくまで非戦闘員だ。くれぐれも無謀なマネはしないでくれ」
初めての実戦で高揚する二人に、シスターベロニカが釘を刺した。
市民には、極力不要不急の夜間外出は避けるよう、行政から指示が出ているのだが、徹底するのは難しい。
毎晩どこかしらで、誰かが異界獣の餌食になっているが、いつ市民がパニックを起こしてもおかしくない状況になりつつある。
そんな中を、ひとり無邪気に撮影して歩いていた遙香を思うと、俺は苦笑せざるを得なかった。
「こんな時に言う話じゃないとは思うんだけど……、俺の小遣い、増やしてもらえないかなあ」
出動前の喧噪の中、俺は奥歯に物が挟まったように言った。
「何だ? 欲しいものでもあるのか。仕事が終わったら注文してやる」
シスターベロニカは、通信機器を調整する手を止め、俺に応えた。
「そ、そうじゃなくて……あの…………」
「何だ、もごもごと。言いたいことがあるならハッキリと言え、勝利」
「あ、ああああの…………」
「だから何だ!」
「げ、げげげ、現金が欲しいんだよ!」
俺の痛切なシャウトに、その場にいた全員が一斉に俺を見た。
「現金……だと?」呆れ顔のベロニカ。
「シスターベロニカ、きっと人には言えないようなものが欲しいんですよ」
「AVとか?」
「今はそんなの無料で見られるじゃないですか」
「いや、きっとマニアックな性癖なのよ」
「それとも大人のおもちゃかしら?」
「えっと……テンg」
シスターたちが好き放題に憶測をし始めた。
「あああああああああああああああああああああああああああッ、なに人のこと勝手に異常性癖にしてんだよクソッタレ! 違うよそういうのじゃねえよッ」
バンバンと地団駄を踏む俺。
「どーして俺が金欲しいって言うとそういう事になるんだよッ、思春期の男子が全員エロに金突っ込んでるとか思ってんじゃねえぞ、このクソシスターどもめ!!」
「じゃあ、何に使うんだ。まさか非合法薬品でも欲しいと言うのか? ゆるさんぞ」
「ちがうってば! そっち方向に想像しないでよ!!」
「もしかして、彼女さんに貢ぐ……とか?」
ギクリ。
「あ、やっぱそうなのかしら?」
「どうなのかしら?」
「それって正解なの? 教団的には由々しき事態よ!?」
「外の女に貢ぐなんて、シスター的には由々しき事態じゃない!」
「貢ぐの?」
「ショウくん、ATMになるの?」
「「どうなの?」」
「……そういう、話なのか? 勝利」
パトカーのサイレンが教会前を通り過ぎる。
ドップラー現象で音が歪んで消えていく。
(……言うんじゃなかった)
全員の視線が体じゅうに突き刺さる中、俺はその場にうずくまってしまった。
「トイレ行ってくる――――ッ!!」
脱兎のごとく飛び出した俺は、一瞬で建物の中へと逃げ込んだ。
「逃げた?」
「逃げた」
「何故、逃げる?」
「「図星だからです!!」」
シスターベロニカは得心した顔で、ぽつりと呟いた。
「何だ、女か」
「おーい勝利、いつまで脱糞してるんだ、早く出かけないと朝になってしまうぞ!」
玄関先からシスターベロニカの罵声が飛んでくる。
トイレに逃げ込んだはいいが、そもそも便意など催していない。
タクティカルスーツを装備する前に済ませていたのだ。
「い、い、いま出る!」
裏返った声で返事をすると、玄関のドアが、乱暴にバタンと閉じた。
だが、あの連中とは今夜一杯は同じ現場で駆除作業だ。
実に困ったことになった……。
「ああ、もう……。だから教団の女は嫌いなんだよッ、たく」
「お待たせしました」
俺は意を決して駐車場に出てきたが、早くもくじけそうな気分になっている。
同行するシスターたちがクスクスと自分を見て笑っているからだ。
「……やっぱやめようかな」
シスターベロニカは大きくため息をつくと、
「お前達、いい加減にしろ。今こいつの機嫌を損ねたら、困るのはお前等なんだぞ。分かっているのか?」と、シスターたちをたしなめた。
「「ごめんなさーい」」
「ったく、反省しているのか? ただでさえ、地形を記憶するためにこいつの精神には……、まあいい。早く乗れ、勝利」
「ういす」
シスターベロニカは何を言いかけたのか。
自分の精神には一体何が?
――まさか、記憶のないことと何か関係が?
だが、今それを聞くのはやめておこう。
今夜の狩りは、まだ始まってもいない。
眩しい。
町外れの一角が、まるでナイター施設のように輝いている。
今夜の現場は、照明障壁で防護されている。
といっても珍しいものではない。
工事用の仮囲い鋼板で作られた壁の上に、高輝度照明をずらりと並べて取り付けただけのものだ。しかし、これが異界獣にはてきめんに効果がある。
異界獣は明るい場所が大嫌いだ。夜にならないと出歩いたりはしない。
正確に言えば、紫外線に弱い。
だから、紫外線の含まれないLEDの明かりでは眩しいと思わず、暗闇と同じように、元気に出歩いてしまう。
教団施設のある都市、つまりゲートのある街では紫外線を含まない道路照明は固く禁じている。
それは市民を守るためだ。
事情を知らないバカな市民団体が文句をつけてくることも希にあるが、金を命を引き替えにしたがるヤツなどいない。大概は一蹴して終わる。
「今日はずいぶんと手際がいいな」
「市長が物わかりのいい男だそうだが……。どうやったんだ?」
ハンドルを握るシスターベロニカが、後部座席に声をかけた。
「警察に、教団育ちの人がいるんですよ。ちょっと怖い写真を見せてあげたら、ずいぶんと協力的になったそうですよ」
「教団育ち……ね。俺と同じか」
「十年ほど前、この街に異界獣が発生した際孤児になり、遠縁の親戚以外は身寄りもないので当教会に引き取られました。その方は、私が赴任した時にはもう警察官になられてましたので、街のどこかですれ違いはしても直接お会いしたことはありません」
「我が教団は、相変わらず面倒見のいいことで」
「そう皮肉を言うもんじゃない、勝利。元はと言えば、被害を抑えられなかった教団にも責任はある。それを国に代わって全うしようとしているのだから、正しい行いだろう?」
「そりゃそうだけど……。でも後々教団職員にしたりと、利用するのがミエミエなのが気に入らないんだよ」
「就職を斡旋する事のどこが悪いんだ? さっきの警察官のように、公務員になる者もいるじゃないか。別に強制しているわけではないだろう」
「っつてもなあ」
そうこうしているうちに、車は閉鎖区画の入り口に到着した。
パトカー数台と防弾チョッキを着た警察官たちが、彼等を迎えた。
「さあ、着いたぞ。みんな降りろ」
「うーい」浮かない顔でシートベルトを外す俺。
「気合いを入れろ。今夜の主役はお前なんだぞ。分かってるな?」
――んなこと、言われなくたって分かってるよ。毎晩、主役なんだから。
「了解、っと」
俺は車を降り、照明に目を細めた。
「うぎゃッ」
俺はケーブルに足を取られ、思いっきり転んだ。
県道に設けられたゲートから、封鎖されたK地区に侵入した俺は、開始早々でいきなり額を擦りむいてしまった。
「……つつつ。誰だよ、こんなとこにケーブル這わせてるヤツは。頭おかしいんじゃないの?」
まったく、序盤から縁起が悪い。ぶつくさ言いながら、俺は光の届かない場所まで周囲を伺いながら徒歩で進んでいく。
背後からの強い光に照らされて、囲いの内側にある街灯の支柱や街路樹、ガードレールなどの影が真横に細く伸びている。
もちろん、異界獣ハンターの影も、その一つだ。
今夜のターゲットは、教団本部の見立てによると、八十%の確率で『アギト』だ。
中型犬~大型犬くらいの外観を持つ、犬のようであって犬ではない化け物。
その名の通り、鋭い歯と牙で獲物を喰らう、どう猛なヤツだ。
「ん……」
俺はふと、足を止めた。
まだ周囲は明るいが、血の臭いがする。嗅覚の鋭い俺様でもなければ、気づけないほど微かに漂っている。
昨日以降、被害者は出ていないと聞いている。しかし、誰かが喰われているのは間違いない。
まさか、車で奥へと先行したシスターベロニカではないだろうが。
「……なわけ、ねえか。だったら無線で連絡してくるはずだ」
どうも色々あって、心身ともに調子が出ないようだ。
さっきも転んでしまったし。
俺はぶんぶん、と頭を振ると、臭いの元を探し始めた。
「あちゃあ……参ったな」
俺は、構えていた二丁のサブマシンガンを、ぶらりと降ろした。
俺の追っていた血の臭いが、途中で別のものにかき消されてしまったのだ。
犯人は、発電機のまき散らす排ガスだ。
大量の照明を点灯させるため、発電機もまた閉鎖区画をぐるりと囲んでいる。それを今さら止めろとも言えず、俺は苦虫を噛み潰す心地だった。
「なんか今日は、仕事がちっともスムーズに進まねえなあ……」
少々イラつきながら銃を地面に置くと、背中の荷物を降ろした。
俺は嗅覚での探知を諦め、暗視ゴーグルを装備しはじめた。
もう辺りには照明障壁からの光はおおむね届かなくなっている。
ここからが本番だ。
「おっと、ワンちゃん相手にゃ、これも着けないとな」
俺は、重いアームガードを腕に巻き付けた。
教団開発部ご自慢の物理防護装備の一種だ。軽くスイッチを入れると、ギュッと締め付けて腕にフィットする。
拳銃程度なら難なく弾くほどの強度を持つが重量もあり、身軽さがウリの俺様にはすこぶる評判が悪い。
だが。
今夜の敵は『アギト』だ。何でもかんでも食いちぎってしまう、悪食の犬だ。このくらいの準備も、ヤツが相手なら致し方ないだろう。
「あの顎でばっくりやられた日にゃあ……腕の一本くらいすぐ無くなっちまうからな」
腕の一本、と口にしたところで、シスターベロニカを思い出した。
――俺の腕が無くなったら、あの人はどう思うだろうか。
――やっぱり悲しむんだろうか。多分。だろうな。
「俺ぁそんなドジ踏まないよ、ママ」
俺はサブマシンガンを手に取ると、再び歩き始めた。
「ふぎゃッ!!」
俺のブーツの底が宙を泳ぎ、あるはずの地面を踏み抜いた。
サブマシンガンで両手の塞がっていた俺は、再び前のめりに転んでしまった。
粗めのアスファルトで顔をすりおろしてしまい、痛みが激しい。
「……ッ、つつつつ。何でここ段差があるんだよ! ったく、3Dデータ間違ってんじゃないの? あたたた……」
その高さ、およそ三十㌢。
打ち所が悪ければ重傷を負っていたところだ。
「おかしいなあ……。こんな筈は……」
俺は小首をかしげた。
無理もない。この都市の地形は十㌢単位で頭に入っているはずなのだ。
道路の縁石ですら踏み違えることは、ほとんどない。
(言ったそばからドジるなんて。あり得ないあり得ないあり得ない………………)
擦り傷に消毒薬を吹き付け、気を取り直して歩き出すと生臭い匂いが漂ってきた。
(ゴミの放置……、いや違うな)
俺は立ち止まり、周囲を伺った。
気配は感じるが、姿は見えない。暗視ゴーグルにも映らないということは――。
(視界の、外か!)
サブマシンガンを腰の磁力ホルダーに固定すると、俺は側の中層マンションに向かってワイヤーを射出した。
ガツン、と当たる感触。
ぐっ、と
キュルキュルと耳障りな音が闇に響く。
最上階のベランダに到着した俺はワイヤーのフックを外し、さらに屋上へと飛び上がった。
(どこだ……)
高所に立つと、照明障壁の明かりが横殴りに視界に入る。
両手で暗視ゴーグルの脇を覆うと、真下の地面を調べ始めた。だが、先ほどの気配の主が見当たらない。
「物陰にでも入ってしまったんだろうか……」
屋上のへりをぐるりと歩きながら階下を覗き込んでいると、何かが視界の端で動いた。
「あれかッ」
サブマシンガンを腰から外して両手に握ると、俺はふわり、と体を重力に預けた。
「ぎょえッ!!」
地上五階のマンション屋上からヒラリと舞い降りようとしたそのとき、何者かによって、強く後ろに引き戻された。
――何ッ!?
バランスを取る間もなく、俺は屋上に背中から叩きつけられた。
強い衝撃を頭部に受け、視界はぼやけ、気が遠くなっていく。
酷い目眩に襲われながら、身を起こそうとした時――――
『バウウウウ――――ッ』
――はあああああッ!? い、犬!?
俺の体は、さらに強い力でズルズルと後ろへと引き摺られていく。
「こ、コートに食いつかれてるのか!? え?」
振り解こうともがくが、かえって左右にブンブンと振り回されてしまう。
「ふ、ざけッ、うえぇ……」
ただでさえ脳震盪を起こしているところで、そんなことをされたら余計に気分が悪くなってくる。
暗視ゴーグルの視界がめまぐるしく動き、三半規管を鍛えているはずの俺は吐き気を催した。
『ガウッ、バルルルル……』
「や、やめろ、ううぅ」
『ガフッ、ガフッ』
犬とおぼしき生物は、調子に乗って俺をブンブンと振り回している。まるでオモチャにしているようだ。
(くそッ、これ以上やられたら……吐く!)
引きずり回され、振り回されながら、俺は気力を振り絞って両腕を頭上へと向けた。
「くッたばれえええ――――――ッ!」
ダダダダダダダダダ――ッ、と、二丁のサブマシンガンを
ギャン、と犬らしき生物が短い悲鳴を上げ、もみくちゃにされた俺の体は、屋上のコンクリート床の上に放り出され、二、三度転がるとぴたりと止まった。
「うう……」
ぐるぐる回る視界に酔いながら、俺は暗視ゴーグルを額の上に押し上げ、ふらふらと立ち上がった。
そして、ベルトのバックルに仕込まれた、小型LEDライトのスイッチを入れた。
俺の眼前に現れたのは、血を大量にぶち撒けた、犬のようで犬でない物だった。俺に撃ち込まれた銃弾で虫の息だ。
ソレは黒くぬらついた皮膚を持ち、犬のように四つ足だが、口は胸の辺りまで裂け、しかも花のように顎が四枚に割れている。
「っきしょお……やっぱテメエかよ。俺をさんざ振り回してくれた野郎は……」
その生物は、異界獣。
コードネームは『アギト』、今夜の獲物だ。
「うかつだった。というか、何故こいつの気配に気づけなかったのか……」
いつもなら、正確無比に敵を見つけ、抹殺している。
狭い屋上で鉢合わせたなら、臭いにも気付けているはずだ。
地上に立ちこめていた発電機の排気ガスも、ここまでは届いていない。
『調子が悪い』
確かにその一言で言い表せる。だけど――。
己の感覚器官の不調は死を招く。
だから俺は、フルフェイスのヘルメットも着けない。
視覚、聴覚、嗅覚に制限を受けてしまう状況は、出来れば避けたいんだ。
「いんや……参ったね。うぇ……」
まだ気分が悪い。吐き気も目眩もする。
いっそのこと、腹の中身を吐き出してしまえば楽になれるかも――と思ったが、せっかく食べた夕食がもったいない。ガマンして先を急ぐことにした。
ひらりと屋上から地上へ飛び降りると、今度は着地に失敗して二、三度地面を転がるハメになった。
「な、なんで……ッつつ……」
(ありえん。俺がこんな低い高さでコケるなんて……)
暗視ゴーグルを額から降ろし、再び周囲の探索を始める。
だが近くに敵の気配はない。
さっき屋上からちらりと見えた敵は、いまどこにいるのだろうか。屋上での騒ぎでどこかに逃げてしまったのか。
ふいに、びゅう、と強い風が吹いた。
少し残っていた排気ガスと共に、街を覆っていた雲が流され、月が顔を出した。封鎖区画にほんのりと青い光が降り注ぐ。
この程度の明るさならば、狩りに支障はない。むしろ裸眼で仕事が出来るぶん、視界の狭い暗視ゴーグルを使うよりも敵を見つけやすい。
俺はゴーグルを外し、すう……と深く息を吸い込んだ。
◇
「勝利さん、こちらがマガジンパックです。ドリンクのお代わりは?」
「ああ、下さい。それとチョコバーも、もう一本」
東側の区画の駆除を終えて、補給地点Aに来た俺は、待っていたシスターから弾薬の補給を受けつつ休息を取っていた。
「それにしても、どうしたんです? そんなに泥んこになって。大変だったんですねぇ」と、スポーツドリンクを紙コップに注ぎながら、呑気に言うシスター。
「うっ……ちょ、ちょっとね」
「じゃ、ウェットティッシュも出しますね」
死闘の末、と言えれば格好はいいが、実際には、さんざん自分で転びまくって汚れただけだった。つまり、自爆。
花壇に突っ込んだり、ぬかるみに足を取られたり、異界獣の返り血をモロに浴びたり等々。
普段なら、こんなに汚れることはない。そもそも、異界獣は俺の体に触れることすら出来ないのだから。
シスターの用意した、キャンプ用折りたたみ椅子に腰掛け、深いため息をつく。
(ああ…………。なんでこんなみっともない事になってんの)
仕事だけはなんとかこなしているものの、まるでルーキーの時のようにドジだらけだ。
「勝利さん、顔上げて」
「んあ……?」
しょんぼり項垂れていると、シスターがウェットティッシュで顔の汚れを拭ってくれた。
「一人でこんな広い場所を駆除するなんて、大変ですよね。これ食べて、頑張って」
彼女はエプロンのポケットからチョコバーを出して、俺に差し出した。
「ありがとう……」
「よほど疲れているのね。私たちが役に立てればいいのだけど……ごめんなさい」
「いや、一般職の方に、そんな無理させられないですよ。これで十分。それに、そんなに疲れているわけじゃないから大丈夫……」
「心配事?」
ぎくり。
「いや……あの……」
「彼女さんのこと?」
俺はチョコバーの包みを、手元から落とした。
「へあッ、いや、その……」
「あ、ごめんなさい、余計なこと言って。お仕事に差し支えちゃいますね」
「あ、あはははは……」
俺は力なく笑った。やはり女の人は騙せないようだ。
帰りたい。
ああ、帰りたい。
帰りたい。
俺がこんな気分になるのは、昨年夕食の鯖に当たったとき以来。
「もう……どうなってんだよ」
自分以外、どこにぶつければいいのか分からない憤りを、仕方なく足下の石にぶつける。全く持って、石にとってはとばっちりもいいところだ。
コン、と乾いた音を立てて飛んでいった握り拳大の石は、道路を挟んだ植え込みの中に消えた。
低木の中に落ちて、ガサ、ドス……という音がする筈なのに、ガサ、の次が――
『ギャンッ』
「あ……。マンガかよ」
即座に植え込みへと銃弾の雨を浴びせた。
満タンにしたばかりの、サブマシンガンの弾倉内がみるみる減っていく。
数秒ほど甲高い悲鳴が続き、そして消えた。
異界獣の生臭い血と内蔵の臭いが、前方から漂ってくる。
コツコツ、とブーツを鳴らしながら二車線の道路を渡り、植え込みの前に立った。
ベルトバックルのライトで照らしてみると、低木の向こうでぐちゃぐちゃになったアギトが転がっていた。
ピクリともしないので、死んでいるだろう。
念のため、急所に数発銃弾を撃ち込む。
大カエルとやり合った時のように、大きな刃物でもあればムダ弾を撃つ必要もないのだが、正直いって体の半分が顎の『アギト』には、あまり触りたくはない。
「また一匹、と。運の悪いやつだな。隠れてないで逃げればよかったのに」
今宵は、異界獣の血をさんざん浴びた男がうろついているのだ。
危険を察知して逃げるのが動物じゃないか、と思いもしたが、こいつらは異界獣。こちらの理など通用しない。
そもそも人間が主食の連中だ。しかし個体差があることは教団も把握している。今しがた処理したアギトのように、臆病なヤツもたまにはいるのだから。
「うん、俺も逃げたい。もうこれ以上、ドジを踏みたくねえんだ」
◇
ドジを踏みたくない、と思えば思うほど、ドジを踏んでしまうものだ。
俺様の、本日二十五回目のドジは、アギトと間違って、置き去りにされた民家の飼い犬を射殺してしまったことだ。
「あああああああああ――――――ッ、もうやだああああああああ――――ッ」
頭を抱えて地面をゴロゴロのたうち回る、異界獣ハンター。
教団マニュアル通り、変質者の犯行ということで処理されるが、良心は痛む。
ごめんよ……ワンコ。マジごめん……。
「あ、あの、こちら勝利――」無線でキャンプを呼び出す。
『どうした』
いつも通りのシスターベロニカの声。少し安心する。
「やらかしました……」
『む、お前は無事なのか!! 歩けるか!?』
「そ、そうじゃなくて……」
心配性のシスターベロニカに事情を説明し、可愛そうな犬の座標を記録してもらう。明朝になれば警察から、今は避難している飼い主に話をつけてくれることだろう。
「あれ……? そういや、ここの区画封鎖って、不発弾処理だったような……」
俺の背中に冷たい汗が流れた。
(警察の人ごめんなさい、言い訳めんどくさくなってごめんなさい)
元犬だった肉塊に手を合わせると、俺は先を急いだ。
◇
足を囓られ、コートの裾を破られつつ、道中十匹ほどのアギトを処理した俺は、順調に西側の閉鎖区画を攻略していった。
「どこが順調なんだよ! クソッタレ」
誰に毒づいているのか分からないまま、俺は月夜の道を進んでいく。
汚れようとも、みっともなかろうと、アギトとの戦いで積み上げた『勝利』は本物だ。しかし、それが今は実感出来ない。
「こんなの俺じゃねえええええええッ!!」
俺のイライラは限界に達しつつあった。
「マジヤダ……もう帰りたい。おうちに帰りたい……」
イライラに任せてサブマシンガンを撃ちまくっていたら、当然だが弾が無くなった。次の補給ポイントまでは、まだ距離がある。
俺は仕方なく、両手に大ぶりのダガーを装備し、アギトを切り刻んで歩いていた。もちろん、腕はガジガジと囓られ放題である。
防具を着けていなければ、俺の腕は今ごろ骨を残してボロボロになっていたろう。
背後に気配を感じた。荒い呼気と足音――
「だから!! イヤだっつってんだろッ!!」
振り向きざま、俺は刃を横薙ぎにした。
一瞬ぶにゅり、とした感触のあと、ダガーは固いものと柔らかいものを両断した。
刃は月明かりを一筋、すう、と闇の中にたなびかせる。
黒い体をぬらりと光らせた獣が、飛びかかろうとした体勢のまま空中で真っ二つになっていた。
ダガーに付いた水色の体液を、びゅっと強く振って落とすと、異界獣のなれの果ては、黒いアスファルトの上に極彩色の内蔵をブチ撒けた。
さながら、ゼリービーンズのようだ。
「…………ヤバい。このままじゃ……」
俺は額に手の甲を当て、目を瞑った。まだ微かに目眩が残っているようだ。
己の精神状態が普通でないことに、俺はようやく気付いた。
ただ集中力がないだけ、ちょっと消化不良を起こしていただけ、少し疲れていただけ。色々と大丈夫な理由を並べてみるが、ちっとも大丈夫になどなりはしない。
思い当たるフシを考えようにも、次々と敵は現れる。
もちろんメインターゲット以外も。
アギト以外は小物がほとんどとはいえ、考え事をしながら始末出来るほど楽ではない。油断をすれば指の一つくらい食われてしまう。
「早く……早くここから出なければ……」
しかし、エリア外に出るには、全ての敵を駆除しなければならない。逃げたい気持ちと戦いながら、異界獣とも戦う。
俺は、その相反する行為に耐え難くなっていた。
西側エリアの攻略が終わる頃、俺は泣きじゃくりながらダガーを振り回していた。
今の俺には、正気を保つことが非常に難しく、ただ使命感とプライドだけで異界獣を斬り続けていた。
一度崩れた精神の均衡は、既に自力で持ち直せる段階を遙か遠く過ぎていて、このままでは仕事が終わる前に発狂するかもしれない。
――そんな考えが脳裏をちらちらと過ぎる。
俺は補給ポイントに立ち寄ることも忘れ、青い血の滴る剣を手に、ふらふらと月明かりの街を進む。
ボロボロに千切れたコートは、きっと黒い幽鬼を思わせただろう。
◇◇◇
「おい!! 返事をしろ!!」
気付くと、俺の両肩をシスターベロニカが強く揺さぶっていた。
(……え。何でここに……)
頭がくらくらする。シスターは何を言っているのか、よくわからない。
一体、ここは何処で、何があったのか。
「聞いているのか、勝利!」
パンッ!
――痛い。顔が。一体……あれ?
「正気に戻れ、勝利! おい!」
「あ……。ここは?」
「ここは最深部のキャンプだ。もう終わったんだよ。分かるか?」
「終わった?」
「そうだ」
そう言って、シスターベロニカは俺の肩をつかみ、くるりと後ろを向かせた。
「これを、俺が?」
「そうだ」
「こんなにたくさん?」
「そうだ」
眼前の光景が、今の俺にはリアルに思えなかった。
自分なら、このくらい当然だ。そう、思えなかった。
本当の自分ならもっと倒せる。そう、思えなかった。
「俺……が? ホントに?」
「そうだ。お前がやったんだ」
「……………………」
ぼんやりとした頭で、サーチライトに照らされた地面を見る。地面の上に転がったモノを見る。地面に広がったモノを見る。
ズキズキと、体のあちこちが痛みだした。それと共に、思考と視界がだんだんと明瞭になっていった。
「そうか、俺が。最後まで、やれたのか」
俺の頬に一筋の涙が流れた。安堵の涙だ。
そうか、と何度もつぶやき、手の甲で涙を拭うと、俺は己の仕事の結果を確かめた。
自分たちの前に広がっていたのは、極彩色の地獄絵図だった。
数え切れないほど多くの、切り刻まれた異界獣の死骸が、明かりの届く範囲じゅうに敷き詰められていたのだ。
異界獣の体液や内蔵は、その黒っぽい外皮からは想像出来ないくらい、毒々しい色彩に満ちあふれている。
プリプリとした内臓はゼリービーンズやグミキャンディーを彷彿とさせ、地面にぶち撒けられた体液はパステルカラーのペンキのようだった。
その特徴は、今までのどの異界獣でも例外はなかった。
「でも……なんでこんなたくさん」
「鳴かせただろう?」
ああ、そうか。うっすらと記憶がよみがえる。
途中、敵ともみ合いになり、うっかり絶叫させてしまったのだ。
異界獣は、仲間の声に呼び寄せられる習性がある。
「お前はどこかで鳴かせて、ゾロゾロと大群を引き連れて、ここに来たんだ」
「なんてこった……」
「さすがの私もヤバイと思ったよ。ありったけの電磁ネットをバラ撒いてもまだ足りなかったが、残りのほとんどは、お前が全て片付けてくれた。――鬼神の如くな」
「えっと……ごめん」
「覚えてなかったのか」
こくり、と頷く。
シスターベロニカが安心したような、困ったような顔で俺を見ていた。
「恐らく、無意識でやっていたんだろう。さあ、もう帰ろう。夜が明ける」
そう言って彼女が仰いだ空は、群青に染まりはじめていた。