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パパは都市伝説ハンター

 教会から、ものの数分歩くと遙香の家に着いた。

 なんと超ご近所だったのだ。

 一戸建ての多い区画の中の一軒で、二階建て庭ナシ車庫アリの一般的な住宅だ。

 外装材や構造が、並びの数件と酷似しているので建て売り住宅だろう。

 遙香がごそごそと家の鍵をポケットから出していると、これまた頭の悪い声が背後から飛んできた。

 まさか……と思って振り返ると、ああ……これは。

「ガッコなんか行くヒマあったら稼ぎに行かんかコラ!」

「なんなら俺ら紹介してやってもいいんですぜ、お嬢ちゃん」

 ……とまあ、実に分かりやすい台詞を吐く、絵に描いたようなチンピラが二名。

 ひとりはパンチパーマをあて、青く剃り込みの入ったヘアスタイルに、のっぺりした草履顔でスーツを着ている。やたら肩幅だけあるが体の厚みがないので、格好つけに着ている、ゆったりとした上着が仇となり、ハンガーに掛かった服が歩いているようだ。

 もうひとりはボサボサ頭で目が細く、眉間にしわを寄せながら口だけ笑っている。そして、どこかのバンドのロゴがプリントされた黒Tシャツの上に、テカテカしたスカジャンを着て、Gパンとゴツいブーツを履いている。つま先には金属片が打ち込まれているんだが、多分これは彼なりの武器なんだろう。

(バカ息子をとっちめただけで、取り立てが止むわきゃないか……)

「誰があんたらの世話になるもんですか!」

 遙香が気炎を上げる。蛮勇かもしれないが、ひるまない男気に惹かれてしまう。

 俺は背後に遙香を押しやって連中の前にずいと出た。

「そのへんにしてくれないかな」

「んじゃ、このガキゃあ。ナイト気取りかあ?」

 ブーツが吠える。俺は脇から銃を抜くと、ニコニコしながらその男の額に突きつけた。登校時は昼間とはいえ、街全体が異界獣の沸く危険区域だ。いつ面倒に巻き込まれてもいいように武器を携帯している。当然ながら学校は我が教団の経営で、仮に見つかったとしても咎められることもない。警察も同様だ。

「ひッ…………な、なんで」

 ブーツはそれだけ言うと、目を剥いたまま固まってしまった。

「どうしたん……ッ!?」

 相棒も銃を見て、息を飲んだ。

「こんにちは、お兄さん方。今日からこのへん、ウチの組の縄張りになったんですよ。というわけで、この女も俺のペットにしました。……いじめると、殺しますよ?」

 銃口を少しだけ男の額にめり込ませた。

(ちょっと、それ学校に持ってきてたの!)

 遙香が耳打ちする。

 微妙に怒ってる気がするのは、ペットという表現が気に障ったからなのか。

(いつアレが沸くか分からないんだからしょうがないだろ)

 この銃は無論、人間用ではない。ハンターが異界獣狩りに使う特殊な銃だ。有り体に言えば、人間相手には普通の威力だ。異界獣用の弾丸といっても、それほど特別なものではない。通常の弾丸を加工し、異界獣に有効な効果を付与している。有り体に言えば、彼等の苦手な成分が塗布されている。その成分は、通常攻撃の効きづらい奴らの外皮を破ってくれる。これで我々の兵器でも本体にダメージを与えられるようになるんだ。だから特殊弾といってもその追加効果自体は人間には影響がないので、通常の弾丸の威力を与えるのみってわけだ。

 ――とはいえ、人間よりも遙かに質量のある生物を打ち抜くのだから口径も威力も大きい。素手で粉砕出来るようなチンピラ相手には、正直弾がもったいない。

 銃を突きつけられていない方が、つまりパンチがスマホでどこかに連絡しようとしている。タップする手がガタガタ震えていて滑稽だ。

「あ、どっか連絡しちゃいます? んじゃこっちのお兄さんどうなってもいいんです?」

 俺はすかさずブーツの口に銃身をネジ込んでやった。

「あへへー、ふええ」と涙目でわめき、小便までもらしやがった。

 多分、やめてー、と言っているんだろう。

「う、わ、わかった、わかったから撃たないでくれ」

 ひどく怯えたパンチが、上着のポケットに慌ててスマホをつっこんだ。

「ショウくん、ご近所さんに通報されると困るから、そろそろやめてあげて」

 彼女はもう、チンピラ程度じゃ驚きも怯えもしないのか。タフ過ぎて損はない。


     ◇


「さー入って入って~」

「おじゃましまーす」

 俺がチンピラを見送ってると、遙香は家のドアを開けて俺を中に招いた。

 彼女の自宅はご近所とほぼ同じ外装、つまり建て売りの二階建て住宅だ。今どきは周辺の区画でも三階建てが主流だから、結構昔に販売されたのだろう。

 彼女にくっついて玄関ホールに入ると、お香みたいな香りや、古本、木の匂いがする。何かに似ているな、と思うと、多分古物屋だろうか。ホールからすぐ二階に上がる階段と、奥へと続く廊下があり、壁面や作り付けの棚、そして階段のはじっこは、都市伝説がらみの怪しげな物体で満ちあふれていた。

「いっやー、すごいなコレ」

 素直な感想が俺の口から漏れる。主に量的な意味でだが。

「みんなお父さんのコレクションだよ」まんざらでもない様子の遙香。

「だろうな。なんつーか……すげえや」ボキャブラリーのなさに泣けてくる。

 いかにもアヤシイ置物やいろんな言語で書かれた書籍、気持ちの悪い絵柄のタペストリーや呪術用としか思えない壁掛けに、呪われそうなでっかいお面。そして世界各国の呪術用品などなど、玄関から居間にたどり着くまでの短い間にすら、余裕で店を出せるくらいの量の怪しげなオカルトグッズで溢れかえっていた。きっと奥の部屋や二階には、もっと大量の物品があるのだろう。借金があるなら、こいつらを売り飛ばして足しにすればいいのにと思った。

 廊下を進んでいくと、壁掛けなどに混じり、額装された写真が何枚も貼ってあった。それらは都市伝説とはあまり関係がなさそうな、風景や建物などの美しい写真だった。しばし足を止めて見ていると、遙香が言った。

「それ、全部お父さんが撮ったのよ。いいでしょ」

「うん、いいね。綺麗だ」

「もともとカメラマン志望だったんだって。でも、いつのまにか、ね」

 ハハハ、と彼女は軽く笑い飛ばすが本当は不安なのだろう。目は笑っていない。

 俺を一階のリビング(?)に通すと、遙香はチンピラを追い払ったことに感謝の意を述べつつ「ジュース持ってくるから」と言って隣のキッチンに姿を消した。

『リビング(ハテナ)』なのは、半ば彼女のお父さんの仕事場と化していたからだ。

 隣にあるお父さんの書斎 (らしき)部屋の壁をブチ抜いて、リビングと合体している。そのせいで、多分お父さんの仕事の資料と思われるヘンテコなものが、書斎から大量に溢れ出してリビングの少なくない部分を占拠しているのだ。

 彼女が台所でガチャガチャとやってる間、俺は何気なく部屋の壁を見ていた。

(さすがは有名都市伝説ハンターの家だな……いろんな意味ですごい)

 そこには怪しいペナントや古文書のコピーに混じり、近県の広域地図が貼ってあった。

「これは……この辺りの?」

 地図にはたくさんのマーカーが付けられていたが、そのうちのいくつかが線で結ばれ、幾何学的な図形――五芒星を描いていた。

 イヤな予感がした。

 俺は、さらに近寄って、その地図をじっと見た。

 背中に冷たいものが流れた。

 これは自分が今まで派遣された場所と同じだ。

 そして、五芒星の頂点の一つは、

 ――この町を指しているじゃないか!


『彼女のお父さんは、異界獣の沸く場所を渡り歩いてきたんだ。もしかしたら、彼と俺はどこかで出会っているかもしれない。そして、核心に近づき過ぎたお父さんは教団の手に……』


 まさか、そんな……

 イヤな想像が俺の脳裏を過ぎる。


 ひとつは、秘密保持のために彼女の父親が処分されたのではないか、ということ。そしてもうひとつは、彼女の父親にとって自分は『獲物』だったのかもしれない、ということだ。

 世間に出没する不気味な生物を狩る、謎の組織の尖兵。それが俺だ。

 都市伝説ハンターの獲物としては十分過ぎる。

(教団の報道管制がなければ、俺はもっと前にハルカのお父さんの餌食に……)

 そう思った途端、背筋に寒いものを感じた。

 普段、一方的に狩る側だから、狩られる側の気持ちなど、考えたこともなかった。俺は壁の地図から目が離せなくなっていた。いや、実際に見ていたわけじゃない。恐怖や、いろんな感情が肺や心臓をぐるぐる巻きにして、俺は身動きが取れなくなった……。

 不意に背後から声がした。

 俺の意識を締め付けていたものが、弾け飛んだ。

「おまたせ。雑誌のバックナンバーも持って来たよ」

 それは遙香の声だった。これがもし遙香でなければ、気付くのにもう数瞬かかっていただろう。そしてそれが作戦中なら、俺は死んでいる。

「……どうしたの? 蛇にでもにらまれたような顔して」

「え? あ、ああ……。ごめん。大丈夫だよ」

「ホント? ショウ君こっち座って、ジュース持ってきたから」

 遙香はジュースを載せたお盆と一緒に、雑誌を数冊、リビングのローテーブルの上に置いた。俺は布張りのふかふかなソファに腰掛け、雑誌の山から一冊取った。

「ふうん……コンビニで見たことはあるけど、中を見るの始めてだよ」

「あんなお仕事してるのに、オカルトとか興味ないわけ?」

「仕事だから興味ないんだっての。さてさて……」

 俺は、でかでかとUFOの写真が刷られた表紙をめくった。

『月刊都市伝説マガジン』、それがこの雑誌の名前だ。

 表紙には怪しい写真や文字列が踊り、かなり人を選ぶ造りだ。オカルト雑誌の金字塔、名前だけなら知らぬものはない有名雑誌である。あまりにも怪しげなので、記事は全てインチキやでっちあげと言われて真に受ける者はなく、時折ネタにされては笑いを取る、雑誌界の道化のような存在だ。

 だが、こういったゴシップ系の新聞や雑誌には、あながちウソとも言えないような記事がこっそり紛れているのは万国共通で、それ故に真実を載せても削除されたり廃刊に追い込まれたり、関係者が謎の失踪や謎の事故や謎の自殺で消えることもない。

(うわあ……このUFOぜったい造りものだよなあ。うは、これは――)

 ついつい記事に夢中になってしまうのが、このテの雑誌の魔力だろう。

 なまじ未確認生物や超常現象などに触れているものだから、つっこみを入れつつ、プロ目線でがっつり読んでしまう。

「おもしろい?」

「う、うん」

「だよね~。私この本大好き」

 俺がこの雑誌をくまなく調べてみると、駆除対象に関する写真は確かに掲載されているのだが、どれも不明瞭で、先日遥香本人が撮影したものとは比べるべくもない。

『もしかしたら、あえて不明瞭なものだけを選んで掲載してきたのでは』

 と思った。ここまでボケた写真なら信じる人も少ないだろう、という教団上層部の判断か……。

「あのさ、ハルカさん」

「なに?」

 彼女は向かいのソファに腰掛けて、足をぶらぶらさせながら様子をうかがっていた。色よい返事を期待しているのは間違いない。だって、ニコニコしてるから。

「非常に言いにくいんだけど……」

「なによ」

 ピタリと遙香の足が止まった。

「多分、買ってくれないと思うよ。だってどの写真よりも、キミの写真は綺麗だから」

「どういう……こと?」

 俺はジュースのグラスを手に取り、ストローも使わずに一気に飲み干した。そして、おもむろに語り出した。

「それはね、――知られてはいけない本物の情報だからだよ」


 俺は膝の間で手を組み、遙香からわずかに視線を逸らしながら語り出した。

 まさか自分でも、こんなことになっているとは思わなかったのだ。

 教団の情報統制について、最前線の実動部隊である自分には知る由もない。

 まして報道される写真のレーティングなんて……。


「いま見せてもらった雑誌には、確かに本物の異界獣の写真がいくつか載っていた。それは俺が保証する。だが、どれもピンボケだったり暗かったりと、明確に分かるものがないんだ。気付かなかった?」

「えーっと……」

 遙香は困惑気味に雑誌をめくっている。

「そう言われてみれば……」

「どうだ? 自分が最近撮影したものと比べて」

「ぼんやりしてる……。おかしいなあ、お父さんの撮った写真ってこんなだったっけ」

「思い出補正、あるいは別の写真で補完されていたか。もしかしたらお父さんは、もっと鮮明な写真を撮っていて、家ではキミに見せていたかもしれない、でも採用されたのはこんなのばかりだ」

「……」

 遙香はしょんぼりと肩を落とした。

「それが何を意味することなのか、わかるよね?」

「しられ……ては、いけない……こと」

「そう。少なくとも、今この街で起こっている連続殺人事件が風化して、都市伝説化しないかぎり異界獣が大量発生したなんて記事は作れないしハルカさんの写真も使えない。たとえピンボケ写真があったとしてもだ。ましてや関係者である俺の写真なんて言語道断」

 ゆっくり冷静に考えてみれば分かることだったんだ。リアルタイムで発生してるこの殺人事件を、たとえゴシップ誌ですら記事になんて出来っこないってことが。それに気付けなかったのは、俺が心を乱していたからだ。

「写真で稼ぐのは諦めろ」

「じゃあどうしたら……」

「とにかく、なるはやでバイト探せ。んで、もしあいつらを見つけても、絶対近くに寄ったらダメだ。次こそ死ぬぞ。じゃ、俺帰るよ」

 そう言って立ち上がりかけた俺を遙香が制止した。

「待ってよ。まだ終わってない」

「……えっと、なんだっけ。まだ何か?」

 正直あまり長居をしたくなかったのだ。

 これ以上、写真のことで詰め寄られたくなかったし、惚れた弱みでうっかり失言をしてしまうかもしれないし、お父さんの失踪の原因が教団にあるかもしれない……なんて、気付かれるのも困る。

「なんでアンタがキスしたのか、まだ聞いてない!」

 遙香はローテーブルから身を乗り出すと、キレ気味に言った。でもそれは、下駄箱前で見せた表情とは少し違っていた。苦しそうというか、切なそうというか、どうにも言い表しにくい顔をしていた。

「あ、あれは……、あの時、ハルカさんは化け物に腹をドつかれて倒れたんだ」

「やっぱり! お腹が焼けるように痛かったのに痕もなかったから夢かもしれないって思ってたけど……」

 俺はコクリと頷いた。

「一刻も早く助けないと死にそうな程の重傷だった。俺がそいつを退治したあと治療をして、意識のないキミに口移しで薬を飲ませたんだ。多分その時、少しだけ意識があったんだろう」


 でも半分は本当で、半分はウソだ。たとえそれが事故だったとしても、



       『ハルカを殺したのは自分だったのだから』



 慌てて蘇生と治療をし、事なきを得たわけだけど、自分が彼女を一度は死なせてしまった事実は消しようがない。だが、本当の事を言う度胸がなかった。そんなちっぽけな保身を願う気持ちが、俺はたまらなくイヤだった。

 遙香は困惑していた。

「ち……りょう? 確かに、怪我したはずなのに、気付いた時には治ってた……」

 当人も、あの晩、腹に強いダメージを受けたところまでは覚えていた。その後のことは意識も切れ切れで、俺に抱かれて口づけされたことしか記憶にない。次に意識が回復したのは、腹の風穴がふさがって痛みも消え失せた後のことだ。さすがに破れた服までは修復していなかったから、困惑したのだろう。

「キミが街中からずっと俺を追って来ているのは分かってた。そのうち見失って諦めるだろうとも思ってた。でも、まさかあの公園の奥まで女の子が踏み込んで来るとは思わなかったんだ。人気はないし、真っ暗だったし、そんなに切羽詰まってるなんて知らなかったし……。だから、ハルカさんが襲われたのは、俺にも責任がある」

 遙香は黙り込んでしまった。真相を聞いて恐くなったのだろうか。

 少しして、おとなしくソファに座ると、彼女はスカートの端を掴み、唇を噛んだ。

 沈黙が恐くて、先に口を開いたのは俺だった。

「あ、あの……ごめん……ホントにゴメン……」

「うん……」

 二人してこうべを垂れて、リビングがお通夜になってしまった。

「そ、それに俺らは予防してっけど、一般ピープルがあいつらに触れると、ひどい病気になることがあるんだ。だから、急いで薬を口移しで飲ませたんだ。……ホントだよ」


 これも真っ赤なウソだ。

 飲ませたものだって、本当は薬品などではない。

 もっとヒドイものだ。

 慣れないウソにウソを塗り重ね、しどろもどろになっていく。


「そう……」

「だ、だから、こないだのアレは、キスは事故。ただの医療行為、ノーカンだ。俺もお前もファーストキスを失ってなんかいないよ。お、OK?」

「俺も……って、ショウ君も初めてだったの?」

 ヘンに驚いている遙香。

「な、何か問題でも? お、おお俺が初めてかどうかなんて関係ない……じゃん。た、ただの医療行為なんだから。そ、それとも治療しない方がよかったの?」

(くそ~~、口移ししたとき焦ってたから感触とかちっとも覚えてない~~)

 ――実は俺、くやしかった。

「ごめんなさい!」

 遙香はいきなり立ち上がると、ローテーブルにバンッと両の手を付き頭を下げた。

「助けてくれたのか確信がなかったの! 気がついたらキミにキスされてて、でもまたすぐ気を失って……どさくさ紛れにあんな……あの、だから……ごめんなさい!」

「わ、分かったから、もうちょっと静かに謝罪して? コップ倒れるよッ」

 俺は慌ててローテーブルからグラスを取り上げると、背後のキッチンカウンターに移した。また遙香が暴れてグラスが割れでもしたら大変だ。

「そんなんどうでもいいから! 命の恩人にホントひどいこと言ってごめん!」

 半泣きでダイナミック謝罪を続ける遙香。なんでこんなに大げさなんだろう?

「もういい、わかったってば、だから落ち着いてハルカさんッ」

 でも彼女は落ち着いてなんかくれなかった。俺の胸に突然飛び込んできたのだ。

 その時、ハッキリ聞こえた。

 彼女はこう言った。

『また守ってくれてありがとう』と。

 ――また?

 俺は遙香に半ば押しつぶされながら訊いた。

「またってどういうこと? 俺がハルカさんに逢ったのは、あの夜が初めてのはずだ」

 彼女は瞳を潤ませながら、頭を左右に振った。

「ちがうよ。何度も合ってるし、助けてくれたのは二度目、だよ」

「そんなバカな……。ありえない」

「じゃ、証拠見せるから」

 そう言って遙香は身を起こし、棚の上にならんだ写真立ての中から一つを持ってきた。

「ほら。見覚えがないなんて言わせないから」

「――――――――――記憶に、ない」

「はァ? どっからどう見たってこれキミでしょ? ウソつかないで!」

 彼女が俺に見せたのは、幼い頃の「彼女」と「俺」のツーショットだった。

「う……ハルカさんと、俺だ」

 二人とも面影はしっかり残っていて、誰から見ても、見紛うことはなかった。

 たしかにこの少女は遙香、そして少年は――俺だった。

 ホクロの位置も同じだし、自分の服装や髪型にも背景になっている場所にも、ハッキリと見覚えがあった。

 それは自分が育った教団の孤児院なのだから。

 唯一見覚えがないのは、「彼女」だけだった。

「……そんな……バカな」

 写真立てを持つ手が震える。

「た、たまたま会っただけだろ? 遊びに来たとか何かで……そんなの、忘れてもおかしくもなんとも――」

 彼女の目がつり上がった。はっきり怒っているのがわかる。

「忘れるなんてあり得ない! だってこの後すぐ、キミは高い木から落ちて大けがしたんだよ! 私をかばって!」

(――かばって? 俺が?)

「……ウソだ。俺にそんな記憶はないし、木から落ちた記憶も、誰かをかばった記憶もない。本当に……ないんだ。ないんだ。ない……ない、はずなんだ」

 俺は写真立てを床に落とし、頭を抱えた。脳がミシミシといっている気がする。記憶をいくら遡っても、ほじくり返しても、遙香の記憶は全くもって見つからない。だが、彼女がウソを言っているとは思えない。

「信じて欲しい、俺は本当に君のこと、覚えてないんだ。確かにこの場所は記憶にある。だけど……」

 なら、この記憶の空白は一体何なんだ?

「ホントだよ!! 思い出してよ!! たくさん一緒に遊んだじゃない!!」

 遙香は大粒の涙を流しながら悲壮な叫びを上げた。

 何故、自分も知らないような事故を知っているのか。

 言いようのない恐怖に襲われ、いてもたってもいられなくなった俺は――、

「ご、ごめん!」

 遙香の家を飛び出した。背後から自分の名を呼ぶ声が何度もしたが、無視して一目散に教会に逃げ帰った。敵を前に退いたことなどないこの俺が。


     ◇


 遙香の家を飛び出した俺は、襲ってくる不快感と戦いながら、日暮れの道を急いだ。歩けばものの数分の距離が、無限に遠く、遠く感じた。

 本当に今日はひどいひどい一日だった。

 いろんな事がありすぎて、心がひどくかき乱されて不快になったってことだけど。

 早く教会に帰って安心したい。

 シスターベロニカの顔を見て安心したい。

 異界獣のツラを見て安心したい。

 闇に紛れて安心したい。

 何も考えずに安心したい。

 ただ言われるままに殺戮に酔っていたい。


 ――だってハンターが不安になったら、死ぬしかないじゃないか。

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