二十一世紀初頭。関東地方の、とある中規模都市。
皐月。深夜。魔物の刻。
「パパの写真と同じ……。間違いない、この化け物だわ!」
獲物を視界に捕らえた
◇◇◇
都市伝説ハンターの父親が失踪して早、半年。
家に独り取り残された女子高生、
狙いは、街でうわさの化け物だ。遙香は、クラスの中では長身な方だが、女の子が一人歩きしていい時間ではない。
化け物の存在が街の人々の口にのぼるようになったのは、つい最近のことだ。夜になると、暗がりにヘンなものがいる、と。大きさや形はまちまちで、本当にいるのかどうかも疑わしいと思われていた。ところが目撃者は日を追うごとに増えていき、とうとう遙香のクラスにも化け物を見た、という者が現れた。
それを、都市伝説ハンターの娘が聞き逃す筈はなかった。
彼女が化け物を追いかけるのには切実な理由がある。保護者不在の六カ月間、遙香は父の残した貯金で生活していた。しかし、いつ帰る当てのない親を待ち続けていられるほど、蓄えは潤沢ではなかった。母親とは死別し、親戚もおらず孤立無援だ。幸い、学費は前払いだから卒業だけはできる。しかしこのままでは、一年も保つかどうか……。
父が化け物の写真を幾らで取引していたかなんて、いまの遙香には知る由もない。しかし、それが金になることだけは知っている。
――とにかく、これはチャンスだ。
化け物の写真を撮り、父が寄稿していた雑誌『月刊都市伝説マガジン』に売れば、生活の足しに出来る。そう思った遙香は、うわさを聞いてからこちら、毎晩毎晩化け物探しをしているのだ。
二時間も歩いたろうか、とうとう獲物を視界に捕らえた遙香は、思わず声を上げた。
「パパの写真と同じ……。間違いない、この化け物だわ!」
商業地域にある雑居ビル裏手、飲食店の生ゴミが詰まったビニール袋の山の中に、それはいた。
猫と同じくらいの大きさ、しかし猫とは見まごうことのない異形の生物。
暗がりにうごめくその物体は、コウモリに似た頭に、コールタールを塗りつけたイモのような胴を持ち、ぬっとりとした体躯からは、クモみたいな細長い足を何本も生やしている。
(うわあ……。さすが本物は違うな……)
気色悪さよりも、物珍しさが先に立つ。これも、血の成せる技なのだろうか。
「いくらくらいになるんだろ……」
視界の奥でうごめく醜い塊が、今は愛おしい。
路地裏でチカチカと点滅する切れかけた街灯の下、彼女は今や一人のハンターだった。父と同じ、異形を追うハンターの武器は、たった一つのカメラのみ。
「うごかないで……」
遙香はつぶやき、カメラを構えた。
息を殺してファインダーをのぞき、ガサガサとゴミを漁る物体にフォーカスのサイトを当てる。
シャッターをくっ、と軽く沈ませ、狙いを定める。
レンズが焦点を合わせ、そして彼女はシャッターを最後まで押し込んだ。
――ピピッ、シャキッ、パシャリ、ジー。
複雑な駆動音とともに、異形の獲物は写し取られた。
それと同時に自動的にフィルムが巻き上げられ、新たな獲物を捕らえるため、次弾の装填が行われる。
小さな生物は、そんな物音など初めからなかったかのように、せっせと細い足先でビニール袋の中身を物色し、残飯を無心で口へと運んでいる。食事に忙しく、人間に構う気すらないのだろう。
表通りでは、パトカーのサイレンが聞こえる。今夜はもう三度目だ。このところ多いな、と彼女は思った。
化け物の出現と、街で発生している猟奇殺人事件が起こり始めた時期は、いずれも先週からと合致している。化け物の存在を知る者にとって、関連性を疑わない方が不自然だ。しかし、遙香にとっては、身の危険よりも生活費の方が大ごとだ。
化け物がゴミに頭を突っ込んでいるので、できればしっかり顔の写った写真が欲しかった。その方が確実に高く売れるから、と父親から何度も聞いている。
「こっち向いて……。もう一枚……おねがい」
ファインダー越しに、ラブコールを送る遙香。
願いを聞き届けたのか、化け物が半身を彼女に向けたその時、彼女の視界が
「きゃあッ」
眩しさに思わず叫び、尻餅をついた遙香。半身を起こして見た先には、青白い炎に包まれ、黒焦げになった獲物の亡骸があった。
「なんで……なんでよお! あああ~、あたしのごはんがあぁ~」
絶対高く売れると思っていたのに、これでは台無しだ。
遙香はひどく落胆した。
ふと、頭上で金属製の非常階段を駆け上がる音がした。
見上げると、最上階から何かがふわりと舞い、隣のビルへと飛び移っていった。
――人? いやでも、まさか別の化け物?
彼女は、咄嗟にその影を追った。
ジャーナリストの娘としての血か、あるいはハンターとしての勘か。
左手にレンズを持ち、カメラのボディを胸に押し当て、太いストラップを揺らしながら遙香は薄暗い裏道を走った。
追った先には、点々と闇夜の道にともる青い光。
まるで少女を招く誘蛾灯のようだ。
光に追いつくと、それは先ほど見たのと同じ、大事な獲物を焼いた青い炎だった。
(あ、あそこから?)
気配を感じて視線を飛ばすと、数十メートル先の駐車場に止まったマイクロバスの上で動く黒い物体がある。そこから、あの光が打ち出されているのだ。ファインダーをのぞき、レンズを回して謎の生物をアップにしてみると、それは人間のようだった。手には銃のような武器を持ち、パスンパスン、という軽い音を立てて青い光を打ち出している。そして光が着弾すると同時に、小動物を握りつぶした悲鳴のような、不快な音が聞こえる。これはまるで断末魔の叫びだ、と遙香は眉をひそめた。
「あっ……」
カメラの視界から、人影が消えた。
キュルル……とワイヤーが擦れる高い音のあと、ガツン、と何かが金属にぶつかる音がした。まるでウインチからフックでも打ち出したかのようだ。彼女が頭上を仰ぐと、先ほどの人物が、つるべのように別のビルの上へとするする登っていった。
「もう! なんなのよ!」遙香は毒づいた。
謎の人物を追っていくと、その先々には燃え散った青い炎と、黒焦げになったり四散した化け物の残骸が転がっている。
「あああ~~~~、もったいない、もったいない! なんで殺しちゃうのよ?」
都市の光を避けるように、暗がりを選んで落ちている死骸。それは、化け物そのものの生態ゆえなのか。
(まさかあの人、化け物を退治して回ってる?)
多少は買い叩かれるだろうが、とにかく撮影だけはしよう。少しでも金にしなくては。手早く化け物の残骸をフィルムに収めると、遙香は謎の人物を追って走った。
ビルとビルの間をひらりと渡ったかと思えば、一瞬で地上に降り化け物を倒していく。時に華麗に身を翻し、時に蝶のように舞う。遙香には、その人物がまるで、化け物を仕留めるのを楽しんでいるかのように見えた。
「あいつめ……でも、すごい」
遙香はいつしか魅入られていた。
幾度かその人物をフィルムに収めつつ、遙香は徐々に距離を詰めていった。既に金のために化け物を追うことなど忘れ、闇夜に舞い踊る軽業師を捕まえたくて、遙香は必死に走った。
ビルの谷あいを飛び回る、その人物の動きにはムダがない。まるでリハーサルでもしていたのだろうか、少し間違えば落下して死んでしまうような場所でもお構いなしに、化け物を倒しながら全力で駆け、華麗に建物の間を跳ね回っている。だが、パルクールでも夜中にやるヤツはいない。正確無比に敵を倒し闇を駆けるその姿は、現代の忍者だ。
遙香はそう思った。
ときどき引き離されても、点々と残される物証や青い光を追っていけば、黒い狩人を追うことは案外容易かった。
◇
遙香が人影の後を追って行くと、町外れにある大きな市営公園に辿り着いた。追いかけるのに夢中で、いつのまにか遠くまで来てしまったようだ。さすがに夜も更けており、公園内を歩く人はいない。草むらの青臭い匂いと冷たく湿った土の匂いが辺りに満ちている。水分を含んだ空気で滲む街灯の明かりが、歩道に敷き詰められた色とりどりのブロックを照らしている。
遙香は大きく息を吸い込むと、乱れた呼吸を整えた。
「さてと。あの人どこ行ったんだろ。中にいるはずなんだけど……」
ぐるりと園内を見回すと、その痕跡は意外と簡単に見つかった。入り口から少し先、木の生い茂る中に点々と青い炎が揺らめいている。歩道を外れ、草を踏んで小走りに奥へと進むと、草の青臭い匂いに混じって悪臭が鼻をついた。これはあの化け物の死骸の臭いに似ているが、ずいぶんと濃い臭気だ。
顔をしかめつつ、炎を追いかけていくと、途中で足跡はぱったりと消えた。炎どころか匂いまでもがうせ、遙香はあの人物を完全に見失ってしまった。
「え? ……どこ、どこ行ったの?」
気が付けば、回りは背の高い草と木々に覆われ、ただでさえ暗い公園の中では、踏みしめられた草も、化け物の死骸も見当たらない。
遙香は必死に目をこらし、闇を凝視した。
化け物が出現せずとも、若い女性が一人で踏み込めば、犯罪に巻き込まれても仕方のない状況だ。しかし、遙香はまだ己の身が危険に晒されていることに気付いていなかった。
……ガサリ。ふいに草を踏む音がした。
(あっちにいる!)
遙香は音のする方へと走った。
剥き出しのすねが下草の葉で切られても物ともせずに、ただひたすら走った。
あの不思議な人物の、化け物を始末し続ける謎の戦士の、正体が知りたかった。
ひと目でいい、近くで顔が見たかった。
その思いだけで走り続けた。
全速力で走っていくと、少し開けた場所に出た。
――え。なに、これ…………
目の前に熊のような大きな影。
しかしこの街にそんなものはいない。
太い咆哮が体を凍り付かせた。
遙香は、瞬時に悟った。抗えぬ運命を。
『私は――――死ぬの?』
次の瞬間、遙香は腹に焼けるような痛みを感じ、冷たい地面に体を横たえた。
誰かが駆け寄る気配がする。
何かを叫んでいるようだが、声は遠くに消えようとしている。
(だれ……)
そして己を抱き上げる懐かしい面影を感じながら、彼女は目を閉じた。