「今日はおばさんがいないから寂しくなって呼んだんだろ」
和也は翌日の晩も美貴の家の玄関にいた。同じマンションへの出前の帰りである。
さすがに連日呼び出されると、もうどうでもよくなってくる。そろそろまともに相手をするのが馬鹿らしくなりはじめていた。
「母親が夜勤でいないところまでは当たってるけど、淋しくて呼び付けるわけないでしょ」
「良く言うよ。一人寝が怖いからって、枕抱えて俺の部屋に来たの誰だよ」
「そ、そそそそんな昔の話持ち出さないでよ!」
「とりあえず俺の顔見て落ち着いたか? ちゃんと戸締まりして寝るんだぞ。じゃあな」
和也は片手をひらひらさせドアノブに手を掛けたとき、美貴が言った。
「昼間、前の家とか、学校とか、氷ノ山神社とか行ってきた」
「――ッ!」
美貴の思いがけない言葉に、和也はゆっくりと振り返った。
腕組みをした美貴が自分を睨みつけている。
「いろいろ聞きたいんだけど」
聞きたいと言われて、話せることなど和也には何もなかった。
手前勝手な理由で、将来を誓った彼女を捨てた己には。
和也は、美貴に深々と頭を下げた。
「……悪かった」
「それだけ? 他に言うことないの?」
彼女の気が済まないことは分かっている。しかし。
「今さら、何を言えってんだ。もう済んだ事だろ……」
「黙って別れるなんてあんまりだよ……」
美貴の声が震えている。
「終わったことだ。お前には……済まなかったと思ってる。悪かった」
許されるとは思っていない。
だが、和也はもう一度美貴に頭を下げた。
美貴は息を吸い込んだ。
「アンタのせいで、私がどれだけ苦しんだが分かってるの? 捨てられるのが怖くて、未だに誰とも付き合えないんだよ! 死ぬほど好きな人を憎まなきゃならなかった苦しみが、アンタに分かるの!?」
美貴は今まで溜め込んだ想いのたけを、和也へと一気にぶつけた。
和也の瞳孔が開く。
あきらかに動揺しているのは誰の目にも明らかだった。
「……お前の気が晴れるなら、俺を好きにしてくれ。今ここで殺してくれてもいい。廊下から飛び降りろというなら、今すぐにでも飛び降りる。それで償えるのなら」
美貴は髪が逆立つのを感じた。
今まで和也に抱いていたのとは別の怒りだった。
「なんでそうなっちゃうの? 本当は何も悪いことしてないくせに!」
「……したろ。お前を裏切った」
「だからそれは――」
「お前と押し問答をしてても始まらない。話がそれだけなら、俺は店に帰るぞ」
「待って! これ……こないだ落としてったやつ。返そうと思って電話したの」
和也は、美貴の差し出したウサギのマスコットを一瞥した。
「俺には無用の長物だ。お前にやるよ。ソイツに『私を幸せにしてくれる男を授けて下さい』って、よくお願いしろ。いいな」
「ふざけないでよ!」
「俺は真面目だ。お前は、幸せにならなきゃいけないんだ。絶対に」
「……もしかして、ほんとは私とヨリ戻したい、の?」
「……ッ、」
和也の顔が歪んだ。
図星だった。
今でも美貴のことを心底愛している。
だからこそ彼女を遠ざけたのに。
なのにどうして。
和也は無言でドアの方へと振り向いた。
◇
美貴は咄嗟に彼の腕を掴んで怒鳴った。
「思わせぶりな顔して、さんざん人をイライラさせといて無責任だよ! あの時だってちゃんと理由くらい教えてくれたってよかったのに!」
和也は腕を掴まれたまま、じっとうな垂れている。
無言の背中が美貴を拒絶していた。
「じゃないと、あたし先に進めないよ!」
美貴は思わず、彼の汗ばんだ背中に
和也は体を強ばらせ、肩で息をしている。
――懐かしい匂い。
――私を裏切った背中。でも、暖かい……。
未だ彼を想う気持ちが、美貴を苦しめていた。
和也は美貴を振り払うように後を向くと、目深にかぶった制帽の鍔から恨めしげに彼女を睨んだ。
「美貴……」
呻くように彼女の名前を呼ぶ。
いきなり乱暴に彼女の両腕を掴んで、壁にぎゅっと押しつけた。
「痛い、離して」
「なんで……戻って来たんだよ」
和也は体を密着させ、美貴の唇を乱暴に貪る。制服のシャツ越しに、彼の激しい鼓動が伝染して、美貴の心臓まで暴れだした。
「いた……いんッ……ぐ、やめ……んぁ」
美貴のささやかな抵抗を無視し、和也は煙草の臭いを苦い唾液に絡ませて、乱暴に彼女の中に注ぎ込む。口の中で暴れる和也の舌。
(やだ……こんなの……ちがう……)
押し込めていた和也の気持ちを、うかつにも爆発させてしまったのは自分。
――だけど。
ヒゲの伸び始めた肌を強く擦りつけられて、美貴の唇や口の周りがヒリヒリと痛んだ。ぎゅっと抱き締められて、胸だけが苦しくなる。
――それは、望んだものとは違う。
時折、うわごとのように、和也が自分の名前を呼ぶ。
こんな形で聞きたくなかった。なのに、どこかで嬉しいと思っている。
憎かったのに。
どこで間違ってしまったんだろう。
あの時、和也をもっと追求すればよかった。
だけど子供だった自分には、そこまで考えることは出来なかった。
ただ、和也を憎んだだけ――
(ちがう……)
美貴の目に涙が溢れ出した。
彼女の頬を濡らすものに気付くと、和也は我に返った。
「ごめん……、ごめんよ。痛かったよな、ごめんよ美貴。ホントにごめん。俺に、こ、こんなことする資格は……」
和也は掠れた声で呟くと、美貴を戒めから解いた。彼は歯を食いしばり、苦しそうに、幾度も頭を小さく振っている。
「……勝手だよ」
美貴の声も震えていた。
「だな。……俺、消えるわ」
ドアを開け、ゆらりと和也は音もなく去っていった。
まるで亡者のように――。
彼の言葉が胸に突き刺さって、美貴はしばらく動けないでいた。追わなくちゃ。そう思いながら。
◇
和也はふらりと美貴の家を出た。そして、バイクでどこをどう走ったのか、気付けば氷ノ山神社の前に来ていた。
「やっちまった……」
ヘルメットをそこいらに脱ぎ捨て、彼は石段に座り込んだ。
――美貴が悪いんだ。必死に抑えてたのに、あいつが、あいつが、あいつがッ…………。
震える手で煙草に火を点ける。
だが上手く点かず、何度もライターの着火ボタンを押す。
『落ち着け、和也』
こないだのガキの声が、聞こえた気がした。
――俺は何を責任転嫁してる? 悪いのは全部俺じゃないか。これは予見出来た事なんだ。もっと早く誰かに代わっていれば……。
和也は、後悔と一緒に煙を吐き出した。
三本目の煙草に火を点けたとき、涼しげな虫の声をかき消すように携帯が鳴った。
「はい、杉本です――」
――戻ったら店長に怒鳴られるな。でもあの人にだけは、不義理は出来ねぇ……。
和也は重い腰を上げると、草むらに転がり落ちた、傷だらけのヘルメットを拾い上げた。
◇◇◇
和也はその晩、夢を見た。また、あの夢だ。
しかし、それは今まで見たことのない場面。
消えた記憶の先の場面だった。
子供の頃、美貴と二人であの神社に行って、プロポーズして、それから――
「僕が結婚式を挙げてあげるよ」
ふいに後ろから声がした。
二人同時に振り返ると、すごく若い神主さんが本殿の入口に立っていた。
高校生くらいだろうか。銀髪で、白い着物に浅黄色の袴を履いていて、アイスバーを囓りながらニコニコして自分達を眺めている。
なんとなく、二人でその男に近づいていくと、美貴が不機嫌そうに言った。
「式だけ挙げたって、仕方ないと思いますけど」
「さっきキミが彼に言ってたのは、法律的な結婚だよね。でも、神サマの前で誓う結婚もあるでしょ? だから、そっちをしない?」
「そ、それしたら十歳でも結婚出来ますか?」
和也は銀髪の神主さんに尋ねた。
「出来るよ。僕が証人になってあげる」
「神主さんが証人になっても、仕方ないと思いますけど」
いちいち美貴が神主さんに食ってかかる。なんなんだこの女、と和也は思った。
「お前、俺と結婚したくないから、そんなことばっか言ってるんだろ」
「ち、ちがうよ! この人の言ってることがおかしいから……、あ」
うっかり口を滑らせた美貴が、顔を真っ赤にしてうつむいた。結婚するのはいいんだな、と思った。
「僕が神サマなら、問題ないでしょ?」
「「えッ???」」二人同時に声を挙げた。
「証拠見せてあげる。こっち来て」
神主は訝しがる二人を手招きすると、本殿正面の日陰に立たせた。そして自分はフサフサの大幣を手に、玉砂利の敷き詰められた境内に降りていき、その真ん中へと素足で歩いていった。
裸足で熱くはないのだろうか、と和也は少し心配になったが、そんな気持ちはすぐに消え失せてしまった。
「ちゃんと見ててよー」
「「はーい」」
「じゃーいくよー」
なんとも気の抜けたような声を上げると、銀髪の神主は、大幣を掲げて舞い踊り始めた。すると間もなく、あんなに暑かったのに急に涼しくなり、周囲の空気が軋みはじめた。まるで真冬の雪が降った翌朝のように。
「あ……虹」
美貴がつぶやく。
だがそれは、見慣れた弓なりの虹ではなく、うっすらと沸き上がった冷たい霧のようなものに映し出されたアークのような朧げな虹色の光だった。
「本番はこれから、だよ」
神主が言う。
彼の体も、青白い光のもやに包まれて、和也にはそれが涼しそうに見えた。
自前のクーラーがあれば、どこでも涼しいのにな、と思った。
周囲の霧の中にキラキラ輝く光の粒のようなものが現れはじめ、それは次第に増え、光同士が集まり、育っていった。 粒たちは、サラサラと硬質な音を立てながら、時折ピシっと何かにヒビが入ったときのような音も立てていた。
「え? 光……雪?」
「どんどんくっついて……ちっさい氷になってるぞ!」
驚いている自分たちを横目に、神主がニヤリと笑うと、小さな氷たちは土星の環のように彼の周囲を幾重にも囲んで、ぐるぐると回り出した。
氷たちはぐるぐる回りながら、互いにくっついて徐々に大きな粒になっていった。
「そうれ!」
神主が声をあげると、氷は幾本かの太い柱となり、彼を取り囲むように地面に突き刺さった。それはさながら小さなストーンヘンジのようだった。
息を殺して、目の前の不思議な光景を見つめていた和也と美貴は、氷たちの舞が終わっても、氷の柱と神主から目を離せずにいた。
境内に満ちていた氷たちの声は、一瞬でピタリと止まり、今まで聞こえなかったセミの声が、再び境内に流れ込んできた。まるで、今まで時が止まっていて、それがまた進み始めたのを知らせるように。
「どうかな? 信じてくれた? 僕が神様だって」
神主、もとい、氷ノ山神社の神様は、踊り疲れたのか肩で息をしながら、和也と美貴にお伺いを立てた。
二人は声も出せず、ただ、こくこくと頷いていた。
「よかった。それじゃあ、結婚式の準備をするから社務所で涼んでて」
神様は、すっかり彼を信用した子供二人を、エアコンの効いた社務所に招き入れ、ジュースとお菓子でもてなした。
そして、バタバタと慌ただしく結婚式の準備を始めた。社務所には神様のほかに誰もおらず、一人で準備をするのが少し大変そうだな、と和也は思った。
数十分後、正装をした神様が、社務所の二人を呼びに来た。
「おまたせ。準備出来たから本殿に来て」
神様は、二人を本殿に上げると、本格的な神前の結婚式を挙げてくれた。もちろん、雅楽のBGM付きで。
(そうだ……結婚式をやったんだ。なんで思い出せなかったんだろう?)
今にして思えば、あの奇跡はもしかしたら子供騙しのトリックだったのかもしれない。でも、自分を不憫に思って、わざわざ結婚式をやってくれた、あの時の神主さんに感謝している。またあの人に会えたなら礼を言いたい、と。
――それと同時に、申し訳なく思っている。何故ならもう、俺たちは――