――わたしは夢を見ていた。子供の頃の夢。
「美貴! お、俺と結婚してくれ!」
神社の大きな銀杏の木陰で、幼馴染みの和也が言った。
境内に敷き詰められた白い玉砂利が、夏の日差しを照り返して美貴の目に刺さる。
「……あたしたち、まだ十歳なんだけど」
「十歳だと、しちゃいけないのか?」
きょとん、と小首を傾げてこちらを見る和也。
「知らないの? 十八歳にならないと、結婚出来ないんだよ」
「え、」
幼馴染みは、肩から虫カゴをカランと落として、しばらく固まった。
――これって、プロポーズじゃん。
しかも、ヨリによって近所の神社でって、どういう神経? 和也、前髪から汗をダラダラ垂らしてるし、蝉がやたらうるさいし、ムードもへったくれもないじゃん。なんであいつはこんな所で……
「……ってことは、俺ら同い年だから、十八までダメってことジャンか」
彼はしょんぼりとうな垂れ、ヒーローの描かれたビーチサンダルを見た。コイツの無知と無神経さに頭にきた美貴は、ちょっとイジワルしてやりたくなった。
「何でアンタと結婚しなきゃいけないの?」
「えっ? 俺とじゃダメなのか?」
和也は泣きそうな顔で美貴をじっと睨んだ。いつもそう。美貴のことになると、すぐ取り乱す。美貴は、コイツがちょっとかわいそうに思えてきた。
「……ダメ、じゃない……けど」
「じゃ、いいんだよな」
「……いいよ。でも順番間違ってない?」
「なにが?」
「フツーは先に――――」
◇
十年前の甘酸っぱい夢は、自分を呼ぶ母親の声にかき消された。
もう何年も見ることもなく、記憶から消えかけていた子供時代の思い出。
美貴がうっすらと目を開けると、部屋の様子に違和感を覚えた。
「……暑い」
ぼそりと呟き、じっとりと浮かんだ額の汗を手の甲で拭う。美貴は、違和感の理由をぼんやりした頭で思い出してみる……。
――そうか、茅ヶ崎に戻ってきたんだ。だから、アイツの夢なんか……。
引っ越したばかりで、自分の部屋だけエアコンの手配が間に合わなかった。
そのため、美貴は起きたら汗びっしょりになってた。
タンクトップだけ着替えた美貴が、キンキンに冷えたリビングに行くと、ムダに元気な母親が話しかけてきた。
「お昼、出前取ったから。もうじき来ると思うわよ」
「え~、注文しちゃったの? 選びたかったのに……」
「いつまでも寝てる方が悪いのよ」
「はいはい……」
美貴がエアコンの風を直に浴びながらテレビの画面を投げやりに見ると、三分間のお料理番組が流れていた。どうやら自分は結構寝ていたらしい。
「お母さん、クーラーまだぁ?」
「立て込んでるから、あさってになるって」
母親の返事は、美貴の寝起きの気分を一層気怠くさせた。
――七月になって工事を頼めば、すぐに来ないなんて分かりそうなものなのに……。
美貴が母親の段取りの悪さを恨めしく思っていると、玄関のチャイムが鳴った。多分、さっき彼女の言っていた出前の人だろう。
◇◇◇
――夢を見ていた。俺が子供の頃の夢だ。以前は毎週のように見ていたが、今となってはせいぜい月一ぐらいに見る夢。正直、もう見たくもない夢――。
「だいたい、何であたしがアンタと結婚しなきゃいけないの?」
美貴は冷ややかに言った。
「えっ? 俺とじゃダメなのか? 俺、お前と結婚できないと困るよ……」
和也のシンプルかつ安直な人生設計は、美貴の全否定でいきなり崩壊した。
自分は、絶対に彼女と両想いだと思ってた。
だってバレンタインにはいつも美貴からチョコをもらってたし、互いの誕生日だっていつも一緒に祝ってたし、しょっちゅう一緒に風呂入ったり、一緒にメシ食ったり、寝たりしていた。
自分にとって、美貴以外の女と結婚するなんて天地がひっくり返ったってあり得ない。絶対あり得ない。生まれてこの方、いつも側にコイツがいて、それが一生続くのが当たり前で――。
和也はそう、思っていた。
「僕が×××してあげるよ」
ふいに後からだれかの声がした。二人同時に振り返ると――
◇
「おい、起きろ! 仕事だぞ。和也」
和也は、同僚に夢から現実へと引き戻された。
最近寝不足だった和也は、バイトの休憩時間に事務所のソファで昼寝をしていた。
和也の仕事はピザのデリバリーだ。
ピザキャット茅ヶ崎店のピザ配達員として、かれこれ三年ほど勤めている。今じゃ立派な中堅従業員だ。
観光地のため、バイトを募集しても給料のいい他の店に取られてしまい、この店は万年人手不足だった。
なぜ辞めないのか、と他のバイトに聞かれたこともあったが、和也は店長に大恩があるため、主戦力として、ずっとこの店を支えている。
夏休みに入り、のべつまくなし注文が入るので、和也は休むヒマもない。
食事を作りたくない主婦からの注文は激増し、浮かれた若い連中のパーティー用にと大量注文が入る。
朝は仕込みの手伝い、昼から夜遅くまで働いているため、足りない睡眠時間をこうして昼寝で補う始末だ。
「ご新規さんだ、愛想振りまいてこいよ!」
先輩が無茶振りをしながら、和也にピザを納めた箱を手渡した。
「そういうの俺、苦手なの知ってるくせに……」
「知ってる。でも練習だよ、和也」
先輩は普段女の子にやっているように、野郎の自分へとウインクを投げる。
正直キモい、と和也は思った。
それでも顔はいい方だから、こんなウインクでも喜ぶ女は後を絶たないらしい。
「適材適所ってんなら、湘南きってのナンパ師のあんたが行ってくりゃいいだろうに」
「僕より上手にピザ焼く自信があるならどうぞ。でもね、バイク乗るのは和也の方が上手でしょ? だから適材適所だよ」
「チッ、わかりましたよ。行ってきます」
「気をつけてね」
先輩に送り出された和也は、注文伝票の住所を確認すると、店頭に並んだデリバリーバイクのトランクに商品を詰め込んだ。
――ご新規のお客さんだ、待たせるわけにはいかない。
海沿いの街道にある『ピザキャット茅ヶ崎店』を出た彼は、近所の新築高級マンションへと急いだ。
あくまでも安全運転で――。