薫は思った。
あの時はダメだったけど、この年にもなれば現実も全部受け入れて、納得することだって出来る。
今の自分なら、たとえフラッシュバックを何度喰らったってきっと立ち直れる。
こうやって薬ももらってるし、きっと李斗よりもメンタル強いって思ってる。私なら大丈夫、お医者さんだって治るって言ってる。
私は過去の怒りに負けたりしない。だって、どんな記憶だろうと、キミとの時間を私は取り戻せたのだから――と。
☆
今度こそ。
薫は意を決して、李斗の家――氷ノ山神社に向かった。
例の場所は、息を止めて一気に走り抜けた。
――なんだ、やれば出来るじゃない。
薫は妙な達成感を覚えた。
息を切らしながら神社に着くと、薫は本殿正面に張り紙を見つけた。
『当神社は、××神社にて合祀されることとなりました――』
(合祀? ここ、やめちゃうってこと?)
社務所兼自宅のドアを叩いても返事はない。
やっぱり、ここにはいないのか……。
ふと、自分宛の張り紙に気付いた。達筆な字で書かれた内容は。
『薫へ ごめんなさい。さようなら。 李斗』
とだけ。別れの言葉としては、ひどくシンプルな文面だった。
「バカ……。逃げるなんてやっぱ卑怯だよ……」
薫は涙ぐみながら、その張り紙を剥がしてポケットに突っ込んだ。
境内を見渡すと、一本の桜の木の根元に、真新しい盛り土がある。近寄ってみると、それは鏡華のお墓だった。
――再び葬られたということは……。もう、出てこないってことなのかな。
そういえば、あの日から鏡華は現れない。
李斗がいないからかもしれないけど……。
薫は急いで合祀先の神社に向かい、李斗の消息を尋ねた。
そこは比較的立派な、結婚式場も併設している神社だった。
氷ノ山神社の件で、と掃除中の職員に問い合わせると、すぐ社務所の中に通してくれた。
数人の巫女さんが事務作業をしている事務室を通りすぎ、その奥にある応接室に案内され、お茶を勧められた。
殊の外丁重に扱われ、少々気後れしていると、程なくして宮司が現れた。三十代前半ぐらいだろうか、神社の格式と比較すると若いと言われそうな、さっぱりめで品の良さそうな男性だ。
「雪ノ宮様でしたら、地元に戻られたと伺っておりますが――」
雪宮というのは、偽名だった? こっちが正式名称なのか……。
「地元? 場所、教えてもらえませんか?」
「もしかして、薫さん、ですか?」
「そうです! 何か聞いてるんですか! 教えて下さい!」
ソファから立ち上がり、応接テーブルに両手を突いて身を乗り出す薫。
宮司は苦笑すると、落ち着いてと薫をたしなめ、ソファに腰掛けるよう促した。
「……それでお嬢さん、貴女、雪ノ宮様とどういうご関係なのですか?」
薫は李斗から贈られた指輪を見せつけ、こう言ってのけた。
「婚約者です!」
宮司はしばらく薫と婚約指輪を交互に見ると、ちょっと困ったような笑顔で李斗の居場所を語った。
どうやら李斗は、いま鳥取県にいるらしい。おそらく実家だろう。宮司曰く、そこは有名な観光名所なので、行く方法はネットですぐ分かるとのことだった。
「きっと貴女が探しに来るだろうから、あの方には黙っていてくれって言われていたのですが……。申し訳ないけれど、やっぱり私には出来ない。
その指輪の意匠、本当に大切な方にしか用いないものです。どうか、迎えにいってあげて下さい。……とても悲しそうでしたから」
「はい! 首に縄付けてでも連れて帰ります!」
神社を後にした薫は、早速飛行機のチケットを手配すると、翌日の朝、羽田空港を発った。
さすがの母親も、此の期に及んで何かを言うこともジャマをすることもなく、黙って彼女を送り出した。
今回の騒動は鏡華も含めて全員が被害者であり、今の薫を遮ることは、これからの数百数千年に亘る、一柱の神の悲しみを連ねることに他ならないと悟ったからだ。
☆
李斗の居場所は、海岸沿いのとある道の駅の真ん前にある小さな神社だった。
「ここ……?」
道の駅の前でタクシーを降りた薫は周囲を見回した。
確かに、宮司から聞いた場所に間違いはなかった。
あまりに空港から近かったため、拍子抜けしてしまった。機内で手にしたガイドブックによれば、あの有名な砂丘は空港のすぐ横だという。
その道の駅の商業施設裏の広い駐車場のさらに奥、白い鳥居が立っている。そこをくぐるとまもなく階段が始まり、低めの山の上へと続いている。
半信半疑なまま階段を上っていくと、参拝客らしきカップルや家族連れとすれ違う。氷ノ山神社とは違い、人の出入りが多い。さすが、観光名所だけはある。
(こんな風光明媚な場所に実家があるなんて……。じゃあどうして李斗は茅ヶ崎なんかに来たんだろう?)
そんなことを考えながら階段を登っているうちに、一つの回答に思い至った。
――そうか。ここも、向こうも、海がすぐ近くにあるから、かな。
薫が階段を上りきると、ゆるやかな登りになっている参道へとつながり、道の左右、一般的には石灯籠が並ぶところには、石柱に乗ったかわいらしい動物のオブジェが点々と並んでいた。
薫は李斗を探しに来たことも忘れ、すっかり観光気分でオブジェをスマホで撮影していたが、手水舎の前でようやく自分の目的を思い出した。
(そういえば李斗のやつ、どこだろ?)
ここまで来れば、もう見つけたも同然。
薫は随分と気分が楽になっていた。
山を切り開いたような狭い参道を少々進むと、
「これが……」
唐突に、神社が出現した。
掃き清められた境内の入り口には、さきほど並んでいた小動物ではなく、狛犬が据えられ、その背後には時代を感じさせる小ぶりな本殿があった。
とりあえず参拝しておこうと、薫が先客の後ろに並ぼうと思ったとき、誰かが社務所から出て来た。
――あ!! いた!!
(なんだピンピンしてんじゃん。心配して損しちゃった)
「うっさいなー、いま行くとこだってばー」
神職の少年が竹ボウキを手にぶつくさ言っている。李斗だ。
薫は、さすがに他の参拝者がいる前で、彼に飛びかかるのは気が引けた。
空港に着くまでは、
『あのクソッタレめ、強制連行して、めっちゃお仕置きしなくちゃ!』
なんて思っていたのに、遠い街までやって来て、湘南とは違う潮の香りを感じながら参道の石段を登っているうちに、不思議と気分が落ち着いていた。
「だーかーらー、いま掃除しに行くとこだってばって言ってんの、うっさいな」
社務所に向かってイヤイヤ返事をし、ぶつぶつ言いながら、李斗は竹ボウキを持って敷地の中を歩いていく。
薫は足元の小さな石粒をいくつか拾うと、こっそりと彼の後についていった。
「ようこそお参りくださいましたー」
彼は雑な掃除をしつつ、参拝者になげやりな挨拶をしている。
(ったく、ちゃんと仕事しなさいよ。
これだから氏子いないんだっての、あんたんとこは。
日頃私に文句ばっか言ってるくせに、地元だと、むっちゃダルダルというかやる気ゼロっていうか、だらしないっていうか。
これで将来のダンナ様だって? うーん……なんだかなぁ。
にしても、未だに私に気付いていない。チョー油断しまくってる。よし……)
薫はそっと、神職の少年の背後に近づいた。
「いてっ!」
よっしゃ、当たった! 薫は思わずガッツポーズを取る。
投げた小石が李斗に命中した。
「……ってえな。また兄貴だな!」
少年は怒鳴りながら、くるっと振り返ると、薫と目が合った。
「あ………………」
「あ、じゃないでしょ。婚約者ほったらかして何してんの?」
「う……」
さらにもう一投、小石は彼の頭に命中した。
「てッ」
「……避けなよ」
「痛いな」
額をさすりながら、彼は薫に背を向けて参道入り口へと歩き出した。
逃げる彼の頭に、もうひとつぶつけてやる。
小石は頭の上で跳ね、再び境内のどこかに転がっていった。
「痛いし」
まだ歩いている。
「ねえ、ちょっと」
「……帰ってよ」
「ケガ、大丈夫なの?」
「池にも浸かったし。もう治ってるし」
「ねえ帰ろ? もうなんも心配しなくていいんだから」
「……ここ僕んちなんだけど」
背を向けたまま、彼は立ち止まった。声が震えている。
「実家じゃなくて、茅ヶ崎には、あんたんちがあるでしょ?」
「もうないし」
「まだ合祀してないよ」
「え?」
少年――李斗が振り返った。頬が涙で濡れている。
「ベソかいてたから、こっち向けなかったんでしょ」
「うっさいな」
李斗は着物の袖で鼻をごしごしとこすると、竹ぼうきを放り出し、境内を出て参道へと黙って歩き出した。
(仕方ないやつだなあ……)
薫は彼の後についていった。
ゆるやかに下る参道を歩き、石段を降りて鳥居をくぐると、道の駅の駐車場に出た。さっき来た時よりも、若干駐車している車が増えている。風が強い。
李斗は黙ったまま駐車場の中を歩いていく。そのままついていくと、彼は道の駅の前を通る山陰道を渡り、海岸の砂浜へと入っていった。
……一体どこまで行く気なんだろう。
薫がそう思っていると、波打ち際で李斗は歩みを止めた。
彼は海を見ながら口を開いた。
「どうして来たのさ」
「どうして消えたの」と薫。
李斗は再び黙ってしまった。
数分の後、薫が先に口を開いた。
「全部ノーカンでいいよ。だから、帰ろ?」
薫は李斗に向かって両手を広げた。戻っておいで、と。
「全部ノーカンって……。思い出したんでしょ? 多分お母さんに聞いて、事故のこととか、みんなわかってるんでしょ? だったらそんなの無理だよ。僕は……君にあんなひどい仕打ちをしたんだよ。僕には君と一緒にいる資格なんかない」
振り返った李斗は、頭を左右に小さく振って、大粒の涙をぽろぽろと零している。
「資格? わけわかんないこと言って……。どういうことかちゃんと説明してよ。鳥取くんだりまで来た私には、全てを聞く権利があるはずよ」
李斗はしばし無言だったが、ちいさく頷いた。
「あれは事故であって事故じゃない。君のお父さんを殺したのは……鏡華だったんだ」
「うそ……」
殺された、と聞いても薫は正直ピンと来なかった。
だけどあの幽霊なら、やってもおかしくないとは思えた。
だって自分も殺されかけたのだから。
「つまり……僕のせいだ。僕なんかといたから狙われた。僕は、薫と一緒になんかいられないんだよ……」
「ち、ちがうよ、そんなのおかしい。李斗は悪くなんかない! 李斗は用事で出かけてただけじゃない! お父さんを死なせたのは私だよ! 私がお父さんを連れていったから!」
ううん、と彼は首を振った。
「薫は悪くない。悪いのは、僕と鏡華なんだ」
「そんな……」
「でも安心して。鏡華は、僕がちゃんと殺しておいたから」
「ころ……した?」
――まさか、そんな。
「いくら鏡華が僕の想い人だったとしても、君を傷つけ、君のお父さんを殺した罪を、許すわけにはいかない。これは身内の不始末とも言えることだから」
「……みうちの、ふし……まつ……」
「彼女は、僕が魂ごと消し去ったから、もう化けて出ることも、よみがえることも、生まれ変わることもない。安心して。もう、君に害をなすことはないから……」
薫はふと、李斗がやっている怖いアルバイトについて思い出した。
工事現場などの除霊をしているとのことだったが、祓いきれないものは、神の力をもって消滅させるのだと。
それを、愛する者に向けて行ったのか。
――なんてことを。
語るうちに、彼の顔がどんどんゆがんでいった。
神の口から淡々と語られるその言葉とは裏腹に、魂を消し去るという行為の
とうとう李斗は、嗚咽を漏らしはじめた。
「だけどぉ……僕は……僕は彼女を二度も殺した……何一つ報いてやることも出来なかったのにぃぃ……ぅうう……うああ……あああああ……」
李斗は膝から崩れ落ちた。
砂を掴み、肩を震わせながら、ぽろぽろと涙をこぼした。
李斗は、自分に二度恋をし、鏡華を二度殺した。
不公平といえばあまりにも不公平な、自分と鏡華。
自分なら、果たして呪わずにいられるのか……。
「ごめんよ薫ちゃん……。僕は……僕はね、君に本当のことを言う勇気がなくて、ここに逃げてきたんだ。自分が許せないなんて、嘘だ。君に嫌われるのが怖かっただけなんだ……ごめんよ……僕は弱いウサギだから……ごめんよお……」
李斗は号泣した。
「わかってる。……だから私がそのぶん強いんでしょ」
「かおるぢゃああああんっ!!」
「はいはい」
薫はその場で膝をつき、泣きわめく李斗を強く抱きしめた。
自分さえ、あの神社に現れなければ、李斗をこんなに苦しめることはなかったのに。鏡華が消滅することもなかったのに。
たとえあと数十年待ちぼうけさせたとしても、永遠にも等しい寿命の李斗にとって、そう長い時間でもないはずだった。
だけど。
薫は李斗ほど自分を追い込むことは出来なかった。
それが強さ故なのか、エゴなのか、自分にはわからない。
全てを思い出したことが無意味だとは思えない。思いたくない。
少なくとも、自分と李斗は想い合っているはずじゃないか。
父も鏡華もとうの昔に死んでいる。いまさら元に戻すことも出来ない。
だけど。
自分も李斗も、いま、ここにいる。
ならば――。
「ごめんね、李斗。遅くなって。さあ、一緒に茅ヶ崎に帰ろう」
「うん……薫ちゃん……」
李斗は懐かしい薫の胸に顔をうずめた。
落ち着きを取り戻した李斗は、薫を伴い、道の駅のレストランでくつろいでいた。
さんざん泣いたらおなかすいちゃった、と現金なものである。
顔なじみの店員さんに彼女さん? とからかわれた李斗は、フィアンセです、と答えた。それが嬉しくて、薫はテーブルの下で李斗のすねを軽くつま先で小突いた。
「うう〜ん……。あれだけ言うなっていったのに……。山中さんってば口軽いんだから」
山中というのは、先日薫と面談した某神社の宮司である。
「これ見せたら、教えてくれた」
そう言って、薫は左手の甲を見せた。そこには、先日李斗が贈った婚約指輪が。
「……そっか。うーん、失敗したなぁ……」
「なにがよ。でも……宮司さんもすごい心配してたよ?」
李斗はうーん、と再度うなると、名物のウサギ型の餅にかぶりついた。
薫は思わず、共食い? とつぶやく。李斗は餅を咥えたまま上目遣いに彼女をじろりと睨んだ。
ミニウサギを平らげた李斗は、お茶を飲んでひと息つくと、ようやく話しだした。
「……ねぇ、ホントに許してくれるの~? 薫ちゃん」
「許すもなにも、李斗はなんも悪いこと、してないじゃん」
「……でも」
しょんぼりと頭を垂れる李斗。
薫は、彼の白い髪をがしゃがしゃと雑に撫でてやった。
「私がしてないっつってんだから、してないの! ぐだぐだ細かいことはいいの! 好きか、嫌いか、一緒にいたいか、いたくないか、それだけ。違うの?」
顔を上げたものの、薫を直視出来ず、李斗はたっぷりの涙に浸かった紅い瞳を、うろうろと泳がせている。こんなに人がいる場所で泣きだしたら、また薫に叱られる。そう思うと彼は、泣きそうになるのを必死にこらえ、唇を一文字に引き絞った。
「ったくもう……」
薫はハンカチで李斗の涙をぬぐってやると、
「……好き。です。僕といっしょにいてください」
「いいよ。好きだから、いろいろしちゃったんでしょ? ならもう、いいじゃん」
「そ……だね。うん。ありがと……」
「ねえ、薫はすぐ帰るの? せっかく来たんだから観光でもしてきなよ」
レストランを出ると、李斗が尋ねた。
「とかいって、やっぱ帰りたくないとか言い出すんじゃないの?」
「失敬な。ちゃんと帰るってば。だいたい実家にいるとさっきみたく雑用ばっか押しつけられるから、そろそろ空港の方に部屋でも借りようかと思ってたとこだったんだよ。例のバイトは全国であるし、すぐ飛行機に乗れた方が便利でしょ」
「ああー……なるほど。あのイヤなバイト……」
「イヤとは何だよ。儲かるんだから。除霊がイヤなら、ホルムズ海峡で国連PKOの機雷除去のバイトもあるんだけど、そっちなら良かったの?」
「海峡? 機雷? 国連? PKO? え? え?」
「んもー。後で説明するよ」
「じゃ、荷物まとめて。今なら夕方の飛行機に乗れるから」
「ガッテン承知之助だよ、薫ちゃん――」
「ええ? ちょっとなに、きゃああッ」
李斗はいきなり薫を抱き上げた。
「僕の大事なものは、これだけ」
「急にやんないでよ、怖いでしょ」
「あはは。僕が薫ちゃんを落とすわけないじゃない~」
李斗は薫を抱いたまま、嬉しそうにぐるぐると回った。
「バカなウサギさん……」
私は李斗の首に腕を回し、僅かに触れるくらいのキスをした。
「はふっ」
「怪我……、ほんとに大丈夫なの?」
「実家だからね。完治してる。……心配かけてごめん。来てくれて、嬉しかった……」
「ホントだよ」
「ね、薫ちゃん……。式、挙げていかない? せっかくだし」
「せっかくだし? んー……いいよ。そのかわり、もうどっか行っちゃダメだよ」
薫は、首に回した腕にぎゅっと力を込めた。逃がさないように。
「どうしよ、僕、幸せすぎて死んじゃう♥」
李斗は失念していた。
実家の祭神、つまり彼の親こそ、我が国最古の恋愛成就の神であることを。
(了)