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【21】六花の断罪

「待ってたわよ」

 李斗が血まみれでマンションを出ると、エントランス前に鏡華が立っていた。

 先日のセーラー服ではなく、何故か巫女の姿をしている。

(どういうつもりなのだろう?)

 李斗が和服姿の彼女を見るのは、ゆうに五世紀ぶりだった。

「さあ、私のところに戻ってらっしゃい、李斗」

 どこか寒々しい笑顔で、手を差し伸べる鏡華。

「ああ……」

 それに力なく応える。

 失った血も多く、傷口を凍らせて止血したとはいえ、未だに頭は朦朧としている。

 失ったのは血液だけではないが――。

 死に損なった李斗にとって、もう何もかもがどうでもよかった。

「薫とはもうおしまいだ。だから彼女への嫌がらせもやめろ」

「わかったわ」

「……これで、満足なのだろう? 鏡華」


 鏡華は本当に満足そうに笑った。

 李斗はそれを見て、苦虫を噛み潰す。

 ああ、やっぱり自分は、この女に許されていなかったのだと。

 彼女がこの時代に現れた頃、李斗にもまだ多少の情はあった。

 だが、そんなものはとうに失せている。

 彼女への憎しみはなかった。

 ただ、幾重にも積み上げられた己の後悔だけが、全身を締め上げる。


 今でも鮮明に覚えている。

 無残に引き裂かれた鏡華の屍、己が惨殺した村人の死骸の山。

 手厚く葬った鏡華以外は、鴉や野犬に食われるまま捨て置いた。

 骨に張り付いた肉が朽ちるまで、近隣から人が近寄ることも、李斗が境内から出ることもなかった。


「今度は僕のそばにいてくれるのかい? 鏡華」

 物欲しそうな顔の彼女に、思ってもいないことを尋ねる。

「そうね」

「そうか」

「さ、李斗。私達のおうちに帰りましょう」


 ――わかってるさ。だからこそ、その「なり」なのだろう?


「うん、帰ろう、鏡華」


 自分は、何と話しているのだろう?

 最早これは妖怪だ。李斗は思った。

 だが、今の自分には似合いだとも思った。


 電車に乗るのに、血まみれのままでは通報されてしまう。

 李斗は路肩で着物を捨て、制服に着替えた。

 実際はどうでもよかったのだが、とにかく自宅に帰らないと、とぐるぐる目眩のする頭で考えていた。

 歩くのもつらいのだから、わざわざ電車で帰ることもなかったが、タクシーを拾おうなどと思いつくほど正気でもなかった。ただ、普段どおり、電車に乗ろう、と機械的に行動していたに過ぎない。

 駅への途中、虚ろな意識の中で救急車のサイレンを聞いたような気がする。

 あれはきっと自分が呼んだものだろう。どうか、薫を助けて。


 ホームで電車を待つ間、ベンチに腰掛けて休んでいると、李斗の気分は格段によくなってきた。自販機で買ったスポーツドリンクを飲んで、少しは血が戻ったろうか。どのみち内容物は点滴と似たようなものなのだし。神じゃなかったら死んでいる。

 線路の向こうに電車が見えた。到着を知らせる放送がホームに流れる。

 李斗は気怠そうにベンチから体を起こした。

「ねえ、このあたりもすっかり変わってしまったわね」

 鏡華は語りかける。

「そうだね。人間もずいぶん増えた。誰一人いなかったのにさ」

「私、このあいだ電車というのに乗ってみたのよ。あの緑色のやつ……」

 まもなくホームにさしかかろうとしている電車に、鏡華は視線を向けた。

「どうだった?」

 尋ねる必要もなかった。だが、彼女が問われたそうな顔をしていたから。

「景色が楽しめたわ」

「そう。それはよかった」

 機械的に答えた。

 どんどん感情が希薄になっていく李斗とは裏腹に、鏡華はとても機嫌が良さそうだった。

「こんなに楽しいものがたくさんあるのなら、もっと早く出てくればよかったわ」

「……そうだね。本当に、そうだよね」

 本当にそうなら、自分はここまで苦しまずに済んだ。薫も苦しめずに済んだのに。


 揺れる電車の中で、李斗は車窓から見慣れた景色を眺めていた。

 もう二度と薫と見ることはない。

 でも。

 あのまま出会えなければ、最初から見ることはなかった景色だ。

 もう――。

 初夏の強い日差しを照り返す、湘南の海を見るのが苦痛だった。

 深い深い、この胸の傷よりも。


 彼はふと、傍らの鏡華に尋ねてみた。

「ねえ、どうして今まで僕の前に現れてくれなかったんだい? 僕はさ、君が一緒に暮らしてくれるなら、幽霊でも妖怪でもなんでもよかったんだよ」

 それは本心だった。

「だってあなた、出てきてくれとか言わなかったじゃない」

「……そうだっけ?」

 さすがに記憶はない。

「あなたはずっと、謝ってばっかりで」

「ああ……そっか……。もう会えないって思ってたからかな」

 そうだったかもしれない。そうでなかったかもしれない。

 でも彼女がそう言うのだから、きっとそうなんだろう。

 彼女にとってどうであったかだけが、重要なのだから。

「李斗……これからは、一緒に楽しいこと、しましょう」

「そうだね……。そう、だね」

 ――楽しいことってなんだろう?

 これから楽しいことなんて、あるわけないだろ。

「あの娘とは、もう会わないって約束してくれる?」

「え? ああ、そうだね。もう、会えないよ」

 ――会えるわけないじゃないか。分かってて言っている。ひどい女だ。



 氷ノ山神社の最寄り駅を降りると、観光客らしき集団とすれちがう。

 己の神社も観光スポットにでもなれば、参拝者も増えるかな、と思ったが、そういえば地元観光協会からの申し出を何十年も前に断ったのを思い出した。たしかその時は、人手がないのと、バイトで時折留守にすることが理由だったと記憶している。

 なにをいまさら。

 こんなことを考えてしまうほどには、己が正気を取り戻していることに気付いて、李斗はつい笑ってしまった。

 さっきまで、何もかも捨てるつもりでいたのに。いや、今でも思っているけれど。

 そのつもりで家路に就いているのだから。


 神社の近くにまで来たとき、鏡華が立ち止まった。

「あの子がいなくなって清々した」


 ああ、そうかい。

 それは良かったな。

 余計なことを言う。

 自分を怒らせて、この女は何か得でもするのか。


「せっかく父親を殺してあげたのに、また私の李斗に近づくなんて、ひどい子。でも、これでまた、李斗と一緒にいられる」


 ……え?


「鏡華、いま、なんて言った?」

「ここで殺したのよ。ふふふ」

 そう言って鏡華は、着物の袖をふわりとたなびかせ、つま先でくるりと回った。


 李斗は体中が総毛立ち、血液が沸騰した。

 紅玉の瞳を大きく見開き、目の前の鬼女を凝視した。


「本当は、あの娘を殺そうとしたの。でも、あの勘の良い男、父親が身代わりになってしまったの。……でも、あの娘を追い払うっていう目的は果たせたから、それでも構わなかったわ」

 李斗は、爪が食い込み血が滲むほど、強く拳を握りしめた。

「……お前が、彼女の父親を?」

 絞り出すように声を発した。 最早、自戒も慈悲も何もなく、憎悪だけがあった。

「そうよ」

 鏡華は当たり前のように、さらりと言った。

「……そう、か。お前が、やったのか」

「そうよ。静かになってよかったわ。あの娘、やたら騒ぐから嫌いだったのよ」


 ――ごめん、薫ちゃん。僕は、やっぱり約束は守れそうにないよ。


 李斗は握り絞めた拳をぱっと開き、満面の笑みで鏡華に語りかけた。

「さあ、鏡華。もうすぐ僕らの家だよ。早く帰ろうね」

「ええ、早く帰りましょう」

 鏡華も微笑みで返した。

 李斗は彼女を抱き上げ、歩き出した。

 腕の中で幸せそうに身を預ける鏡華を見て、これが五百年前に夢見た未来だったことを思い出す。

 五百年後、こんなにひどい顛末を迎えるのであれば、あの時自分もこの娘の後を追えばよかったのだ。そう、強く思わずにはいられなかった。



                  ☆



 李斗は、氷ノ山神社の鳥居の影から『危険・階段補修中のため立入禁止』の看板とバリケードを引っ張り出して、参道を塞ぐように据えた。

 普段は文字通り、工事の際参拝者に注意を促すために使っているものだが、今は不用意に境内に立ち入る者を退けるため参道を塞いだ。


 李斗は鏡華を抱き、参道の石段をひとつひとつ踏みしめながら登っていった。

 生前の鏡華と過ごした日々が次々と脳裏に浮かんでは消えていく。

 彼女と共に、何度も登った道。

 昔のままの社殿や石はもうほとんど残っていないけど、祭神の己自身は今もここに存在している。鏡華の心も。


「さあ、僕らの家についたよ、鏡華」

 そう言って、李斗はゆっくりと彼女を境内の石畳の上に降ろした。

「ねえ鏡華、階段登ったから、僕ちょっと暑くなっちゃったんだ」

「それ、私が重かったって言いたいの? ひどい人」

 うふふ、と微笑む鏡華。

 だが死人の鏡華には、ほとんど質量らしきものなどなかった。


 にわかに李斗の周囲がひんやりとしはじめた。

 次第に煌めきと軋みを伴って、境内は微細な氷に満たされていく。

 まだ昼間だというのに辺りは霞み、石畳には霜が降りていた。

「ひどい人? ……そうかもね。君ほどじゃないけどさ!」

 李斗は片手を天へと突き上げた。

 その瞬間、地面から人間ほどの大きさの氷柱が無数に突き出し、李斗と鏡華の周囲を埋め尽くした。

「李斗、これは一体ッ」

 鏡華が怯える。

「ここが僕と君の家だよ。君をもうどこにも行かせない。――どこにも逃げ場はないぞ、鏡華」

 天に差し伸べた手を鏡華に向けると、無数の氷の粒が彼女の体を覆いつくした。

「いや、な、何をするの! 出して! 助けて、李斗!」

 悲壮な声を上げるが、身動きすることも出来ない。――霊体のはずなのに。

「不思議かい? 僕の氷は物理法則を凌駕する、なんて難しい言葉は知らないか。君にも分かるように言うと、霊魂までも凍り付かせることが出来るのさ」

 氷の中でわめき散らしているようだが、もう彼女の声は届かなかった。


「僕は、お前を、土に還す」

 李斗は涙を流しながら、氷で作った弓に矢をつがえ、弦を引き絞った。

「……さよなら、鏡華」

 放たれた矢は結晶を纏った鏡華の元へと吸い込まれ、氷柱を彼女諸とも無数の欠片へと変えた。その瞬間、辺りはまばゆい光に満たされ、やがて消えていった。


 ――これまで、退魔師の真似事をしてきたけど、まさか身内を滅する日が来るなんて、夢にも思わなかったよ。

 二度も君を死なせる僕を許してくれ。

 今度こそ、僕も後を追うから。


 ――でも、僕はどうやって死ねばいいんだろう?



 李斗は痛む体をおして、身の回りの整理をし、知人に後を頼んで氷ノ山神社を後にした。立つ鳥なんとやらと言うだろう。

 もうここには戻らない。鏡華も、薫も、サヨナラだ。



 疲れた。

 すごく、疲れた。

 ああ、しばらくどこかでゆっくりして……それから……どうしよう?

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