薫を保健室に預けた李斗は、廊下に出るとすぐ、昼休み中に届いていたメールを確認した。差出人は件の探偵、内容は追加の調査情報だった。
「そんな……あんまりじゃないか……」
李斗は絶句した。
調査内容は、彼を十回絶望させるに足るものだ。
前回の調査で判明した事実。薫の両親は離婚などしていない。死別だった。
そして追加の情報で判明した、父親の死因は、事故死。
それも、氷ノ山神社のすぐそばで。
だから薫は記憶を――。
――そんな事実があっていいものか。
あれを、事故の一語で言い訳出来るのは、人間だけだ。
人ならぬ身であるこの僕に、それは許されない。
たとえ、人の命運を動かす力が最早尽きていたとしても。
この調査結果が全て事実なら、僕は僕が許せない。
あの時、僕が近くにいさえすれば、薫の父を救うことが出来たのに――。
薫の側にいる資格は、最初からなかったのだ。
なぜなら、僕が、薫の家庭を壊し、薫の記憶も幸せも奪ったのだから。
ああ……。どう償えばいいのか、分からない。
許してもらおうなど、毛程も思ってはいない。
しかし、この命を賭したとしても、失ったものを取り戻すことは叶わないだろう。
ならば、僕に出来ることは一体何なのだろうか?
薫の何もかもが、今はとても遠くに感じる。
ついさっきまで、手の届く場所に、焦がれ死んでしまう程欲しくてたまらなかった君がいたのに……。
薫を自ら手放すことの苦しみは、待ち焦がれていた今までとは、比ぶべくも無いほどの痛みと絶望に満ちている。
今の僕に、それを選ぶことなど出来るのだろうか。
こんなにも心の弱い僕に。
『薫を不幸にしてでも、自分だけのものにしたい――』
そう願わずにはいられなかった。
彼女への長年の渇望が、彼女を失うことへの激しい恐怖が、彼女を独占したいというどす黒い欲望が、僕の理性を粉砕せんと牙を剥いて襲いかかってくる。
いっそこいつらに飲まれてしまえば、どんなに楽になれるだろう、と思わずにいられない。
――薫を殺して、自分も……?
そんな絶望的な妄想が脳をよぎった時、僕は気付いた。
神はそう簡単には死ぬことが出来ない。
だからこそ、人は神を弱らせて封じるのだから。
……これだったのか?
共に死んでやれば、お前は満足だったのか? 鏡華よ。
では、誰がお前を弔うことが出来たというのだ。
許嫁ではなく僕の子を宿したために、一族になぶり殺しにされたお前を。
それとも、僕があの一族を村ごと血祭りに上げただけでは、満足出来なかったというのか。先方の村も焼き払えばよかったのか?
氏子の一切を失った僕を、未だに呪うのか。
僕を苦しめてそんなに楽しいか? 鏡華よ。
僕だけ幸せになることは許さない、と。
……済まない、薫。
僕はこのまま、嘘に嘘を塗り重ねてまで側にいる資格はない。
君の父は死んでいる、彼を救えなかったのは僕のせい、この二つの事実を隠して共に生きるなんて――。
やはり僕は、君とお別れするよ。
薫が記憶を取り戻したら、きっと全てが壊れてしまう。記憶を失ったのは、彼女自身を守るためだから。しかし、僕が近くにいれば、いずれ全てを思い出すだろう。
その前に、彼女の前から消えてしまおう。
でも……、せめてもう少しだけ。
あと少しだけ。
どうか、今日だけ、待ってくれないか。
彼女の顔をこの目に焼き付けるから。
僕が神頼みなんて、きっと笑われるだろう。
でも、もしも誰か聞いてくれるのなら、お願いだ。
どうか、薫の記憶が戻りませんように……。