「薫ちゃん、迎えにきたよ~♥」
普段はマンションの玄関前で待っている李斗が、今朝は玄関までやってきた。もちろん、昨日出現した鏡華への警戒である。
「おはよう。ご近所に聞こえるからあんまり大きな声出さないでよ」
「ごめんごめ~ん、うふふ♪」
口ぶりだけは普段の李斗だが、その目は笑っていない。
さりげなく周囲を伺っている。
「あと、ちゃん付けもやめなさいって」
「ごめ~ん、つい~♥」
悩殺スマイルで小首を傾げるけども、目だけ笑ってなくて、かえってシュールなのでやめて欲しい、と薫は思った。
とにかく、神サマである李斗と一緒なら、万一何かあっても大丈夫。
マンション前まで降りた二人は、周囲を伺ってほっとした。
「今朝はエレベーターにもホールにも出なかったわね」
「ったく、文句があるなら僕んとこに来ればいいのに~」
「ほら、李斗がいるから出てこないんだよ。一緒にいれば大丈夫、大丈夫」
「そう……みたいだね~」
二人は、駅への道を警戒しながら歩いた。
まるで斥候の兵士みたいだ、と薫は思った。
「薫、怖がらせてごめんね。やっぱり僕がいない方が……」
「なに言ってんのよ、此の期に及んで。あんなに私を欲しがってた勢いはどうしたのよ? 大丈夫、あんな女に私は負けない」
「ほんと……ごめん、薫ちゃん」
「だからちゃんはやめなさいって」
駅に着くと、李斗が大きなため息をついた。
「アレはなまじ実体のない相手だから、完全に滅するならともかく、ただ追い払うというのは難しいんだよね~……。地縛霊とかと一緒で、自発的に移動してもらうのって大変なんだよ~……」
「ふうん……」
「ったく……嫌がらせをするなら、薫じゃなくて僕にすりゃいいのに……」
「――あの、滅するって?」
薫が尋ねると、李斗は少々困ったような笑顔で応えた。
「ああ、こないだ話したでしょ。工事現場でお祓いのバイトしてるって。追い払うだけで済まない相手は、存在そのものを滅するんだよ。人間にはかなり難しいけど、神の僕ならそう難しいことじゃない。
……あまり気分のいい作業じゃあないけど。だってさ、事実上二度死んでもらう格好になっちゃうから。しかも完全消滅だから、生まれ変わることも出来ない。とても人間にはさせられない、業の深い行為だよ……」
うわあ、と思わず口にしながら薫はのけぞった。
「で、でも、このまま彼女が出てこなければ、そんなことにはならないよね。きっと大丈夫だよ、こないだ電車に乗って景色見て、それで気が済んだかもしれないし……あはは……」
力なく笑う薫。
薫は昔からそうだった。僕の気持ちを汲んでくれる優しい子だった。だからこそ、迷惑をかけたくないのに……。
楽観的なことを言って必死に自分を励まそうとしてるのが分かるから、李斗は余計につらい気持ちになった。
☆
「あれだけ警告したのに別れないなんて、殺されないとわからないのかしら?」
女子トイレの鏡の中から、鏡華が話しかけてきた。
「うわっ! ……ってあんたか。どっか行ったんじゃなかったの? いい加減しつこいんだけど」
薫も慣れたものだ。相手が分かれば恐れもない。
『李斗から離れなさい』
「なら当人に言ってよ。寄ってきてるのはアイツなんだから」
『李斗から離れなさい』
「だーかーらー、私じゃなくて李斗本人に言いなさいっつってんでしょ?」
鏡華の表情が一瞬険しくなったかと思うと、ふっと薫の目の前から消えた。
「あれ?」
「何度も言わせないでよ。殺すわよ」
声は前方からでなく、耳元で聞こえた。
薫の体が恐怖に固まるよりも早く、鏡華の手が首を絞める。いや、確かに鏡の中の自分の首には何者かの手が回されているのに、そこに触れると何もない。絞められた感触すらない――。しかし。
「う……うう……」
制服のリボンが、ありえない巻き付きかたをして薫の首を絞め始めた。
引きはがそうと指をリボンと首の間に差し入れようとするが、ぴったり張り付いたまま薫の頸椎をぐいぐいと絞めていく。
――た、助けて、李斗――
遠くなる意識の中で李斗の名を呼んだとき、
「薫、授業始ま……? なにしてるの?」
誰かが、女子トイレに入ってきた。
親友の美季だった。一緒に理科室に移動するのに、ちっとも薫が戻って来なかったので呼びに来たのだ。
今にも窒息しそうな薫は、必死に声を絞り出した。
「んぐぐ……た……す……、あれ?」
「なにしてんの?」
美季が来た途端、急にリボンがゆるんだ。鏡に映っていた幽霊も消えている。
あれほど苦しかったのに、今は何ともなかった。ただ、首には紐で絞められた跡が残っている。
――気のせいなんかじゃない――
「ご、ごめん……ちょっと気分が……」
リボンを結び直し、ブラウスの襟を直して首元を隠す薫。
幽霊は消えてなどいなかった。
この事実を、いまさら李斗に言うのは気が引ける。
言えばきっと、彼は自分から身を引いてしまうだろう。
ましてや、あの幽霊を、かつての恋人を滅ぼすなんて彼には出来ないはず。
しかし、このまま放置していたら、自分は幽霊に殺されてしまうかもしれない。
一体どうすればいいのか……。
☆
「薫ちゃん、どうしたの? 顔色悪いよ」
美季に言われて先に理科室に移動していた李斗が、揃ってやってきた婚約者に声をかけた。彼自身もあまり元気そうには見えない。
「ごめん、遅くなって。何でもないよ」
「ホントにぃ?」
上目遣いに薫の顔をのぞき込む。
「ホントだって」
先生が来たので、李斗の追求は中止された。
薫はほっとしたけれど、正直いつまでもつのか……と不安だった。
授業が終わり、薫たちは再び教室に戻るため校内を移動していた。
(今は李斗も一緒だし、大丈夫だよね)
薫は平静を装いつつ、周囲を警戒しながら階段を降りていった。
(大丈夫、大丈夫……)
特に周囲には危険物はない。
(大丈夫……たぶん大丈夫……)
気付いたら歯を食いしばっている自分がいた。
「ちょっと、薫? やっぱ具合悪いんじゃないの?」
と美季。
トイレでの一件もあり、李斗同様薫の体調を心配している。
(始まっちゃったの? 持ってる?)
美季が薫に耳打ちする。
(ああ、まだ、だけど……その……)
ヘンに疑われるより、そういうことにしておいた方が、と薫は思った。
(実は……うん、まあ)
(やっぱり。雪宮くんには言えないもんね。持ってる?)
(だ、だいじょぶ……)
「ちょっと、なに二人でコソコソしてんの?」
李斗が訝しげに尋ねる。
「女子の話だから首つっこまないでよ!!」
「はわわ……ご、ごめん~」
美季に怒られて大人しくなる李斗。彼には申し訳ないとは思うけど、ここは美季に任せるしかない。いま怪しまれるのはとにかく避けたい。
結局、美季の勧めで体育は見学することにした。
こうなってしまっては、放課後まで具合の悪いふりを続けるほかない。
(出ませんように……出ませんように……)
間の悪いことに、校庭の修繕の関係で、男子は校庭、女子は体育館での授業となった。悪いことは続くものである。
「薫ちゃん、なんかあったらすぐ僕を呼ぶんだよ? いい?」
やたらと心配をする李斗。彼にしてみれば、幽霊と薫の不調のダブルパンチなのだから、不安が増すのは当然といえる。
後ろ髪引かれながら校庭に向かう李斗を、薫は昇降口で見送ると、体育館へと歩き出した。
「いたいっ!」
足首のあたりに、刺すような痛み。
見下ろすと、靴下のくるぶしのあたりに、じわりと血が滲んでいる。
「な、なに……」
周囲には、あるはずのない、縫い針やまち針が大量に散乱していた。肌に刺さりそこねた針が数本も靴下にくっついている。後から考えればみみっちい攻撃だと分かるけど、現在進行形で当事者の薫には、そんな余裕はなかった。
まさかあいつが……。
『李斗から離れなさい』
あの声が聞こえる。
「こ、これ、家庭科室の備品でしょ! 勝手に持ってきたらだめじゃない!」
精一杯の虚勢を張って、鏡華を威嚇する。
いま自分を守れるものは、自分しかいないのだから。
『李斗から離れなさい』
「だから! 当人に言いなさいってば!」
『李斗から離れなさい』
「ダメだこりゃ」
ひたすら同じことしか言わない幽霊に匙を投げる。
多分、話し合いで事が済む段階はとうに超えているのだろう。
☆
なんとか無事に体育館まで到着した薫は、急いで靴下の血液を水道で洗い流した。こんなもの、李斗に見つかったら何を言い出すかわかったもんじゃない。
傷は小さかったので、とうに塞がっていたけど、幽霊が物理的にあれこれし出した以上、そのうち美季や他の生徒に被害が出るのでは……と不安になった。
(どうせ具合が悪いことになってるんだから、いっそ早退した方が……。でも今日しのげばいなくなるって保証はどこにもないし……)
今日の授業はバレーボールなので、薫は点数係をやることになった。
美季にあれこれ言われたけれど実際に具合が悪いわけでもないし、椅子に座ってやれば大丈夫だから、と役目を引き受けた。
授業が始まって十分ほど経ったころ、天井の電灯のいくつかが明滅を始めた。
「おかしいわねえ……先月点検したばかりなのに……」
保健体育の教師が訝しんだ。
皆が上を見上げていると、電灯がぐらぐらと揺れ出した。
「え、なに?」
「地震? でも揺れてないよね?」
「大丈夫かなあ」
みな口々に呑気なことを言っている。
そのうち揺れがだんだん大きくなっていく。
――まずい!
「みんな、壁際に逃げて!!」
薫が叫んだ。
だが、皆かたまったままだ。
「はやく!!」
次の呼びかけで、やっと生徒達が動き出した。その数瞬後――
ガッチャ――ンッ!!
電灯の一つが落下し、床の上で粉々に砕け散った。
「やっぱり、これも……」
壁に張り付いていた薫は、血の気が引いた。
このままでは、本当に他の生徒にケガ人が出てしまう――
女子の体育の授業は中止となり、全員着替えて教室に戻った。
幸いケガ人はなく、皆何事もなかったように、おしゃべりをしたりゲームをしたりしている。
授業が終わると、李斗が血相を変えて教室に飛び込んできた。
「薫ちゃん! 大丈夫か!!」
「あ、ああ、み、みんな大丈夫。誰もケガとかしてないよ」
「はああ……よかった」
李斗はその場でへなへなと座り込んでしまった。
薫は、李斗に本当のことを言うべきか否か、未だに悩んでいた。
言えば彼女はきっと滅ぼされてしまう。
でも、李斗に昔の恋人を殺すような真似をさせたくはない。
しかし幽霊を放置すれば、自分以外にも危害が及ぶかもしれない……。
それなら、自分が学校に来ないようにするか、あるいは――彼女の要求を飲んで、李斗と別れるか。
でも、死んだ人間のために自分が李斗と別れるなんて、やっぱり間違っている。
もう一度、説得してみよう。
薫は決意した。
「どこにいるの! 出てきなさいよ!」
昼休み、薫は李斗の目をごまかして旧校舎にやってきた。現在は一階の特殊教室のみ使用されているため、休み時間はほぼ無人となる。
幽霊をおびき出すため、わざわざ人気のないこの場所に来たのだ。
薫は昇降口から呼びかけた。
「あんたと話があるんだから! そっちも私に用があるんでしょ!」
まだ返事がない。
薫は、下駄箱の間をゆっくりと進み、廊下をのぞき込んだ。
右、左。誰も居ない。
――パンッ!
上の階から、何かが爆ぜる音がした。
電灯だろうか……。
ただでさえ早くなっている心臓の鼓動が、さらに早く強くなっていく。
ここで自分があの女を止められなければ、望まない未来が待っている。
自分が守らなければ。
李斗も、クラスメートも、自分の未来も。
再び静まりかえった中、ひたすら階段を登っていく。
自分の足音だけが不気味に響く。
「ど、どこよ……。声出せるんだから、返事しなさいよ……」
だんだんと小さくなる呼び声。
心細さが声を震わせる。
階段を登りに登って、残るは屋上へと続く半階層分だ。
『やっと来たのね。のろまさん』
屋上階に上がりきった、余分な机や椅子が積み上げられた場所にソレはいた。
幽霊は机の上に座り、つまらなそうに足をぶらぶらさせている。
『自分から殺されに来るなんて、殊勝な心がけだこと』
「こ、殺されに来たつもりはないわよ。話をしに来ただけだから!」
踊り場から上を見上げ、幽霊を睨み付ける。
相手が見えればそう怖くない。
気合いで負けたら終わりだ。薫は根拠なく、そう思っていた。
『話? やっとわたしの李斗から離れる気になったのかしら』
「なんで私が。だいたい当人とちゃんと話をしたことあるの? ないんでしょ。
なのになんで私にばっかり文句言ったり攻撃したりしてくんのよ。おかしいじゃない。私にくっついて歩いてるのは李斗の方なのよ?」
『お前がいなければ、李斗はそのような真似はしない』
「死んだ人間が! 分かったような口をきくな!!」
『ならば、お前も死ねばいい』
幽霊はすっと浮かび上がると、薫に向かって手を差し出し、手のひらから何かを撒き始めた。――それは、無数の桜の花びらだった。
「うわッ――!!」
桜吹雪が薫の視界を奪った。
頭上からガタガタと机や椅子を鳴らす音が聞こえる。
(これ、ヤバいやつなんじゃ……)
なんとなく次の展開が読めてしまった薫だが、視界を失った今、踊り場をうかつに動き回れば階下に転落してしまう。
薫は動くに動けず、両手で頭を抱え、その場にうずくまった。
『おわりよ』幽霊が死刑を宣告する。
物音は、ガタガタからガラガラへと、金属のぶつかり合う音が一層激しくなる。
薫の脳裏には、机の山の下敷きになった己の姿が浮かんでいた。
(助けて、李斗――!!)
そう念じた瞬間、急に辺りが凍えるような寒さに包まれた。
舞っていた桜吹雪はその動きを止め、一斉に床や階段の上に降り注ぎ、シャリシャリという音と共に粉々に砕け散った。
「来たよ、薫ちゃん」
自分の名を呼ぶ声に顔を上げると、そこには手を差し伸べる李斗の姿があった。
「り……と」
手を伸ばそうとしたとき、彼の背後に信じられない光景が広がっていた。
薫と李斗の立っている踊り場より上、今にも降り注がんばかりだった大量の椅子や机たちが、宙に浮いたまま凍り付いていたのだ。
「様子がおかしいと思って後をつけたら……。なんで言わないんだよ薫ちゃん」
「だってぇ……」
緊張の糸が切れたのか、薫は李斗の足に縋り付いて泣きだした。
『な……何故ッ』
黒髪を振り乱し、かつての李斗の想い人は困惑した。
「何故もへちまもあるか。今の妻はこの薫だ! 傷つけるなら容赦しない」
そう言い放つと、李斗は泣きじゃくる薫を抱き上げた。
『お前の妻はこの私、その女ではない』
「五百年も僕を放置しておきながら、今さら所有権の主張など見苦しいぞ!」
薫は李斗の首に両の手を回し、ぎゅっと抱きついた。
『何故……何故私ではないの……』
幽霊はそう呟くと、すうっと消えてしまった。
☆
「なんで僕に黙ってたのさ。体育館のあれもそうなんでしょ」
薫をおぶった李斗が、歩きながら尋ねた。
既に二人は旧校舎を後にし、新校舎への渡り廊下を歩いている。
「ごめん……。怒ってるよね」
「当たり前でしょ? 薫ちゃん二度も死ぬとこだったんだよ?」
「だって……。あの人のせいだって知れたら、李斗に悲しい思いをさせることになるから、言えなかった」
李斗は立ち止まった。
「どういうこと、なのさ」
「朝、トイレであの人に首を絞められた。昇降口で足に針を刺されたりもした。李斗から離れろって脅されてたんだ。自分さえガマンしていればそのうちいなくなるかもって思ってた。
でも、体育館であんなことがあって、このままじゃみんなに迷惑がかかる、そう思って、直談判しようと人気の無い旧校舎に行ったの。あいつは、いつも人の見てない場所で私にちょっかい出してきてたから。そしたら……」
「やっぱり話し合いなんか出来なくて、あの様ってわけね。薫のバカ。バカバカ。僕が行くのがもうちょっと遅かったら、ホントに死んでたんだよ? わかってる?」
「ごめん……。だって、バレたら李斗が責任感じて別れるって言うかもと思ったし、つらい仕事をさせることになっちゃうから……」
「――朝、言ったこと、気にしてたの。追い払えなければ、滅するって」
薫はコクリと頷いた。
「そんなこと、薫が気にすることじゃない。僕自身の問題でしょ。そんなに彼女を滅するのがイヤなら、あとで捕まえて説教してやるから。それならいいんでしょ?」
「うん……」
李斗は大きなため息をつくと、再び保健室に向かって歩き出した。