李斗が薫の高校に転校して三日目の朝がやってきた。
昨日、ずっと李斗につきまとわれた薫は、一夜明けたこの日も良からぬことが起きるだろうと薄々気付いていた。
朝食後、スクールバッグを肩に掛け、寝ぼけ眼の母親に挨拶をして茶色のローファーにつま先を差し込む。
――はあ。
と大きく息を吸い込んで、マンションのドアを思いっきり開ける。
「薫ちゃんおは、ブッ!」
全てを言い切らぬうち、ドアは兎神の顔面を強打した。
「やっぱり。ここに来たらダメって昨日言ったじゃん」
「いつつつ……」
顔を押さえてその場にしゃがみ込む李斗を、薫がゴミを見るような目で見下ろしていろと、大きな物音のせいで母親が後ろから顔を出してきた。
「なあにどうしたの? あらら……雪宮くんだっけ、大丈夫? ケガしてない?」
「おはようほひゃいまふ……」
「こんなんほっといて、お母さん早く寝て。睡眠時間は貴重なんだから」
「でも……」
「いーから! じゃ行って来るね!」
薫は母親を中にドアごと押し込むと、そそくさとカギを掛けた。
「ひろいよぉひゃおるひゃん」
「いうこときかないアンタが悪いんだから、自業自得よ!」
☆
「お母さん、目にくまがあるね。寝不足?」
「……夜勤だから」
一緒にマンションを出て、李斗が話しかけても薫は無視。駅に着いてもまだ薫に無視されて、ようよう電車に乗る頃に、彼女は口をきいてくれた。
「そっか……悪いことしたね」
「寝てていいって言ってんのに、私が学校行くときには起きて、また寝るの。でもちゃんと寝れてない気がする。さいきん」
「ごめん。もう朝は行かない。下で待ってるから」
薫は返事をしなかった。
江ノ電に揺られて、無言のまま一緒に海を眺める。
李斗にとっては、とても久しぶりの電車だった。
「薫ちゃんの学校に転校するまで、この電車にずっと乗ってなかったんだ」
「……なんで?」
「なんでかな? なんとなく」
「へんなの。あんただって買い物ぐらい行くでしょ。それとも車?」
「歩きかな。荷物が多いときはタクシー呼ぶけど」
「なんか電車でいやなことでも? まさか痴漢とか――」
「いやいやいや別にそんなんじゃないし、いくら僕がかわいいからってないから」
「じゃ、なによ。やっぱ言いたくない?」
「そういうわけじゃないけど、でも」
「でも、なあに?」
「もう、やじゃないから。こうして、いっしょに乗れるから」
「そっか」
家を出てからずっとむくれ顔だった薫の表情が、少しだけ和らいだ気がした。
「あのさ、……ちょっと今さらな話なんだけど……願掛けの件、覚えてる?」
「あー……えっと、お父さんとまた一緒に暮らしたいってお願い?」
「うん。八年前に離婚してそれっきりだから、できたらって……」
李斗の表情が一瞬暗くなったのは、神様であっても人捜しは結構難しいからなんだろう、と薫は解釈した。
「お父さんの件、ね。わかった。やってみる」
「ありがとう、李斗!」
「でも、あんまり期待しないでね。がんばってはみるけど」
「うん。ああ、そうだ。こないだの写真見せて」
「ん?」
「パパが撮った写真」
「ああ、これ?」
李斗は制服のポケットからパスケースを取り出すと、薫に差し出した。
「これ、本当に李斗? 改めて見てもしんじらんない……。写真と今と、ぜんぜんかわってないじゃん……。マジでお兄さんとかいないの?」
「いるけど、けっこう遠くに住んでるから一緒に写ることはないよ。それにぜんぜん似てないし……。ったく、ぼくのことなんだと思ってんのさ。こないだめっちゃキュートでフォトジェニックな兎姿を見せてあげたでしょ?」
「かみ……さま?」
「なに、その疑わしげな言い方は。まだ僕のこと信じてないの薫ちゃん?」
「いやー……あんまりニンゲン以外の知り合いいないんで、ちょっと……まだ頭が追いついてないっていうか……わかってるけど、わかってないっていうか……」
「ま、いいけどさ。薫ちゃんが僕のお嫁さんになるのは決定事項なんだから」
「だーかーらー、まだなるって言ってないじゃん。子供の口約束なんてノーカンですうー」
「ニンゲンのノーカンなんてノーカンですう。僕は神ですう。こっちの方が優先ですうー。それにプロポーズしたの薫ちゃんなんだから絶対に絶対ですうー」
「なにそれ。ったく証拠もないのにマジかんべんだし」
「あーひどいひどいひどい薫ちゃんひど」
(むごご)
李斗は急に薫の手のひらで口を塞がれた。
「しっ、学校の人乗ってきた。黙って。騒いだら殺すから」
(ふごふご)
うんうん、と李斗は頷くしかできなかった。