由希乃が泣き顔を隠しながら、本屋の更衣室に駆け込むと、同僚の女子大生が着替えをしていた。
「どうしたの、由希乃ちゃん! あ、もしかしてお向かいの人とケンカした?」
「ううう……」
図星なので、こくこくとうなづくしかなかった。
「どーしたのかな? おねーさんがきいたげるよ?」
「あ、あのね……」
由希乃は一部始終を同僚に話した。
「あーまー、ぶっちゃけ悪いのは由希乃ちゃんだよね。だけど彼氏と繋がりたい気持ちも分かる。でもそれって、クラスメートとか由希乃ちゃんサイドの理屈とか方法で、だよね?」
「私サイド……?」
「つまり、彼氏はそういうのに慣れていないし、そもそもルールを知らないの。なのに、お前はルールを破って自分を悲しませたーって怒るのは筋違いでしょ?」
「ああ…………」
「まだ納得出来ないかな。えっとね、さすがに十歳も離れてると、コミュニケーションの方法そのものが違ってきちゃうのよ。それに、時代に合わせて変わっていけるかどうかってのは個人差がとても大きい」
「うんうん」
「そもそも、彼氏ともっと仲良くなりたい、彼氏のことをもっと知りたいから、そういうことしたくなったわけでしょ? だったら目的を見失って、最悪別れることにでもなったら、本末転倒。――そんな未来、イヤでしょ?」
「……ヤダ」
「もっと彼氏の立場に立って、過度な押しつけはしない。お互いの望みを摺り合わせる。それが、男女交際を長続きさせるコツなのよ」
「す、すごい……。でも、なんでそんなに詳しいんですか?」
「うふふ。お店にある『SNS疲れ解消法』って本に書いてあったから」
「なーんだ、受け売りかあ~」
「いいじゃない。知識は使うためにあるのよ」
「そっか……。ありがとうございます!」
同僚は手を振って更衣室から去っていった。
「そっか……。多島さんには、こういうの、合わないのかあ……しらなかった……」
今夜の仕事が終わり、由希乃はまっすぐ向かいの弁当屋に向かった。
相変わらず、ぽつねんと店内カウンターに多島くんは立っていた。
「あの……」
「おかえり、由希乃ちゃん」
「た、ただいま」
「プリン、残ったの食っちゃったよ。新しいの出そうか」
「た、たべ……ちゃったんですか」
由希乃は赤面した。
「ん? とっといた方がよかった?」
「そ、そそそ、そうじゃなくって」
「えーっと……イヤ、だった? 俺と間接キスとかすんの」
「べ、べつにイヤじゃないけど……」
「一応これでも食べ物扱ってるでしょ。だから、食べ物を粗末にするのイヤなんだよね」
「はあ……」
「別に由希乃ちゃんと間接キスしたいから食ったわけじゃないんだよ」
「そ……ですか」
「由希乃ちゃん」
「は、はい!」
「よく戻ってきてくれたね」
「……あの、謝りたくて……」
「いいよ別に。俺が、由希乃ちゃんのオーダーに応えられなかった、そういうことだから」
「そういうことって……そんな言い方……」
「俺にぐらい、わがまま言ってもいいじゃない。甘えられる人、いないんだから」
「……でも、やっぱ、それって、あの、えっと……」
「うん」
「びょ、平等、な、こみゅに? けーしょん、じゃあ、ないし……というか……すり合い? というか……その……ルールを知らない多島さんの都合も考えずにその……えっと……」
「だいたい言いたいことは分かった」
「ほ、ほんと!?」
「皆まで言うな、愛しい人よ」
「い、いと、しいひ、ととかやめ、やめてえ」
由希乃は両手で顔を覆った。
「つまりだ。双方のニーズや状況や情報の共有が出来ていなかったが故の不幸な事件だった、ということで」
「はいぃ……」
「これで、仕切り直しをしないか?」
多島くんは、カウンターの中から一冊のノートを取り出した。
「今日から始めよう。俺と由希乃ちゃんで、『交換日記』をさ!」
「こ、こうかん……」
「ほら、こういう風にさ」
と言って、多島くんはノートを開いた。
そこには、カラフルなペンを使って書かれた由希乃へのメッセージや、かわいいシールが貼り込まれた過分に乙女チックなページだった。
「うわあ……かわいい……なにこれ……。手帳の使い方の本とかでは、こういうの見たことあるけど……多島さん、こういう趣味なんですか?」
「いやいやいやいや。俺の調べたところ、女子の人は、手帳や手紙、ノートをこういう風にデコると。さっき文房具屋で買ってきて、そのあと店番しながら書いてたんだけど、さすがに俺毎回これだと疲れるんで……その、使い方の見本と考えてもらえると助かる。……どう?」
「やります!!」
「そっか。ありがとう。ノートっていう物体があるかぎり、それ以上にお互いを縛るものは存在出来ないからね。……それに、風情があっていいでしょ?」
「うん」
「じゃ、よろしくね」
多島くんは、にっこり笑った。
「ところで、どうしてメッセだとあんなに文が固いんですか?」
「え? ああ……俺、論文とか技術資料とかそういうの書いてばっかで、柔らかい文章ってあまり書いたことないから……驚かせちゃった?」
「あはは……中身が別の人かと思っちゃった」
「興味、ある?」
「論文?」
「まさか。――違う俺について、とか」
低音ボイスでささやく多島くんに、由希乃は息を呑んだ。
「続きは交換日記で? ということで」
「うん……よ、よろしく……です」
ちょっとだけ彼の悪魔的な部分を垣間見て、
(ヤバイ扉を開けちゃったのかも……)
と、ドキドキする由希乃だった。