「ああっ、どうしよう」
女子高生の
着替えて外に出ると夜更けの商店街は少し強めの雨が降っていた。
急に降り出した雨に成すすべもなく、カバンを頭に乗せて走る人。
そばのコンビニで、渋々ビニール傘を買って歩く人。
そんな人たちが店の前を通り過ぎていく。
「置き傘もないしゴミ袋でも被って帰るしかないかなあ」
諦めて店内に戻ろうとしたとき、背後から声がした。
「これ、使って」
振り返ると、向かいの弁当屋の若い店員が、黒い折りたたみ傘を自分に差し出していた。店から飛び出してきたのか、彼の体はあちこち濡れている。
「あ、お向かいの……いいんですか?」
「うん。他にも傘あるから。女の子が濡れて帰るとかヤバいでしょ。ほら」
面識はあるものの、お互い会話をするのは初めてだった。
由希乃はおずおずと、差し出された傘に手を伸ばした。
「あ、ありがとう、ございます。これ、あとで乾かしてお返しします」
「いつでもいいよ。じゃ、気をつけて」
それだけ言うと、彼は小走りに弁当屋へと戻っていった。
由希乃はぺこりとお辞儀をすると、折りたたみ傘を開いた。
「お兄ちゃんのみたい……」
その傘は大きくて、兄の傘を思い出させた。
由希乃はちらと向かいの弁当屋に視線を投げると、先ほどの彼が心配そうに見ていたので、またぺこりとお辞儀をしてから、雨に濡れる商店街のカラフルな舗装路を歩き始めた。
◇
由希乃が自宅に戻ると家の灯りは消えていた。病院で看護師として働く彼女の母親は、まだ帰宅していないようだ。
「そういえば今日は当直なんだっけ」
玄関で部屋を明かりを点けながら、由希乃はひとりごちた。
数年前までは兄も同居していたのだが――。
「お兄ちゃん……」
家に一人でいると、今は亡き兄のことを思い出してしまう。だから、バイトを始めたのに――。
あんまり効果ないなあ、と由希乃は思った。
◇
「あの人、どんな人なのかな……」
由希乃は一人で夕食を済ませたあと、風呂の湯船に浸かりながら向かいの弁当屋で働く若者のことを考えていた。
見た目大学生ぐらいの彼は、由希乃が本屋で働き始めた数ヶ月前にはすでに弁当屋にいた。
背は少し高い方で、まあまあイケメンで、頭良さそうな顔をしているのに、商店街の弁当屋で働いているのが不思議だなあと由希乃は思っていた。同じエプロンをする仕事なら、カフェのバリスタでもやった方がよほど似合いそう、とも。
道の細い商店街なので、お互い顔を合わせることも一度や二度ではなかった。
しかし、由希乃にとっては、ガラスの自動ドアの向こう側に見える、ただの書き割り。その中に立っているその他大勢の一人であって、どこの誰かなんて、まったく知らなかったし興味もなかった。
今まで風景の一部だった、その存在が、今夜いきなり、自分に接触してきたのだから――気にならないわけがなかった。
「どんな人なのかな。どこに住んでるのかな。どんな本……読むのかな。彼女……いるのかな」
本、好きなら、いいな。そう由希乃は思った。
◇
数日後。
由希乃は折りたたみ傘を向かいの弁当屋に持っていった。
「あのーバイトの人、いませんか?」
店内に傘の主の姿が見当たらなかったので、店主の中年男性に尋ねてみた。
「ああ、いま配達で出てるんだけど、何か御用?」
「こないだ傘、借りたんで、返しに来ました」
「そっか。預かっとくけど?」
「じゃあ、お願いします」
油臭い空気の充満する店先にいると、髪に匂いがついてしまいそうで、由希乃はそそくさと本屋に入っていった。
制服に着替えて本屋のレジ番につくと、ほどなく件の青年は店に戻ってきた。
その彼が。
出前から戻ったばかりなのに、また店から出て来た。
「あれ?」
店から出て来て、まっすぐこちらに向かってくる。
「え? え?」
――なぜだろう。
とんでもなく、心臓がバクバクいってる。
息苦しくなって由希乃は固まった。
彼は店頭で数冊のマンガ雑誌を無造作にぽんぽんと手に取り、店内に入ってきた。
(あああ)
由希乃は口をぱくぱくさせ、目だけで彼を追っている。
(こっちくる!!)
彼は持って来たマンガ雑誌をレジカウンターに、ぽんと置いた。
「いくらですか」
彼は財布に目を落としながら由希乃に声を掛けた。
……が、返事がない。
彼はいぶかしげに、由希乃の顔の前で手を振った。
「おーい……。大丈夫?」
「あっ、はい! すすすす、すみません!」
「これ、お会計してください」
由希乃は顔を真っ赤にしながら、本のバーコードをレジに読み取らせた。
「これ、全部読むんですか?」
「ああ、店用だよ。客が待ってる時とか用」
「じゃあ、お兄さんはどんなの読むんですか?」
「うーん……実用書とか、資格取得の参考書とかかな」
「そう、ですか……」
由希乃はしょんぼりしつつ、本を青年に渡した。
「ありがとうございました」
「ども……」
小首をかしげつつ店を出て行く彼に、由希乃は気付かなかった。