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第8話 パンドラの箱

「聞いたら、お前も責任取れよ。いいな?」

「え? ちょ、責任って」

「僕も、責任取るから。聞くの? 聞かないの?」


 ここまできて、聞かずに帰れるかっての。


「聞く」

「いいな? もう後戻りは出来ないぞ」


 私はこくりとうなづいた。

 彼がぐっと身を乗り出した。

 私は、胸がものすごく苦しくなって、なんだかわかんないけど泣きそうになって。


 彼の顔が、目の前に来て――15センチもの近くに。

 そして、ささやく。


「好きだ。僕の奥さんになって」


 えええ??


「一生、お前といたい」


 ど、どういう、どういうことなのこれ?

 妻ってナニ? 一生ってナニ?

 こ、告白通り越して、プ、ププ、プロポーズ????

 というか、こいつ、そんなこと考えてたわけ!?

 あああ……、めまいがしそう。


 私はイスからずっこけそうになった。


「なにがおかしい? 僕はずっと思ってたけど」

 あきれ顔の彼は、イスに深く腰掛けなおし、組んだ手をテーブルの上に置いた。


「遠距離になったらお前が可愛そうだから、諦めようとしたんだ。

 丁度彼氏も出来たみたいだし、って踏ん切りがついた。

 お前が僕を忘れたように、僕もお前を忘れようとしたんだ。――必死にな」


 忘れ……ようと?


「それがムリだったのは、紅茶を見ればわかるだろ。去年お前が飲んでた奴だ。

 何故僕があれを好んで買っていたのか、その理由を言わなかった訳」


 それって……それってぇ……。


「つまりそれは……お前への未練だ」


 あああ……。

 涙がちょちょ切れそうになってきた。


「なのにお前は僕の古傷をごりごりと。ったくなんてやつだ」


 彼はほんとにつらそうな顔で言う。


「ええええ……あのそれって……あわわわわわ……」


 そして、私を指差した。


「お前のせいだ。パンドラの箱を開けた、お前が責任を取れ。この僕の、この気持ちの責任を取れ。お前に苦しめられたこの二年あまりの責任をな!」


「せ、せ、せせ責任ってあの……あのあの……二年って……なに」


「僕が進路を決めて、諦めるって決めてからだ。好きになったのはずっと前だけど」


「……前、って……いつ」


「小学校から。つまり、ここに住むようになってから、ずっと」


「えええ……十年もってこと?」


「僕は十年越しの気持ちを捨てたんだ。それをお前が蒸し返した。だから責任を取って僕と結婚してもらう。単純な話だよ」


 もう失うものはない、そんな潔ささえ感じる笑みを浮かべながら彼は言った。


「たた、単純って……」

「それに、事前に承諾もらってんだよ僕は」

「まさか……子供のたわごとだよね?」


「そう。話はやいじゃん。だから、お前の分別がつくまで待ってた。

 だけどお前は僕を無視するし……まあ、これは誤解だと分かったからいい。それに彼氏まで出来た。……これも誤解だからいいとする。

 遠距離恋愛になるからと身を引こうとした。これは僕の判断だから仕方ない」


 彼はいままでのうっぷんを晴らすかのように、淡々と、しかしよどみなく語った。


「だが、まるまる一年間、視力のせいで存在を認識出来なかったとしても、一切のアプローチもなく完全無視されたら、普通傷つくよな? この多感なお年頃で難しい受験も控えたこの僕が、一体どういう気持ちだったかお前に分かるか?」


 私は、追い詰められた小動物みたいな気分だった。

 私が彼を苦しめた張本人だったなんて――。


「……そんな……ぜんぜん知らなかった……。ごめん」


「久しぶりに会ったお前が、唐突に絵なんか始めるとか言い出して、もしかして僕が恋しくなったのか、なんて期待させやがって……イライラさせやがって……」


 言いたいことを吐き出したせいか、ちょっと落ち着いた彼は、すこし冷めたカプチーノをぐいっと飲んだ。


「それは、その通りかもしんない」

「え?」


「ズバリそれだよ……。

 でも、たったいままで自分でもわかんなかった。

 受験終わって、気付いたらあんたいなくなってて、ぽっかり穴が空いたカンジになって。だから、絵やろうって……。

 ……。

 そっか。

 恋しかったのか。

 なんだ。そっか……」


「気付かなかったとか、バカだろお前」

「なにそれ」

「まだまだお子様だな」

「ちょ、なにバカにして」

「普通女子の方が色気づくの先だぞ、おま」



 彼はちら、と周囲を伺うと、メニューで隠しながら――。

 触れるぐらいのキスをした。



 私は何が起こったのか理解出来ず、ただ固まっていた。

 だけどあいつは、うれしさでとろけそうな、そんな顔で。



「無くしてから気付くなんて、バカなやつ」

 彼はふん、と鼻で笑った。



 ――この、この私が、誰かに惚れられるなんて、キスされるなんて、そ、それもよりによって、恋愛感情のかけらもなかったこの男に!?

 べ、別に嫌いなわけじゃないし、それはそれで悪いとは思わないし、こいつの家は金持ちだし、付き合いも長いから気兼ねもないし……って、そういう問題じゃ……。



 そんな大混乱な私を見透かしてか、 彼は指先で私のおでこをツン、と突いた。


「いたっ。なにすんのもう」

「やっぱお前は、僕がもらってやらないとダメだな」


 彼は両手で頬杖をして、ちょっとねっとりした笑顔で私を見ている。


「ファ、ファーストキスなのにっ、なに! なんでこんなとこで!?」

「ははは。知らないの?」

「……なに」

「二度目だぞ。お前とキスすんの。前回はお前からだったんだが」


 うそお………………。

 頭のてっぺんまで血が昇っていくのをかんじた。


「責任取ってくれよな」


 見たこともないような妖艶な顔で、彼がささやいた。


「は、はい……」



                  ☆



 彼は、頭がクラクラしている私を連れて、駅ビルのジュエリーショップに入った。

 何が何だかわからないうちに、気付いたら私の指にはリングがはまっていた。


「さすが……金持ちのすること、わかんない……」


「バカ。目の届かないところに置きっぱなしになるから、首輪をつけたようなもんだ。それにこれ、小遣いで買えるぐらいだぞ」


「小遣いのケタ、違うし」


 ジルコン入りのシルバーペアリング、一組で15000円するんですけど……。

 よけい頭がクラクラしてきた。


「んじゃ、行くか」

「どこに」

「どこか。二人っきりになれる場所に」


 目の前の婚約者は、満足そうに笑みを浮かべて、私の手を握った。




 二人の距離。

 いまは、0センチメートル。


 そして、これから、何度も何度も、わたしたちは、0センチと数万センチを繰り返していくのだろう。


 だけど不安はない。

 こいつなら、きっとなんとかしてくれる。

 そう、思えるから。


                                   (了)

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