「ちょっと、めんつゆ買ってきてくれない?」
ママがドアをノックした音で目が覚めた。
気付いたら、机で寝落ちしてたらしい。
「めんつゆ?」
「買うの忘れちゃったのよねえ。はい、これ。急いでるからそこでいいわ」
「ふわぁい……」
ふらふらと日の暮れた外に出た私は、ママから渡された財布をエコバッグに入れ、自転車のハンドルにぶら下げた。
前カゴに入れなかったのは、一応の防犯教育のなせる技で。さいきんこのへんでも、ひったくりとか増えてるって、町内会の掲示板に貼ってあった。
ママの言う『そこで』とは、つまり昼間寄ったコンビニのこと。
スーパーのほうが幾分安いけど、往復で買い物時間も含めて二十分はかかってしまう。今晩はそうめんらしいんだけど、もう天ぷらが揚がってるそうで。
麺なんてすぐ茹で上がるから、晩ご飯は実質、私のめんつゆ待ち。
自転車だからすぐ到着。
自転車置き場はほぼ満員状態。なんとかあいてる場所を見つけて、前輪をねじ込む。カギを掛けていると、すぐ隣の自転車から、シャカッと、カギを外した音が。
「よう」
ふと声を掛けられて、驚いて顔をあげると、目の前にあいつのむっとした顔が。
その距離、15センチ。
「ぎゃッ! ち、ちかいよ!」
「急に頭を突き出してきたの、おまえだよ。なに言ってんの」
「え、あ、そう……」
「それ」
「え?」
「買い物袋」
「あー……エコバッグ?」
「それ。すれ違いざまに引っぱって、自転車倒すやついるからやめろ。父さんの会社の人、それでこないだケガしたんだと」
「え……マジ」
「そういうの、前カゴに入れて防犯ネットしろ。100均でも売ってるから」
「あ……うん。こんど買うよ」
「じゃ」
それだけ言うと、彼はすっと自転車を引いて、駐輪場から去って行った。
「あ……」
そういえば、あいつ。
カゴにそのままペットボトル入れてた。
あの、紅茶――。
めんつゆを買って、なんとなく自転車を押して、だらだら自宅に戻る。
歩いてるさいちゅう、あの紅茶のことばかり考えてる。
――なんで、あれ飲んでるんだろ。
すごく気になるけど、だからといって当人に聞くのも気まずい。
彼のSNSアカウントはなにも知らない。
携帯番号は知ってるけど、一度も掛けたことがない。
この町で、地続きの場所でしか、交流したことがなかった。
いまさら、あいつに直接なにかしらのアクションを、それも、こっちから起こすなんて、……できっこない。
気付いたら、本当にいま気付いたんだけど、私とあいつの間は、とてつもなく遠くなっていた。
いつも、すぐ手のとどく距離にいたのに。
肩が触れあいそうな、そんな距離。
たぶん、15センチ……くらい。
そんな距離にいたのに、なんで私は忘れることが出来たんだろう?
その答えは、家の前に着いたときに出た。
「そっか……。勝手についてくると思ってたから、前しか見てなかったんだ」
いつも自分のことしか考えてなくて。
視界に入らなくなったことにも気づけなくて。
いつの間にか彼は遠くの街に行ってしまって。
――自分の後ろをついてくる弟分はもう、いなくなっていたんだ。