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第34話 目が合う

 この日、梓藤は医務室へと顔を出した。人生で二度目だ。

 あの榎本という医師は、もう己のことなど覚えていないだろうと思いつつ、受付をしてソファに座って待っていた。すると名を呼ばれたので、診察室へと入る。

「随分とお久しぶりですね、梓藤さん。また誰か亡くなったの?」

「ああ、日常的に誰かは死んでいる。今回は俺の相談ではなくて、診てほしい人間がいて、相談に来たんだ」

「ふぅん。それなら予約を自分で取るのじゃなく、連れてきてくれたらいいのに」

「それが難しいんだ」

「何故?」

「……ちょっとな」

「まぁいつか君に言われた通りでね、僕も暇だから、聞くくらいは出来るよ。サボれるし。うん。雑談を診察に数えれば、サボりたい放題だけど。ただ雑談には一応ね、療法としての名前もあるんだけどね」

 榎本はそう述べると立ち上がり、窓際のオブジェかと思っていたコーヒーサーバーから飲み物を淹れ、カップを二つ持って戻ってきた。片方を、梓藤に渡す。

「それで?」

「実は……自殺願望がある奴がいて」

「どの程度の?」

「程度?」

「たとえば、仕事で過失を犯してもう死んでしまいたい程度から、実行しかかってるレベルまで様々あるんじゃないかな」

「分からない。口にすら出さないんだ、死にたい、と」

「? じゃあどうして梓藤さんは、その相手が自殺願望があると思ったの? 聞いたわけでも見たわけでもないのなら」

「そ、その……日記を読んでしまって」

 梓藤は咄嗟に嘘を捻り出した。すると榎本が、カップを傾ける。

「じゃあそういう事とし、梓藤さんの言葉が正しいとして話を進めるなら、まずは自殺を阻止することが必要だから、入院措置となる。この部屋で君に何かを伝えたとしても、阻止は難しいからね。物理的に何も出来ない。これが一番重篤な場合かな」

 榎本の淡々とした声を聞きながら、梓藤はカップの中身を覗きこむ。

「それが出来ない場合は?」

「そうだねぇ、つきっきりで見ているとか?」

「それも出来ない」

「誰かに見ていてもらうとか?」

「たとえば?」

「それこそ専門の病院。あー、それが出来ないんだっけ? そうだなぁ……ちなみに、なんで死にたいの? 理由があるの?」

「……痛いらしい」

「なにが?」

「……幻肢痛と言っていた」

「へぇ、静間警視が?」

「特定するの、止めろよ本当」

 小声で梓藤がぼやくように言うと、無表情のままで榎本が腕を組む。

「難しい。それこそ僕には無理。だけど、その症状があるなら、既に専門家に診てもらってると思うよ。こちらで口出しする事じゃない」

「……そうか」

 やはり榎本は嘘はつかないようだと判断しつつも、ふと、本当にそうなのかと考えて、それとなく梓藤は指輪を外した。

『まぁ、マスクの捜査は過酷なんだろうな。僕もマスクの研究所にいた時の記憶はトラウマものだしね。マスク分離実験で、死刑囚にマスクを人為的に接着させて、脳の構造や身体構造の変化を調べるために、上から順にのこぎりやメスで開いていって……時には脳や臓器を弄ったもんなぁ。人工的に管理されたその状況下でも厳しいものがあったのに、毎日外で本物のマスクと殺りあってたら、幻肢痛なんかなくても、一般人なら死にたくもなるね。僕だったら、絶対にお断りだ。閑職といわれて薬の配達係までやる方が絶対にいい。ここに配置換えになった時、僕は泣いて喜んだもんなぁ』

 そう考えながら、榎本は一つ一つの光景を脳裏に思い浮かべていた。そのせいで、追体験してしまったかのごとく、被験者の悲鳴まで耳に声として聞こえてきた梓藤は、研究所の残忍さを理解し、青ざめた。以前、生存者がいたら殺してやれと伝えたが、そうしてやる事がいかに優しいのかを思い知らされる。最早、マスクがどうのという問題ではなく、生命に対する冒涜といえる行為の数々が研究所では行われていると知ってしまった。

「梓藤さん?」

「っ」

「どうかした? すごい汗だけど」

「……あ、ちょっと目眩が」

「そこにベッドがあるけど? ビタミン剤でも打ってあげようか?」

「いや、いい。今日は帰る」

「そう。じゃあ今日の診察はこれで終わりにしよう」

 梓藤は頷き、カップを返してから、診察室を出た。榎本にもこういった事情があったのかと驚きつつ、その反面で、何も事情が無い人間の方が少ないかとも考える。

「それにしても、研究関連の施設には、近づかない方がいいな。あのライオン無事だといいな……」

 思わず呟いてから眉間に皺を寄せて、梓藤は目を伏せる。

 撃ち殺そうとしていた対象の無事を祈った自分が許せなかった。ここのところ、少し自分がたるんでいる気がする。

「もっと気を引き締めないと」

 ――そうでなければ、また何かを失うかもしれないのだから。

 一人頷きながら、梓藤は本部へと戻った。

 すると静間の姿が無かった。

「静間は?」

 今は、昼休みが終わった後の勤務時間だ。静間が戻っていないというのは珍しい。西園寺は先程宝田を連れて、剣道の稽古に行くと話していたので問題ない。梓藤本人も、今日は遅れると皆に伝えてあった。というのは、昼に榎本と打ち合わせをして、可能なら帰り際に静間を診てもらおうと前もって考えていたからだ。

 結果として梓藤は、残っている嶋井に問いかけたわけだが、嶋井は不思議そうに梓藤を見た。

「静間さんなら、用事があるから少し外すって。梓藤さんには伝えてあると仰ってましたが?」

「いや、聞いていないが……メッセージか?」

 仕事用のスマートフォンを取り出し、確認してみたが、特に何も連絡は着ていなかった。首を傾げた梓藤は、それから何気なく正面の窓を見た。理由があるとすれば、それがたまたま正面にあったからとしかいえない。ただの偶然だ。

「あ」

 だが、落下して、窓の前を通り過ぎていったものを見た瞬間、梓藤は間抜けな声を出した。バチリと慣れ親しんだ泣きぼくろがある目と、視線が確かにあった。そこで初めて、梓藤は今落下していった物体が、人間だと気がついた。

 気づいた直後に、ぐしゃりと潰れる音と、なにかが折れるような音が、微かにだが聞こえた気がした。あるいはそれは、気のせいだったのかもしれない。慌てて梓藤は窓際に歩みより、窓ガラスを開けた。そして下を見れば、そこにはひしゃげた体があって、本来の人間の構造とは著しく違う形に曲がった二つの脚と、一つの腕が、じわじわとアスファルトを染めていく血で濡れている。静間だった。思わず頭上を見上げる。フェンスの一部が無い。そう気づいた瞬間、窓枠にのせていた両手の指がガクガクと震えだした。すぐにその震えは、全身に感染した。

「梓藤主任? 一体どうし――」

「すぐに救急車を手配してくれ。屋上から、落下した様子だ」

「え!? 自殺ですか!? 大変だ!!」

「……真偽が分かるまで、そういった言葉は控えるように」

「は、はい!」

 ダイヤルを押しながら頷いた嶋井が、救急車を手配した。梓藤が再び窓の下を覗けば、事態に気づいた他の人々も、そちらに集まり始めていた。梓藤は唇を噛んでから、嶋井に言った。

「俺も少し確認に行く。ここで待機を頼む」

「か、確認……?」

「――ああ。知った顔の相手かもしれない。その……なにせ、狭い警備部だからな」

 いつか榎本に言われた台詞を、自然と口から放って誤魔化し、梓藤は一階の外を目指して走った。立ち止まったのは、誰かの声が響いてきた時だ。

「あーあ。こりゃ助からねぇというより死んでるな。首の骨が折れてる。確かこの腕、一係の静間だろ?」

 同意する声が方々で上がっていた。

 鬱屈とした気持ちで梓藤が進むと、気づいた周囲が道を空ける。

 梓藤もまた、もう死んでいるという感想は正しいと思った。

 だとするならば――静間が最後に見たものは、あるいは先程目が合ったのだから、自分なのかもしれない、と、そう考えた梓藤は足下が崩れ落ちそうになった。

「梓藤さん」

 そこへ声が掛かる。反射的に顔を向けると、西園寺が立っていた。

「一度、中へ戻りましょう」

「……このままにしておくわけには」

 梓藤がそう言った時、隣を通り過ぎる白衣が見えた。

「このままにしておいていいよ。しておいた方がいいよ。鑑識が調べるだろうし、その前に僕が死亡の確認もするし」

「榎本……」

「ここまで緊急性が高いとは思っていなかった。僕にも責任がある。とりあえず、一係の本部に戻ったほうがいい。その方が、君の居場所も分かるから、誰にとっても都合がいい」

 冷静な榎本の声を聞きながらも、梓藤が立ち尽くしていると、西園寺がその腕を引いた。

「ここにいては、邪魔になります」

 西園寺の声に小さく頷き、梓藤はその場を後にした。

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