その日の帰り道、無表情でスーパーに立ち寄った坂崎は、イチゴジャムとブルーベリージャムとマーマレードジャムとバターを購入した。他には食パンを。
どこか青ざめた様子で帰宅した坂崎は、他のおかずを用意してから、透の帰りを待った。
「ただいま」
「おう、おかえり」
にこやかに出迎えつつ、いつも以上に明るくなってはいないか、不自然ではないか、と、坂崎は考える。もしイチゴジャムを選んだならば――やはりどう頑張って忘却しようとしても、昨日しっかりと見た上に、状況証拠もあるどころか、この存在は自分の息子を殺めた怪物だと思い直し、射殺するつもりだった。
「今日はパンなんだ? 俺ブルーベリーがいい」
しかし拍子抜けするほどあっさりと、ブルーベリーが選ばれた。思わず呻きそうになったが、それを堪え、坂崎は深呼吸をした。やはり、思い違いだったのか? だとすれば、息子を手にかけるところだった。ドクンドクンと心臓が煩い。それでもなんとか平静を装い、その日は二人でパンを食べた。
――それらしき片鱗を見せたら、殺害すればいいだろう。
坂崎はそう考えた。気づかなかったとしても家に置いておいたら、自分自身も排除対象だが、それは別段構わなかった。妻も息子もいなくなったのだとしたら、特に未練もない。だが、息子は今目の前にいるかもしれない。
坂崎はなんとか己を納得させようと、躍起になった。
そうして、三日、五日、一週間、次第に時が流れ、既に初夏が訪れていた。
「あのね、父さん。小さい頃、母さんと三人で、テーマパークに行ったでしょ?」
「ああ、よく覚え……」
果たして覚えているのか、マスクが記憶を読んでいるのか。
最近では、坂崎は考えることがある。いつか、マスクが復讐する存在なのではないかと考察した記憶を。もしかしたら、透は復讐で殺され、マスクに成り代わられてしまったのかもしれない。
「それで、あの時買ったオルゴール! 掃除をしていたら部屋から出てきたんだよ」
「っ」
坂崎は硬直した。それが事実ならば、それは本物の透が持っていた品だという事だ。もし目の前の存在が本物であっても、そうでなくても、それは変わらない。そのオルゴールは、何も欲しがらなかった透が唯一欲して、坂崎が買い与えたものだ。後にも先にもその一度しか、遊びに連れて行ったことはないし、何かを買ってやったこともない。
「……」
それを聞いたら、ふと心が軽くなった。駄目な父親の自覚はある。けれど、駄目なりに、してやった事もあったのだなと、そう考えると泣きそうになった。
「どうかしたの? 父さん」
「いいや、懐かしいと思ってな」
「僕がついてるから。いっぱい思い出は、これからも作れるよ。僕は父さんが大好きだよ」
明るく優しいその声音が響いた瞬間、坂崎の最後の理性がブツンと途切れた。
それまではどこかで、透を殺したマスクだと、確かにそう考えていたはずなのに。
――今の息子が、優しくて辛い。たとえ本物が、殺されたのだと分かっていても。
こうして相手がマスクだと確信した状態での、同居開始が始まった。やはり見なかったフリは出来ない。確かに見た。だが、だからなんだ? ここでこうして、優しく笑って生きている、息子の顔をして、息子の記憶を持つ、息子と同じ声の……マスクだ。結局は、人間の遺体に取り憑き、脳を操作して動かしているだけにすぎない、顔だけの存在。でも……それは上辺を剥がしてしまわなければ、息子と同じだ。
そう考えながら、この日坂崎は里芋の皮を剥いていた。考えごとをしていたのが悪かったのだろう。グサリと、親指の付け根を包丁で切った。
「っく」
痛みに呻いて、右手で患部を押さえる。
「父さん!」
すると透の驚いた声がした。反射的にそちらを見て、坂崎は後悔した。透の瞳には、ギラギラとした、頻繁にマスクが見せる光が宿っていた。食事を欲している時の瞳だ。取り落とした包丁の位置を確認すれば、床だ。手を伸ばして武器にするには遠い。銃はコートの中、そこの椅子に掛かっているが、この位置からでは手が届かない。思わず坂崎は後退る。どんなに目の前の透がマスクであってもいいと自分に念じようとも、本能的な恐怖と、捜査官としての経験が、自分を守る武器を探させる。一歩、二歩と、坂崎は後退る。目の前からは逆に、一歩、二歩と、透の姿をしたマスクが近寄ってくる。
その瞬間、透が床を蹴った。
そして坂崎が患部を押さえていた右手首を片手できつく握り引き剥がすと、左手の口で血が滴る傷口に齧りついた。血を舐め取られ、吸われ、傷口を舌でねっとりと舐められる。軽く歯が立てられている。いつ噛みちぎられてもおかしくはない。またマスクは、一度血を舐めれば、さらに欲する、一度肉を噛めば、すぐに次を欲するという習性がある。このままでは、自分は喰い殺される。
坂崎がそう確信した時だった。
ハッとしたように、透が口を離した。
「あっ、えっと……」
それから透が、不意に苦笑した。その姿を見て、信じがたい気持ちで坂崎は思案する。
「きゅ、急にごめんね?」
「あ、ああ……でもな、透。傷口は舐めれば治るというのは、デマだ」
「――えー? そうなの? 信じてたよ、今さっきまで」
誤魔化すには無理がある坂崎の言葉を、笑顔でマスクが受け入れた。
白々しい事この上なかった。
「あ、父さん。僕ちょっとこの後、友達に忘れ物を届ける約束をしているから、少しだけ、出かけてくるよ」
透の顔で笑ったマスクの目が、またギラリと光った。恐らく、先程の血の量では足りずに食事に行くのだろうと、坂崎はそう思ったが止めなかった。きっと、自分をこの場で殺さないのは、それだけ擬態がしやすいからだろう。学校生活は、紛れるにはうってつけだ。
――本来、誰かが代わりに喰い殺される事を、坂崎は望んだりしない。
だが、今は違った。
自分と透の顔をしたマスクの平穏な生活が維持できるのならば、他の事柄などどうでもよく思えた。
翌日の夜坂崎は、ミネストローネを作っていた。
そして完成後に、包丁をじっと見てから、左手の薬指の尖端に傷をつける。血が、ぽたりと鍋の中に落ちていく。それをかき混ぜてから、坂崎は指に絆創膏を貼った。本日の付け合わせは、イチゴジャムをふんだんに使ったケーキだ。
「すっごく美味しいね!」
食事時、透が言った。
「これ気に入っちゃった。明日も食べたい。ミネストローネ! ねぇ、作ってよ」
「ああ、いいぞ」
「だけどねぇ、これ、何か入れた?」
「……ちょっと、一風変わった輸入調味料を見つけてな」
「へぇ」
透の視線が絆創膏に向いたものだから、ゾクリとして坂崎は手をテーブルの下におろす。
「あ、デザートもすごく美味しい。俺、デザートは毎日これが良いなぁ」
そういうと透が、今度はじっと坂崎の目を見て、柔らかく笑った。
――ああ、あちらも、気づいてる。
坂崎にはそれがよく分かった。坂崎が気づいている事に、透もまた気がついたのだ。そう、もうマスクではなく、この者こそが透であり、坂崎は、透の喜ぶことならば、全てしたいと考えていた。
以後、デザートとスープが毎日同じになった。
そんなる日だった。
「ねぇねぇ、父さん? 前に言ってた輸入品の調味料、もう少し多めにしたらどうかな? その方がコクが出て美味しいと思うんだよね」
笑顔でそれを聞き、頷いた翌日から、坂崎が鍋に垂らす血の量は増えた。そして増加の一途を辿っていった。坂崎は、幸せだった。美味しそうにミネストローネを飲む透を見ている事が。その血を飲んだ後、ふらりといつも透は消えるようになったが、何処へ行くのかと咎めるようなことは、一度もしなかった。