「よーし、お疲れ」
坂崎が今日も定時で帰ろうとした時だった。梓藤が顔を上げる。
「あ、坂崎さん」
「ん? どーした?」
「最近、坂崎さんの家の方で、マスクだとはまだ断定出来ないんだけど、殺人事件が続いてる。遺体の損壊が激しくて、一部の肉片や臓器が無いのが、喰べられたからなのか、殺人犯の仕業なのかは分からないが、マスクだった場合、至急家から対応に出てもらう事になる」
「ああ、分かった。マスクの方がまだマシだな。殺人犯となると――……」
自分達もそうだ、と、以前ならブラックジョークを放っただろう。
だが、霊安室で聞いた『人でなし』という言葉が脳裏を反芻し、声が喉で閊えた。
もう今は本当に、透には、含むところはないのだろうか? いつか梓藤が声をかけてくれたが、自分こそ透の気持ちに寄り添うべきなのでは無いのかと、坂崎は瞬時に考えた。
「坂崎さん?」
「あ、いや。帰りに買うもん思い出してた」
「幸せそうでなによりです」
こうして梓藤をはじめ、他二名にも見送られ、坂崎は本部を出た。
そして帰路につくと、丁度玄関から出てきた透が見えた。
「……」
今日は恐らく、家を空けるのだろう。だが、と、ふと思う。定期的にいなくなるが、果たして何処へ行っているのか。危ない連中と付き合いがあったら、止めなければならない。いいや、そういった普通の人間ならまだしも、今日はマスクか殺人犯がいるかもしれないと聞いた直後だ。万が一被害に遭ったら危険だ。そう考えた坂崎は、無意識に尾行を開始していた。
そして少し歩くと透が角を曲がった。気配を押し殺して、透が消えた先へと顔を出し、坂崎は目を見開き、慌てて右手で口元を覆った。そうしなければ、悲鳴を上げそうだった。見ているものの理解を、全身が拒んでいる。
続く裏路地には、倒れ込んでいる人間の姿があった。
どうやら、もう事切れているようだ。それは、ナイフを手に、壁に背を預けている男が見えたからでもあったが、それ以上に、ぐちゃりぬちゃりと音を立てて、右手を押し込んで、胸から手に取った肉片を、貪るように口へと運んでいる透が見えたからに他ならない。
硬直してから、一歩、二歩と、後ずさり、その後は全力で坂崎は家まで走った。
そして鍵をかけた時、全身を震えが襲い、歯がガチガチと鳴っている事に気がついた。何体も、人間が食されている姿は見てきたし、貪っているマスクも見てきた。だが己の息子が血肉を啜っている光景など、勿論見た事はない。
――そうだ、マスクだ。
アレは、マスク以外ではあり得ない。横にいた男が協力者なのか、高等知能を持つ別のマスクなのかは分からないが、少なくとも透の姿をしていた存在は、マスクだ。
靴を脱いで家に入った坂崎は、着たままのコートのポケットに排除銃があるのを確認し、白い手袋を両手に嵌める。殺るならば、帰宅して扉を開けた瞬間が望ましい。
そう考えて、ダイニングキッチンの柱に、ピタリと背を預け、天井を見上げる。
いつから、成り代わっていたのだろう?
その疑問は、すぐに消失した。態度が急変した日時は明確だ。自分の料理を、美味しいと言って食べてくれたあの日。高等知能を有するマスクは、人間の食事もとる上、それだけではなく、記憶を完全に読み取り、擬態に有利な環境を作り出す。それには、今の状態の方が、都合良く適応できたと言うことなのだろう。
――マスクと息子の区別さえつかなかった。
――これでは、嫌われて当然だ。
そう考えた坂崎は、息子を殺害したとおぼしきマスクの帰りを待った。すると二時間ほどして、玄関の鍵がまわる音がした。今、だ、と。坂崎の理性が叫んだ。だが――。
「ただいま、父さん」
その声を聞いた瞬間、坂崎は両手で銃を握ったまま、硬直した。声を聞いたら、決意が揺らいだ。
息子の声なのだから、当然だったのかもしれない。理性ではそれがマスクの声だと理解しているのに、愛おしい息子の声に、撃つなと感情が言う。
――だが、あれがマスクでないのはありえない。排除対象だ。
――でももし、見間違いだったら?
「……っ」
――きっと、見間違いなんじゃないのか?
それは優しくも残酷で、楽な選択肢を与えてくれる言葉だった。
「おかえり」
コートへと銃をしまい、笑顔で坂崎は振り返った。
見間違えなどあるはずもなかったが、坂崎は、その可能性を捨てられなかった。
その日は、慌てて夕食の準備をした。
だが本日ばかりは、坂崎も眠れず、万が一に備えてずっと排除銃を握っていた。
しかし翌朝朝食を作って待っていると、美味しそうに食べて、普通に通学していく姿を目にし、やはり見間違いだったようにも思えてきた。
こうして、坂崎は本部へと向かう。
すると梓藤が、溜息をついた。
「また殺人なのかマスクなのか、怪しい遺体だ。喉をナイフで切り裂かれているから、それは人間の仕業なんだろうとは思う。マスクの偽装で無ければな」
そこから梓藤が状況を語り始めた。坂崎は昨日目撃した光景を、意図的に忘れた。