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第26話 ゴミ箱

「よぉ、おはよう」

 坂崎の声に、既に本部にいた梓藤が頷く。

「おはようございます」

「今日みたいな雨だと、やる気が出ないな」

 世間話をしながら、坂崎が座る。坂崎は、いつも通りだ。定時を過ぎてすぐに帰るようになったが、仕事量はきちんとこなしているし、問題はない。それが主任としての判断であり、同僚の一人としては、まだ家族を亡くして一ヵ月しか経過していない上、子供もいるのだから大変だろうという考えもある。

 だが見ているかぎり、坂崎には悲壮感などまるでない。

 亡くなった直後も無かったが、死を事前に覚悟していると、このように受け止められるのだろうかと、梓藤は時折疑問にもなる。眠そうにも見えない。食欲もどちらかといえばありそうだ。いつか自分は弱って医務室を紹介されたが、弱い所が全く見えない坂崎に勧めるのも躊躇われる。

「坂崎さん」

「ん?」

「その……これは主任として聞く。無理はしていないか?」

「は? 無理? 何に関してだ?」

「蒸し返すようで悪いが、奥さんのこと……」

「ああ」

 梓藤が平静を装って聞くと、坂崎が笑顔で大きく頷いた。

「悪いな、気を遣わせて。だが、本当に平気なんだよ、分かるかい?」

「分からない」

「俺には息子がいるからな。家内の分も、これから愛してやらないとならないからな。落ち込んでる暇なんてねぇんだよ」

 快活な笑顔で坂崎が述べたので、そういうものなのかと梓藤は頷いた。

 本部にいる時、このように坂崎はいつも明るく、以前の通りで何も変わらず、頼りになる大人だった。

 ――だが。

 帰宅して夕食を作る時、坂崎の瞳は日に日に暗さを増し、表情が無くなっていく。

 作っても、作っても、作っても――どうせそれらは、ダストボックスに生ゴミとして放り投げることになると、そう理解して作る料理は、空しさの象徴だ。それでも用意をするのは、もしかしたらいつか食べてくれるかもしれないと期待しているからだ。

 本日は少し早く、七時過ぎに透が帰ってきた。

 慌てて坂崎は、明るい表情を取り繕う。

「透、今日はハンバーグを作ったんだ、良かったら――」

 だが虫螻を見るような顔をした後、無言で透は階段を上っていき、すぐに扉が閉まる音が響いた。笑顔のままでダイニングキッチンへと戻る。それは、万が一透が顔を出した時に備えてだ。けれどそんな事は過去に一度もない。坂崎は一人になってから、笑顔を消す。

 頬杖をついて一人で座っていると、すぐに用意した食事が冷め始めた。

 暫くそれを眺めたまま、ぼんやりと座っていた坂崎は、脳裏では妻の事を考えていた。もっと何か、できる事は無かったのか、と。

 その後冷めた食事を、温め直す気も起きないまま一人で食べた坂崎は、もう一人分をゴミ箱に捨てた。

 翌日、ゴミを出してから本部に行った坂崎は、いつもの通り笑顔で仕事を開始した。この日は、三体ほど屠った。人間は、二人。妻を亡くして苦しいのに、他人ならば、なんとも思わなかった。

 さてこの日、帰宅した坂崎は、いつもの通り二人分の食事を、諦観しながら作っていた。

するとまだ調理中だというのに、早い時間に透が帰ってきた。驚いて振り返ったのは、玄関の開閉音がしたからではない。

「ただいま」

 ダイニングキッチンに顔を出した透が、自発的にそう述べたからだ。その声音は明るい。咄嗟のこと過ぎて、坂崎は虚を突かれた。今朝までとは態度が一変している。

「ああ、おかえり」

 それでも笑顔を必死で浮かべ、首を傾げつつもまな板へ視線を戻しながら伝えた。

「今日は鯖の味噌煮を作るんだ。透も一緒に――……」

 言いかけて、坂崎は唾液を嚥下した。いきなり一緒に食べようと話したら、図々しいと思われて、折角の会話の、仲直りの緒がなくなってしまう気がして怖い。

「うん、食べたい。俺、父さんの料理って、考えてみると食べたこと無かったなぁって」

「……あ、ああ。悪い、こえrまでは仕事で忙しくて……い、いや、これは言い訳だな」

「ううん。お仕事が忙しかったのは分かってるつもりだから。母さんがいつも言ってた」

「そう、か……」

 頷きつつ、内心では首を傾げ、坂崎は宣言通り鯖の味噌煮を作った。

 そして信じられない思いで透の前に置き、自分の分もテーブルに置いて席につくと、それまでそこに座って雑談に興じながら待っていた透が、箸を持って満面の笑みを浮かべた。

「いただきます。うん、美味しい!」

 その言葉に目を丸くした坂崎は、息を呑んでから天井を見上げた。完全に涙腺が潤んでしまったのだが、それに気づかれたくなくて、涙を乾かす事に躍起になる。その後も透は、あれやこれやと感想を述べながら、他に用意してあったひじきやサラダも全て食べおえると、自分の部屋へと戻っていった。

 皿洗いをしながら、坂崎は今度こそ泣いた。嬉し泣きだ。

 努力が向かわれたのだと、想いが伝わったのだと、そう感じたら胸が満ちあふれてたまらなくなった。やはり親子の絆が、確かにあったのだと確信した。

 以後、毎日透は、坂崎の作る料理を喜んで食べ、また必要時以外も雑談にダイニングキッチンへ来てさえくれるようになった。ただたまに、やはり帰宅が遅い日はある。それが心配ではあったが、当初のどうなる事かと不安だった父子生活が、次第に順調に軌道に乗りはじめたと思い、心から坂崎は、喜んでいた。

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