梓藤達と別れた後、坂崎は急いで妻が入院する病院へと向かっていた。
電車が奇妙なほど遅く感じ、降りてから駅で拾ったタクシーの速度はさらに緩慢に思えた。両手を組み、額にあて、キツく瞼を閉じる。
朝――先程のビルに出立前、本部にいた際にかかってきたプライベート用のスマートフォンへの着信。それは、病院からのものだった。危篤の時にのみ、かけてもらう事になっていた電話だ。着信音でもそれを理解したし、画面に表示された登録名でも病院からだと分かった。あの音が鳴る事がないようにと願い、同時に鳴ればすぐに分かるようにと、敢えて気の抜けた音を設定したのは二年前、それは妻自身が行った事だ。笑いながら、まだまだ大丈夫だと妻はいい、そうだなと坂崎も笑顔を返した。その時から、既にチクりと胸は痛んでいたのだが。
その年、昇進の話と主任になってほしいという打診があった。だが、看病を理由に、どちらも坂崎は断った。そうなれば、ただでさえめったに見舞いに行けないというのに、ほとんど会う事ができなくなるだろうと判断したからだ。実際梓藤を見ていると多忙極まりないので、その件に後悔はない。だが、だからといって日々の任務が減るわけではない。今だってそうだ。
ずっと妻の事を考え、すぐにでも病院へ行きたいと願う思考を、無理矢理心の内側に押し込めて封をし、マスクの処理に当たった。おかしなもので、無関係な他人をいくら殺せても、大切な家族の死は到底受け入れられそうにも無かった。
何度か移動中に、特にタクシーに乗っている現在、病院に電話をかけ直そうかと思案している。だが、落とした電源を入れる勇気が出ない。
これまで付き添いは、まだ中学生の透が一人で行っていた。今も、病院にいるのだろう。
――朝、病院に駆けつけなかった理由が、一つだけある。
内心でそれは言い訳かもしれないと思いつつも、唯一坂崎が見つけ出した理由だ。
妻の両親は、マスクに殺害され、全身を喰らわれたのである。
だから妻はいつも坂崎に、仕事を頑張って欲しいと、みんなを守って欲しいと、そして悲しい被害が少しでも減るように頑張ってと、何度も繰り返し言葉にしていた。本当に、よく出来た嫁だ。気立てが良いというのは、まさにこういうところだ……自分が、死の淵にいるというのに、他者の幸せを祈り、旦那に仕事に行けというような。ただそれが、逆に残酷でもある。
ただそのため、危篤だと悟っても、目の前に任務があったから、妻はきっと駆けつけるよりも自分が任務を全うした方が喜ぶと考えて、マスク退治へと向かった次第だ。
――いいや、ただ単純に、妻が今際の際だと受け入れたくなくて、病院へいく勇気が出なかったのかもしれない。
自分では、もう何が自分の考えで、本心なのか、混乱してしまい坂崎には分からない。
「無事で……」
無事でいてくれることはあるのだろうかと、何度も考えている。朝の時点で危篤だったので、病院につくのが夜の七時をまわる今、希望を持つべきではないと、坂崎の理性が何度も叫んだ。だが、感情は生きていて欲しいと喚く。
こうして坂崎が病院につき、病室へと向かうと、ベッドはからだった。総合受付で尋ねれば、『ああ、お悔やみ申し上げます』という簡素な言葉が響き、いよいよ顔が強ばった。その後案内されたのは霊安室で、ゆっくりと戸を開けると、中には息子の姿があった。そして、白い布を顔にかけられている女性の体が一つ。体躯だけでも妻だと分かる。
「透……」
坂崎が声をかけると、顔を上げた透が、両目をつり上げて、坂崎を睨めつけた。泣きはらしたように充血している透の瞳に息を呑んだ時には、透に両手で胸ぐらを掴まれていた。背伸びをしている透は、まだ二次性徴を完全には終えていない。
「どうして来なかったんだよ!!」
泣きながら、透が怒鳴った。するとボロボロと透の眼窩から、透明な雫が零れ始める。しかしその表情は、憤怒で歪んでいる。
「どうして……どうしてだよ!! 最後まで、母さんは、待ってたのに」
「っ」
「もうすぐ来てくれるって、そう言いながら死んだんだぞ!!」
それを聞くと、坂崎も泣きたくなった。だが、息子の前でそれは出来ないと考える。自分よりきっと、透の方が辛いはずだと、必死に涙を堪える。
「もうお前の事なんか、父親だとは思わない。この人でなし!!」
そう言うと透は、坂崎を突き飛ばし、霊安室から走り去った。
残された坂崎は、一度大きく深呼吸をしてから、妻の顔に被せられている、白い布を摘まんで、それを捲った。そこには、軽く死に化粧が施されている妻の顔があった。
じっくりとその表情を見て、坂崎は俯いた。
――本当に仕事を優先すべきだったのだろうか?
――本当に妻はそれを望んでいたのだろうか?
ゆっくりと妻の顔へ手を向け、坂崎は遺体の頬に触れる。冷たく硬い。
「待たせて悪かったな……」
ぽつりとそう言葉を零し、坂崎は苦笑した。その瞳は潤んでいて、今だけは、透が出て行ってくれてよかったと、坂崎は思った。眦が涙で濡れたのは、それからすぐの事だった。