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第2話 マスク

 本日は講義が終わってすぐ、高雅伊月こうがいつきは大学から真っ直ぐに帰宅した。

 今日は母が同級会なので、歳の離れた小学生の妹を見ていてほしいと頼まれたからだ。父は単身赴任中である。両親が再婚してから生まれた異母妹の百合ゆりは、まだ小学二年生だ。高雅は大学四年生で、次の春に卒業であるから、十四歳も離れている。

「ただいま」

 小学校からは既に帰宅している時間であったし、玄関には靴があったので、高雅はそう声をかけた。いつもは綺麗にそろえて脱いである靴が、本日は投げ捨てられたようになっていたため、母がいなくて気が抜けているのだろうと苦笑しながら、高雅は妹の靴の位置を正す。

 キッチンの方から、ピチャピチャと音がするのでそちらへと向かう事に決め、高雅は家の中へと入った。

「百合?」

 しかし声をかけてみるが、返事がない。疑問に思って首を傾げつつキッチンの中に入ると、テーブルの上で無心に手を動かし、何かを食べている妹の後ろ姿が目に入った。ランドセルを背負ったまま立っている。

「なにを食べてるんだ?」

 ピチャピチャという水音は、間断なく響いてくる。

 その時、百合がゆっくりと振り返った。高雅は目を疑う。口の周囲がべっとりと赤く染まっていて、テーブルにはイチゴジャムの空き瓶が見える。母が自作して、いくつかのイチゴジャムの瓶が、この家にはあったのだが、それらを全て食べ尽くしたかのようだった。小さな両手も、イチゴジャムで真っ赤に汚れている。

「な、何をして……」

 怪訝に思って、高雅は眉を顰めた。すると天真爛漫なごくごくいつも通りの笑顔を浮かべた百合が、ゆっくりと高雅の方へ歩いてきた。両手を前に伸ばしており、歩く度に絨毯の上へと、イチゴジャムが落ちていく。

「百合……?」

「お兄ちゃんだ。お兄ちゃぁん、お兄ちゃん!」

「あ、ああ。一体どうし――……!」

 不意に百合が絨毯を蹴り、飛びかかってきた。高雅は咄嗟に右腕で、顔の前を庇う。

 すると百合が、大きく口を開けた。

 イチゴジャムでベトベトの口を大きく開けている。唾液が線を引いている。

「おいしそう」

 楽しそうな声が響いた直後、高雅のTシャツから出ていた左の肩口に百合が噛みついた。

 容赦なく百合の歯が、皮膚を突き破ろうとしている。

 咄嗟に両手で押し返そうとした、その時だった。

 銃声が谺した。

 目の前で、百合の頭部が飛び散る。横から側頭部に衝撃が加わったようで、百合の体は左手の壁に激突し、直後落下した。そちらを咄嗟に見た高雅は、陥没した頭部から吹き出ている血と、飛び散った脳を構成していたものが床に落ちているのを見た。飛んでくる血が、高雅の頬に触れる。床を見れば、溢れている鮮血が、先程まで妹の手からポタポタと垂れていたイチゴジャムと、混じり合っているようだった。鮮烈なイチゴの匂いを、この時高雅は急に意識した。右手で左肩を押さえながら、状況を理解した途端、胃から酸味のある唾液がせり上がってきた。直後高雅は下を向き、吐瀉物をまき散らす。現実感が薄れていく。ただただ分かるのは、気持ちが悪いという、その事だけだ。

「大丈夫ですか? いいえ、大丈夫ではありませんよね。僕は警備部特殊捜査局第一係の斑目と申します。あちらは梓藤。僕達が来たからには、もう、大丈夫です」

 そこへ柔和な声が響いた。吐ききったところだった高雅は、口元を手の甲で拭ってから、ゆっくりと顔を上げる。見れば茶色い髪と瞳をした青年がいて、優しげな顔に苦笑を浮かべていた。黒いスーツ姿で、ネクタイの色も黒だ。屈んで、高雅を見ている。

「間一髪でしたね……妹さんの事は、本当に残念です」

「あ……一体……何が……? 妹は、死――っ」

 言いかけて、再び高雅は嘔吐した。その背中を、斑目が摩る。

「妹の百合さんは、帰宅途中にマスクに襲われて、体を乗っ取られていたんです。マスクはイチゴジャムと、人間の血肉を好みます。ですので、排除しなければ……君が食べられていました。守る事ができて、良かったです」

 斑目の声に、思わず涙ぐみながら、高雅は何度か頷いた。

 この世界に、マスクという存在がいるというのは、高雅も聞いた事があった。

 時折ニュースでも、マスクの被害は取り上げられる。だが、イチゴジャムが好物だのといった詳細までは知らなかった。

「廣瀬、ちんたら話してる場合じゃないだろ。その被害者は喰われかけてたんだから、早く救急車に乗せた方がいい。見た感じ、傷も結構深そうだしな」

「ええ。既に救急車は呼んであります。到着を待ちましょう、冬親」

「本当にさすがだよな、廣瀬の手際のよさは」

 梓藤は手に黒光りしている銃を持っていた。その銃把を握ったままで、銃口と高雅を交互に見ている。妹の頭部――いいや、正確には、妹だったモノの命を奪ったマスクの頭部を、銃撃し破壊したのが梓藤だと、高雅は漸く理解した。そして震える声を放つ。

「……妹を、助ける道は無かったんですか?」

 すると梓藤と斑目が顔を見合わせ、どちらともなく頷いた。

 そしてゆっくりと斑目が語りかける。

「ええ、残念ながらありません。顔面にマスクが接着した段階で、人間は体の全てをマスクに奪われます。そのマスクを唯一排除する術は、この排除銃で頭部を撃ち、操作されている脳を破壊する事のみです。既に脳死状態にさせられているのですが、それをマスクは特殊な力で維持・操作し、体を乗っ取ります。そうした機序がある上、マスクは人肉を好むようになるので、人間を害する存在です。要するに、人の見た目をした害獣になるという表現が近しいでしょう。高雅さんのように、親しい妹さんがマスクになった場合は、助ける方策を考えたくなるのは、十分理解出来ます。さながら僕達が、妹さんを殺害したようにすら、感じておられるかもしれない。ですが、それは違います。我々は、市民を守るために、マスクを追跡し排除している警察官ですので」

 穏やかな斑目の声に、高雅は少しずつ平静を取り戻していく。いつしか妹の体から吹き出ていた血が止まっていた。既に己の頬を濡らしてはいない。ちらりと遺体を見る。既に顔は完全に破壊されているため、首から下の体だけの状態だ。絨毯の上の血だまりに横たわっている。

 それからすぐ救急車のサイレンの音が近づいてきた。

 高雅は二人に見送られて救急車へと乗り、近隣の病院へと搬送された。

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